第16話 雨の中の白き獣
朝から降り続く雨が激しく屋根や窓を叩いている。
だからという訳でもないだろうが、物音に気づかなかった。
無造作に敷かれた布団はもぬけの殻。そう時間は経っていないだろうから、布団にはまだ体温が残っているだろう。
能宗はがりがり頭を掻きながらぼやいた。
「……ったく、あの馬鹿」
***
土砂降りの雨でズボンの裾がぐっしょり濡れて気持ちが悪い。スニーカーにも雨水が染み込んでしまっている。
「やっぱり兄さんの言うことを聞いておけばよかったかなぁ」
つま先で水を跳ね上げながら、義経はひとりごちた。長靴を履いていけと言う頼朝に「動きにくいから」と断って出てきたというのに、ここまで濡れてしまうとむしろ水を含んだスニーカーの方がよっぽど動きにくい。登校する時はそこまで強い雨ではなかったせいで、判断を誤った。
義経は溜め息を吐いて足取りを早めた。過保護な頼朝はずぶ濡れで帰ってくる弟のために風呂を沸かしているに違いない。ブラコン万歳。
小走りになりながら苦笑いを浮かべた義経は、ふと前方に佇む人影に気付いて眉をひそめた。
傘もささずに道路の真ん中に立ち尽くす少年。
「……知章」
義経は少し手前で足を止める。どれくらい立っていたのか、知章は全身から雨水を滴らせている。気配を感じたのか、雨に濡れないよう懐に入れた弁慶がもぞもぞ動いた。
知章は顔を伏せたまま動かず、その表情は窺えない。
しばしの間対峙するが、立ち尽くしたまま何も反応しない知章にしびれを切らした義経が口を開いた。
「あのさ、用がないんだったらどいてくれない? 僕、早く帰りたいんだけど」
雨の音に負けないように強く喋る。けれど、大粒の雨が傘を叩く音のせいで向こうに聞こえたかは定かではない。
知章は相変わらず黙ったまま、傘も差さずに立ち尽くしている。義経は溜め息を吐いた。避けて通るのは無理そうだ。かと言って、方向転換してこの場を去ろうにも見逃してくれる訳がない。
なんだってよりにもよってこんな日に襲撃してくるのだ。もっと晴天の日に来てくれればいいものを、と義経は知章に苛立った。
「あのさぁ、お前はそんなにずぶ濡れになるくらい雨大好きなのかもしんないけど、僕はさっさと帰って温まりたいんだよね。手も足も冷たくて、心なしか弁慶まで冷たくなってるような気もするしさ……材質が何なのかホント気になるけど……とにかく、僕は今、体も心も冷え切ってるわけ。お前のことを暖かく迎えられる心境じゃないの。わかったら……」
くどくど文句を並べる義経に、知章が地を蹴って一気に間合いを詰めてきた。
咄嗟に傘を手放して攻撃を交わす。地面に投げ出された傘は今まで濡れていなかった内側までが空から叩きつける雨にびしょ濡れにされる。義経の制服も髪も一瞬でずぶ濡れになって、義経は腹立ち紛れに叫んだ。
「危ないだろうが!」
地面に着地した姿勢のままこちらに背を向ける知章に向かって憤りながら、義経は胸元を触ってそこに丸い形があることを確かめる。どうやら弁慶は無事らしい。
今日がこんな大雨でさえなければ、弁慶をその辺に転がしておけるのだが。この天候では自分の懐に入れておいた方が安心だ。万一、排水溝に落っこちて流されでもしたらどうする。
得体は知れないが生まれた時から一緒に育ってきた相棒なのだ。物心ついた時には既に傍にいて、頼朝が「これは弁慶だ」と言い張るからそうなのだと信じてきた。
正直、前世では筋骨隆々の大男だった怪力の僧兵が、なにゆえこんな柔らかそうな物体に生まれ変わってしまったのか甚だ疑問だが、頼朝は「弁慶は前世からずっとお前を守っている」と主張するので義経もそれを信じている。
喋れもしないこの物体を、頼朝がどこで拾ってきたのかどうしてこれを弁慶だと確信することが出来るのか、義経にはわからないことだらけだが。
背を向けていた知章がゆらりと振り返る。濡れた前髪が張り付いて、その表情は窺えない。
義経は嫌々ながらも知章と向き合う。天候のせいだけではなくて、まったく戦う気が起こらない。
「あのさ、もう止めないかな。こういうの」
駄目で元々で、説得を試みる。しかし、これはもうずっと前から思っていたことでもあった。
「前世の遺恨とかなんとかで、今生まで犠牲にするのって馬鹿げてるだろ!」
口を大きく開けると雨が喉に入る。それでも、大声で叫ばなければ雨の音にかき消されてしまう。
「源氏とか平氏とか、現代でまでそんなことで対立して何の意味があるって言うんだよ! 実際、僕の兄さん、源頼朝は今生では平氏に手を出していないだろ! 元征夷大将軍は今じゃ気のいいブラコン兄さんだよ!」
知章はじっと無言で立ち尽くしている。義経の声が届いているのかどうか、なんの反応も示さない。
義経はなおも叫んだ。
「だから、お前ら平氏が嫌がらせみたいに刺客を送ってくるのを止めさえすれば、僕らは……っ」
台詞の途中で、知章の全身から殺気が迸ったのを感じ取って、義経は咄嗟に手にしていた鞄を放り捨て、刀の包みを解いた。鞘から出す暇はない。納めたままの刀を向けて身構えるが、知章には攻撃してくる様子はない。ただ、強い怒りに震えていることだけはわかった。
「……ふざけるな」
しばしの間の後、知章が低い声で呟いた。小さな声だったはずなのに、何故か義経の耳に届いた。
どうやら、自分の言ったことが気に入らなかったようだと義経は思った。
(でも、本当にそう思うんだけどな……)
仮にこの世界で自分達兄弟を殺したとしても、平氏に何の得があるというのだろう。ただの中学生と大学生とブラコンがこの世から消えるだけで、そんなことに十数年も躍起になっている平氏はどこかおかしいんじゃないかとさえ思う。
それに……
「……それに、お前らだって本気で僕らを殺す気ないだろ」
義経がそう言うと、知章の方がぴくっと動いた。
そうなのだ。教経と戦った時もこないだの知章らの襲撃の時もそう感じた。彼らには、自分達を殺す気はない。
教経は完全に遊んでいる風だったし、知章の他の二人も戦う気すらなさそうだった。
唯一、知章だけは明確な殺気を放っているが、その攻撃には明らかな手加減を感じる。さっきだって、義経が避けることをわかっていて真っ直ぐに突っ込んできた。
彼の力なら、義経を地面に叩きつけることぐらい簡単だろうに。
殺そうとはしない癖に、殺気を放つほどの強い怒りを抱いている。前世でどうやって死んだか知らないが、今生でまで源氏を恨んで復讐に凝り固まるのは執念深すぎやしないか。
「くだらない復讐なんかで、今生を無駄にするのは止めようよ!」
それは、義経にできる精一杯の説得だった。
だが、その言葉は知章の逆鱗に触れた。
水飛沫が上がったと思った時には、踏み込んできた知章に胸ぐらを掴み上げられていた。一瞬で間合いを詰められた。速い。
至近距離で見えた知章の目は、尋常じゃない怒りでギラギラと燃えていた。
「……ふざけるなっ」
振り絞るような声に抑えきれない殺意が滲んでいる。今すぐにでも義経を殺したいのだろう。けれど、何らかの理由でそれが出来ないでいる。
いったいどうして自分がそこまで恨まれるのか、義経はぶつけられる怒りに気圧されて口を噤んだ。
知章は義経を締め上げたまま唸るように言う。
「……僕は絶対にお前を許さない……あの、天狗に……天狗の力なんぞに頼ったお前を、絶対に許さない……」
(天狗……?)
前にも言われたその言葉に、義経は眉をひそめる。教経といい知章といい、どうして自分に天狗がどうのこうのと言うのだろう。
確かに、源義経は天狗に戦い方を教わったというような荒唐無稽な伝説は存在することは知っているが、そんなのはただの子供向けのおとぎ話だ。義経にはそんな妖怪に師事した記憶はない。
「天狗って、なんのこと……」
掠れた声で疑問を口にした時、土砂降りの雨を切り裂くような大声が響いた。
「そこまでだ。知章」
その声に制止されて、知章がちっと舌打ちした。義経は知章の肩越しに目を凝らした。
雨にけぶる視界の中で道の向こうから姿を現したのは、見覚えのある眼帯の青年だった。
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