『取引(二)』
柱の陰から現れた
「貴様ッ、その道着はどうした! まさか————」
「騒ぐな、門番の男から借りただけだ。殺してはいない」
激昂する
「……この男が青龍派掌門・
「あなたは確か、玄狼ね? いったい何をしに————いえ、どうしてこの場所が分かったの⁉︎」
「その男に道案内をしてもらった」
「なんですって?」
凰蘭が顔を向けると、正剛は申し訳なさそうな声で答える。
「……申し訳ありません、師娘(師父の妻)。
「
意気消沈した様子の正剛を尻目に玄狼は
「あなたが青龍派掌門夫人・李夫人ですね……?」
「……正剛、この者は何者です?」
包拳礼を
「この男は玄冥派という新興門派の門人で、玄狼と申す者です……」
ここまで話すと、正剛の声が怒りで震え出した。
「————この男と同門の女の手に掛かり、
「…………!」
この言葉に、無表情だった慶の眉が僅かに持ち上がった。
「……玄冥派……? 何故そのような
「……は。任務の後、急襲され
「…………」
何やら考え込む慶に、再び玄狼が話し掛ける。
「そう、そして御子息を五年ほど預かっていた者です。李夫人」
「————!」
慶の眼が見開かれ、ここで初めてその視線が玄狼へと移った。
「……玄狼と言いましたね。何故、青龍牌を望むのです……⁉︎」
「ようやく私に御尊顔を向けてくださいましたな。理由など、どうでもいいでしょう。とりあえず牌を二百枚ほど用立てていただきましょうか?」
「…………見返りは……?」
慶が冷ややかに言うと、玄狼は僅かに口の端を持ち上げた。
「私ならば、御子息の立ち寄りそうな場所にいくつか心当たりがありますぞ。さらに
「————父さまと母さまの居場所を知っているの⁉︎」
血相を変えて、凰蘭が割って入った。
「もちろん知っているさ。でなければ黄龍珠と五年も行動を共にしているものか」
「…………!」
「————さて、李夫人。返答はいかに……?」
問うまでもないとばかりに玄狼が口の端を歪め、皆の視線が一斉に慶に移る。
「…………甘く見られたものね……」
「何————⁉︎」
慶はその切れ長な瞳で玄狼を睨め付ける。
「……息子可愛さで、門人を手に掛けた輩と取引など出来るものですか! 恥を知りなさい……‼︎」
「————‼︎」
凜然と言い放つその姿は確固たる意志と誇りに満ち溢れ、掌門夫人に
(————俺は張師兄と林師姉の仇を討つと誓いながら、手を下すどころか虚言に惑わされ、あまつさえ仇を我が青龍派の本拠まで引き入れてしまった。なんと情けない……!)
一方、玄狼は内心で舌打ちをした。
龍珠を引き合いに出せば八割がた釣れると目論んでいただけに、この失望は大きい。青龍派の本拠に単身で乗り込むという危険を犯したのは、正にこの取引を成功させるためだったのである。
「……そういうことでしたら、長居している訳にもいきませんな……!」
ジリジリと後ずさりながらつぶやく玄狼に正剛が指を突き付ける。
「逃げられると思うな! 貴様はここで俺が息の根を止めてやる!」
「フッ————」
この期に及んでまだ正々堂々と振る舞う正剛に冷笑を浴びせつつ、玄狼は戸口へと駆け出したが、数歩も進まぬうちにその脚がピタリと止まった。
「————こ、これは……⁉︎」
「……よく気付いたものね。褒めてあげましょう」
ほどなくして玄狼の喉元に一筋の赤い線が走り、鮮血がポトリと床に落ちた。
「正剛、凰蘭、一歩も動いてはいけません」
「師娘……?」
正剛と凰蘭は何が起こったか分からず顔を見合わせた。
「……夫人……、いつの間にこれだけの『糸』を……!」
「答える必要はありません」
首筋を押さえながら玄狼が問うが、慶は冷たく斬って捨てた。
「糸……? ————あっ!」
二人の会話を聞いていた凰蘭が驚きの声を上げた。
眼に真氣を集中させると、真氣で練り上げられた極細の糸が掌門の
玄狼は糸を断ち切ろうと力を込めてみたが、恐ろしく硬い上に微妙な弾力も持ち合わせており、掴んだ指から出血するばかりであった。
「狼も蜘蛛の巣にかかると無力なものね……さて、
「————待て! 身動きの出来ぬ者を————それも一世代下の者を、掌門夫人ともあろう方が手に掛けるおつもりか⁉︎ 他派の者に知られれば青龍派と
玄狼が理を以って説得すると、慶は考え込む仕草を見せた。
「……それもそうね。でも、そんなこと誰が誰に喋るというの……?」
「なッ————‼︎」
慶がおもむろに手を振ると、無数の飛刀が意思を持ったように玄狼に襲い掛かった。しかし、玄狼は周囲を鋭利な氣糸で囲まれ動こうにも動けない。
「————ウオォォォォッ!」
狼の遠吠えのような叫び声と共に、玄狼は体中を蜂の巣にされた————。
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