第18話 記憶




 義経が帰ってこない。

 いつもならとっくに帰ってきていていい時間のはずだ。もしかしたら、帰宅途中で何かがあって帰ってこれないのかもしれない。例えば、大雨のせいで土砂崩れに巻き込まれたとか、テロリストに捕まって人質にされているとか、未確認飛行物体にアブダクションされたとか。


「待ってろ義経! 兄さんが助けに行くぞ!」


 脳内で繰り広げられる弟の危機に勝手に盛り上がって玄関から走り出ようとした頼朝を殴って止めた範頼は、呆れた表情で兄を見下ろした。


「落ち着いてよ。弟の帰りが少し遅いぐらいで取り乱す天下人がいるか」

「だって! いつもならとっくに……」

「帰りが遅くなることぐらい今までだって何度もあったでしょう? 義経は居残り常習犯なんだから」


 かわいい弟ではあるが、おつむの作りが大変残念なことはよく知っている。二桁の足し算でさえ間違うことがあるぐらいなのだ。現役大学生である範頼と大学には行っていないものの名門進学校で三年間首席を通した頼朝がいくら教えても成績が上がる様子はない。

 そのため、義経が居残りで帰宅が遅くなるのは割と日常茶飯事だ。

 頼朝もそれはわかっているのだが、今日は何故か胸騒ぎがする。


「居残りならいいんだが……」


 冷静な弟に殴られた頭を押さえながら頼朝がぼやく。

 その時、タイミング良く玄関が開いて、件の末っ子が帰って来た。


「おお! 義経、遅かったな……って、どうしてずぶ濡れなんだ?」


 髪からも服からもぼたぼたと大粒の水滴を滴らせる弟に、兄二人は慌ててタオルを取りに走る。


「お前、傘はどうした? 持ってっただろう?」

「弁慶は? 服の中か? 大丈夫か? ふやけてないか?」


 タオルでがしがしと髪や顔を拭いながら尋ねるが、義経はされるがままで黙っている。


「……義経?」


 制服の前ボタンを開けると弁慶が転がり出たのでそれを受け止めてタオルで拭いていた頼朝は、義経の様子がおかしいことに気づいて眉をひそめた。


「何かあったのか?」


 いつも元気な弟のうち沈んだ様子に、範頼も手を止めて様子を窺う。

 しばしの沈黙の後、義経は微かな声で呟いた。


「……天狗」


 弟の口から出た単語に、兄二人はぎくりとした。


「……天狗って、なんなの?」


 俯いたまま、義経が抑揚のない言葉で問う。


 教経も知章も、義経に向かってこう言った。「天狗の力を見せろ」と。

 義経自身にはなんのことかわからないが、知章の激しい怒りを見る限り、平氏側には義経を天狗と関わりがあると考える何らかの根拠があるに違いない。

 そして、その根拠とは、前世の出来事以外には考えられない。


「僕は……源義経だ」


 義経は拳を握った。


 物心ついた時から山奥の寺にいて、その場所しか知らずに育った。

 成長してから、自分の父親は平清盛に敗れて死んだ源義朝だと聞かされた。そして、腹違いの兄が伊豆にいるとも。

 それから、山寺から逃げ出して、京に上がって弁慶と出会い、弟だと認めてもらうために兄に会おうと思った。

 そのうちに、兄が挙兵したことを知り、自分もそれに加わって戦うのが目標になった。

 そうして——


 義経の脳裏に、初めて頼朝に対面した時の光景が蘇った。今までずっと、忘れていた前世の記憶だった。


 初めて会う兄に期待と不安を抑えきれない義経とは対照的に、その時の頼朝は——


「……?」


 その時の光景を思い出して、義経は愕然とした。


 蘇ったのは短い記憶だ。兄の姿を初めて見た自分と、自分を見下ろす兄の姿。

 それ以外は、ぼんやりと霞んでいる。良くは覚えていない。

 けれども、その時の頼朝の表情ははっきりと脳内に蘇った。


「……兄さん……?」


 義経は顔を上げて頼朝を見た。


「兄さんは……何か、知ってるんだろう……?」


 タオルに包んだ弁慶を手に持ったまま、頼朝は無言で義経を見つめる。

 兄と弟の間に挟まれた範頼は、不安げに頼朝を振り仰いだ。

 義経は口調を強くして頼朝に詰め寄る。


「教えてよ! 天狗って、なんなんだ!」


 教経も知章も、前世の何を覚えているというのだろう。源義経であったという記憶や、兄や仲間たち、郷子との出会い。

 義経にとっての前世の記憶はそういうものだ。自分が誰であったか、誰と出会って誰と共にあったのか。それを覚えているだけだ。どこで何をしたか、誰とどうやって戦ったのかまでは覚えていない。


「僕には……戦いの記憶がない……」


 そう、今の義経には、源義経として平氏と戦った記憶がない。


「兄さん達や、郷子のことはちゃんと覚えている……だけど、戦った記憶がない……おかしくないか? だって、僕はずっと戦ってたはずだ。屋島とか、壇ノ浦とか、そんな大きな戦いのことを覚えていないだなんて……歴史の授業で習って初めて知っただなんて」


 これまでは、前世の記憶などそんなものだと思っていた。はっきり細部まで覚えているようなものではないのだと。

 自分が誰であったかさえ覚えていて、周りにいる兄や仲間達のことを覚えていればそれで充分だと。


 だけど、冷静に考えてみれば、戦いに関する記憶だけがすっぽりと抜け落ちているというのは変だ。


「僕は……自分が死んだ時のことも、覚えていない……」


 源義経は源頼朝に滅ぼされた。

 その知識は、学校で習って得たものだ。記憶は、ない。


「兄さんは、何で前世の僕を殺したんだ……?」


 義経の言葉に、範頼の顔色が変わった。それに反して、尋ねられた頼朝本人は静かな無表情のままだ。


「僕を殺した理由……僕に戦いの記憶がない理由……それに、天狗とやらが関わっているんじゃないのか?」


 天狗というのがなんのことなのか、誰のことなのはわからない。

 でも、義経の前世に深く関わっていることに間違いはないはずだ。そして、きっと頼朝はそれを知っている。


「教えてよ! 天狗ってなんなんだ?」




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