第6話 始まりの災厄

 ◇◇◇


「……ファースト」


「今度は何だ」


「あっち。さっきから、空気が重い」


 ラミーが斜面の向こうを指さす。俺は目を細め、木立の隙間へ視線を滑らせた。


 ——うっすら黒いものが浮いている。


 距離があるのに、そこだけ光が鈍い。朝靄に濡れた葉は銀の縁をまとっているのに、その一点だけは色を吸い込んだみたいに沈んで見えた。森のざわめきが、そこを中心に低くなる。


「靄、か……?」


「わかんない。でも、嫌な感じ。毛が逆立つ」


 ラミーの耳がぴくりと震え、縞の尻尾が無意識に身を巻く。俺は一歩だけ前に出て、癖で視界の端にHUDのゴーストを探した。——何もない。


「ボス部屋のスポーン地点っぽいけど……」


「普通のボスなら、あんな気配じゃない」


「どうしてそう思う」


「女の子の勘」


「なんだそれ」


 苦笑いは、すぐに凍った。胸板に乗るような圧が、時間の層を一枚ずつ重ねるみたいにじわじわ増していく。喉の奥が乾き、舌先が重い。


「一旦、距離を——」


「そうね。下がろ」


 ラミーが俺の手を掴む。指が熱い。汗の薄膜越しに肉球の柔らかさが伝わり、俺たちは足音を殺して後退した。息の吐き方まで小さく整える。


 ——ゴゴゴゴゴ……。


 地面の下から響くような、低い異音。根が軋み、木の葉が微細に震える。土の粒が靴裏でざわりと鳴り、それが脛骨を通って脚の骨までじかに伝わってくる。


「ファースト……」


「ああ、聞こえてる」


 黒い靄は拡散しているのではない。凝っている。一点に、粘るように、ゆっくりと“集まって”いる。森の色相がそこだけ一段暗く、匂いの流れさえ渦を巻く。


 喉がぎゅると鳴る。言葉を継ごうとした、その時


 ——ゴォォン——


 聖鐘が一打。続けて声が、降ってきた。


 ———ワールドクエスト、“始まりの災厄”が発動されました。“シミュラクル”に生きるすべての生命は、全力で災厄これに抗いなさい。

 クエスト勝利条件は、個体名“ディノケンタウルフ”の討伐。敗北条件は、すべての生命の“死”です。

 クエスト達成報酬は、貢献度上位10名の生存者にのみ内容が通知され、授与されます。以上です。———


 耳ではない。頭に、直接——けれど、馴染んだ響き。プレイ中に幾度も耳の奥をくすぐった聖鐘、そして天の声インフォメーション音声AIモデル・イシュタル)だ。


(よかった。インフォメーションが聞こえるってことは、やっぱりまだゲームの中だ。アップデートすげええ! でも、バグ多すぎんだろ!)


「……最高のタイミングだな」


 不安と恐怖が、安堵で薄く上書きされていく。なぜ誤ったアカウントでログインしているのかはわからない。だが、ここが“世界”であり、同時に“ゲーム”でもあると認識できたことで、頭が一旦冷える。


「ほらね。やっぱりヤバい。あそこから——来る」


 黒が、ほどけた。


 靄の内側で輪郭が生まれ、粘土に骨を刺すようにゆっくりと立ち上がる。まず、狼の胴体。その肩甲骨の上、首の先に、トカゲの上半身が“生えて”いた。鱗は油と血を吸ったように鈍く濡れ、口は耳まで裂け、乱雑に重なった鋭い歯が幾重にも覗く。赤黒い眼が二つ、こちらをスキャンするように糸のように細められた。


「っ……」


 胃が反射で縮む。匂いがある。鉄、湿った腐葉土、獣脂、それに熱い唾液の生臭さ。風が止み、木漏れ日が一枚、また一枚と色を失ってゆく。


「……見た? 普通のボスじゃない、って言ったでしょ」


「認める。まずい」


 奴はまだ目を細めたまま、微動だにしない。覚醒の一歩手前、弦を絞り切る直前の静止。ラミーがこっそり一歩、後ろへ——足裏に乗せる体重の配分まで静かに。俺も合わせて重心を引く。


「静かに。気づかれないうちに——」


 そのとき、眼が開いた。赤黒い視線と、真っ直ぐ目が合う。瞳孔の奥で、火が走った。


「——走る?」


「走る」


 合図は要らない。踵を返した瞬間、背後で地面が爆ぜる。乾いた土が雨のように背中に叩きつけられ、肺が勝手に空気を求めて跳ねた。


 ——ギャオオオオオオオオウ!!!


 耳をつんざく咆哮が、森を一気に薙いだ。葉が裏返り、鳥が一斉に飛び立ち、世界の音の優先度が“逃げろ”だけに書き換わる。

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