第5話 試行錯誤

 ◇◇◇


「じ……冗談きつすぎんだろ……」


(もう二年前に放棄したアバターだぞ……? こんなこと、あるか?)


「ねえ、ファースト——」


(まさかメンテの不具合? なんてひどいバグだよ。やっと……やっと念願の神アカでリセマラ完了したのに、こんな……)


「ねぇってば! ファースト!」


(絶対に復旧してもらう。二年間の血と汗と涙——こんな形でサヨナラなんて、ありえない。すぐログアウトして、サポートにダイレクトメールでクレーム——)


「ファーストってば!!」


「——っもう、なんだよ!」


 頭の内側で熱が唸り、こめかみが脈打つ。深く息を吐いて熱を押し下げる。立ち上がると、木々の梢越しに薄い朝の光が編目のように降りてきて、靴のつま先に斑模様を落とした。湿った土の匂い。踏みしめる度に上がる冷たい蒸気。鳥の短い囀りが高い枝を渡っていく。——作り物とは思えない密度だ。


「まずは周辺確認。それからログアウトだ」


「やっと前向いた。ほら、手——転ばないでよ」


 ラミー——人虎の少女が尻尾で露を払いつつ先導する。腰の鈴がころんと鳴り、耳が草の擦れる音に反応してぴくぴく動く。俺は追いつき、右手を上げた。


「メニュー、オープン」


 何も出ない。空気の手触りだけが掌に流れて抜ける。


「ステータス。ログアウト。設定。体感調整」


 沈黙。指先で空をタップしても、波紋ひとつ立たない。視界はただ、木漏れ日と薄い靄で満たされている。


「……音声拾ってないのか? じゃあ、ジェスチャー」


 掌を上に向け、指で円を描く——いつものリングメニュー起動。続けて人差し指と親指でピンチ、ロングタップ。虚空は感触を返さない。皮膚の上を風が撫でていくだけだ。


「何その手遊び。新しい体操?」


「体操じゃない。UI呼び出し」


 試す。呼び出せない。視界の右上に意識を寄せ、ワールドクロックを探す。何もない。右下の世界座標も、チャット欄も——影すらない。画面ではなく、ただの“世界”があるだけだ。


「GMコール。オペレーター接続。ヘルプ。セーフティシャットダウン」


「……ファースト、本当に変」


 ラミーの眉間に浅い縦皺が寄る。琥珀の瞳孔が心配げに開き、尻尾の先が不安を紛らすように草をくすぐる。俺は首を横に振り、足を前へ運んだ。朝露をたっぷり含んだシダがズボンの裾を撫で、冷たさが皮膚の表面に貼りつく。


「フレンドリスト、クランDM、ルチアに連絡——」


 やはり沈黙。額に手を当て、反射的にヘッドギアの縁を探る。指が触れるのは、自分の髪と体温だけ。硬質な外装も、ケーブルの重みもない。


「……おかしい。外装のハプティクスも、ケーブルも無い」


「だから何の話。森、見て。足元——滑るから」


 草の間に小さな白い花が点々と咲いている。踏めば茎がつぶれ、青くさい匂いがふっと強くなった。胸の奥がざわつくのを抑えるように、もう一度指を走らせる。


「ショートカットD:緊急ログアウト。セーフモード。デバッグオーバーレイ——」


 応答なし。風の流れだけが頬を撫でる。


「痛覚スライダーは30%設定のはずだ。確認だけ——」


 脇の低木から伸びる小枝の棘に、指先をそっとかすめる。チクリ。鋭い痛みが、フィルターなしで直に来る。反射で肩が跳ねた。


「っ……」


「ちょっ、何してんの!? 血、出るよ!」


「大丈夫。浅い。……でも、軽減が効いてない」


 指先を振って血を払う。赤が露で薄まり、葉脈の上を伝って落ちる。指腹に残る鉄の味の記憶。——嫌な現実感。


「録画開始。スクショ。……スクリーンキャプチャ」


 どこにも保存インジケーターは出ない。葉を一枚摘み、インベントリにしまう仕草をしてみる。葉は指から離れず、重力に従ってひらひらと落ちた。


「マップ。周辺情報。ナビ」


「ファースト。地図なら頭の中で描けばいい。東に背の高い木があって、そこから斜面」


 ラミーは当たり前のことのように言い、耳をくいと東へ傾ける。鼻先がわずかにひくつき、風上に匂いを取る仕草。俺は小さくうなずき、歩を合わせながら視線だけを泳がせた。HUDがまったくない世界で、代わりに立ち上がってくるのは——呼吸音、体温、匂い、風のうねり、土の弾力。


 汗が首筋を伝い、襟足で冷たく溜まる。ゲームなら気にも留めないはずの些末な不快が、生に近すぎる手触りでまとわりつく。


「ログアウト——」


「ねえ、ファースト」


 言葉を遮るように、ラミーが指先でそっと肩をつつく。肉球の柔らかさと、爪の控えめな硬さが同時に伝わった。


「戻る道、見当たらない。この森の出口も、このままじゃわかんないよ」


「……入り口がないゲームは、無い」


「でしょ。だから——一回落ち着こ」


 獣道が一本、斜面を横切っている。踏まれた草が寝て、土に浅い足跡。俺はそこに自分の靴跡を丁寧に重ねた。沈み方がリアルすぎて、目を逸らしたくなる。土の中で小さな虫が跳ねる気配まで、足裏から伝わってくる。


「システムメッセージ表示」


 風が梢を渡り、葉裏で陽光が反転する音だけが返る。すれ違いざま、ラミーの尻尾が膝に触れた。柔らかく、少し熱い。心拍が、現実の歩調で早まる。


「ねえ……本当に、具合悪いの?」


「ただのバグだ。バグであってくれ」


 自分に言い聞かせるように、低い声が喉の奥で落ちた。森の匂いが肺に深く入り込み、逃げ場のない現実感だけが、静かに濃くなる。

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