第3話 目覚め──知らない“森”で

 ◇◇◇


「おお〜い」


 どこからか、誰かの間延びした声がする。水面に落ちた小石の波紋みたいに、意識の底で音だけが広がっていく。


「ん……んん〜〜」


 理由はわからない。ただ、とてつもなく眠い。身体の内側にまだ重たい毛布がかかっている感じだ。まぶたの裏は群青色で、遠くで鳥が短く鳴いた。


 薄く目を開ける。木々の黒い柱が並び、編まれた枝葉のあいだから、朝の色を吸った霧が低く漂っていた。湿った土の匂い、青い葉の匂い、苔の匂い。露に濡れた草が頬に触れ、ひやりとする。空はまだ明けきらず、森の中は深い藍が優勢だった。


(夢……か)


 システムメンテナンスは夕方まで——たしか、告知はそうだった。ログインするには、まだかなり早い時間のはずだ。ここで目を覚ます道理が、どこにもない。


 ◇◇


「お〜い、ファースト〜? お〜いってば!!」


 近い。耳元で弾む声に、反射的に肩がびくつく。


「んん〜あと5分……」


「んもう! さっさと起きろこの——!」


 ——ズドン!!


「ぐぇっ! 何すんだよ!」


 脇腹をえぐる衝撃。肺から変な音が漏れて、俺は上体を跳ね起こす。視界に飛び込んできたのは、燃えるようなオレンジ色の髪と、琥珀色の瞳。頬に二本のひげ印、頭の上では三角の耳がぴくりと動き、腰の縞尻尾がぶん、と左右に振られている。


 背後は、鬱蒼とした森。高い樹冠の隙間から差す光が、細い帯になって空気中の塵を照らしている。どこかで小川が流れているらしい、さらさらという水音。離れた木でドラミングのように何かが幹を叩く音。身体の下の土が、ゆっくりと冷えを渡してきた。


(おい……どこだよここ。どうなってる? たしか自室で寝てたはずだろ……)


 喉が乾いているのに、口の中は草いきれの味がした。胸に手を当てると鼓動はちゃんとある。けれど、ヘッドギアの重さも、安アパートの天井のひびもない。


 混乱する俺をよそに、さっき脇腹を蹴り飛ばした加害者——人虎タイガリアンの少女は、上機嫌に尻尾を揺らしながら笑った。露に濡れたつま先を軽く蹴り上げ、背負っている小ぶりの短剣の柄をくるりと回す。その仕草に合わせて、腰のポーチに吊られた鈴がちりんと鳴る。


「やっと起きた? 転移門をくぐったあと、なんかあたし等、長いこと眠ってたみたい。ここって、いったいどこなんだろうね〜?」


 コテンと首を傾げる。尖った耳がぴくり、ぴくり。縞の尻尾が草を掃くたび、露が光って弾けた。見知らぬ景色に戸惑いながらも、その目の奥は確かにわくわくと跳ねている。


「……ラミー、どこって、そりゃ“シミュラクル”の六大陸のどっかだろ。——っていうか、もっと優しく起こせなかったのか? お前と違ってこっちはそんなに頑丈じゃないんだ。なんせ……」


 なんせ、の先が喉でほどける。胸の内側に“さっきまで握っていた手”の感触が蘇る。温度、重さ、同期する脈拍。言葉がそこで止まった。


「——え?」


 俺は、横にいる“パートナー”に改めて目をやる。朝の光が木漏れ日になって髪を縁取る。オレンジの髪、琥珀の瞳、獣の耳と縞尻尾。陽にきらめく犬歯。森の匂いに混じって、どこか甘い果実酒のような香り。


「ん? 何?」


 ラミーは不思議そうに瞬き、猫のようにすこしだけ顔を近づけて俺の表情を覗き込んだ。金の瞳孔が細くなる。


 ——メアリじゃない。

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