第一話 冷やし時計
>>8月14日
暑い……。
こんなに暑い日を過ごすのは生まれてはじめてだ。まだ午前中だというのに、焼けついたアスファルトの上で蒸し焼きにされている気分になる。
エアコンという文明の利器を失った僕に残されていたものは扇風機と
昼間はせめて涼しい場所で過ごそうと思っていたが、今日はそれも叶わないようだ。
「ハァ……なんで図書館が休みなんだよ……お盆はやってるはずだろ……殺す気かよ……」
図書館へ行くと急な休館日だった。
勝手に裏切られた僕は、今日と明日をどこで過ごそうかと、のろのろ歩いていた。
--
暑さのせいか、普段なら気に留めないようなノボリが目に留まった。
「ヒヤシドケイ?」
謎の単語が気になり、ノボリの立っている店らしき建物に近づいた。
その店の外観はボロボロで、ノボリがなければ、営業している店とはわからないほどだ。
店のショーウインドウには、何も並んでおらず、壁に貼られた『現金支払いのみ』の紙以外は店舗らしさを
ウィーン
ピロリン ピロリン
店内を覗いていると自動ドアが開いてしまった。こんなにボロい外観の店の扉が自動ドアだと思わなかったが、店内からの風が涼しいのもあり、誘われるように店へ入る。
「いらっしゃせーー」
外観からは想像できない、陽気で気さくないらっしゃいませに迎えられた。
店内を見回すと、どうやら店員はカウンター付近にいる1人だけのようだ。ボブカットというより、おかっぱという表現がぴったりな髪型をした、めがねの女性店員に僕は声をかける。
「あの……ノボリにあった冷やし時計ってありますか?」
「こちらにありゃーす」
おかっぱ店員はカウンターに置かれた一台の何の
「冷やし時計って、何を冷やしてくれる時計なんですか?」
「この時計は室温が変わらず体感温度が変わる不思議な時計で、暑い夏を過ごしたくない人向けの時計になりゃーす」
おかっぱ店員の口調が気になったが、時計の効果はもっと気になった。
「この時計はいくらですか?」
「540円になりゃーす」
あまりの安さに
「気に入らなければ返品でもいいので騙されたと思って買ってみてくだしゃーい」
僕の迷いを読んだかのようなおかっぱ店員の言葉に後押しされ、時計を購入することにした。
「ありがとうございっしたー」
購入した冷やし時計の入った袋を受け取り、僕は店を出た。
その後は喫茶店に行き、コーヒー1杯だけで夕方まで暑さを凌いだ。
家に着いた僕は、冷やし時計を袋から取り出し、テレビの時刻を見て時計を合わせた。夕食と入浴を済ませてから、大学の夏休み課題を少しだけやった。
「もう10時過ぎか」
テレビを消した僕は、枕元に置いた冷やし時計に若干の期待を抱いて、布団に入った。
チッ チッ チッ チッ チッ チッ
秒針の音がとても
「うるさいなぁ」
耳障りだったので、冷やし時計の電池をはずした。音が聞こえなくなったあとは、少しだけ涼しく感じられた。
>>8月15日
昨夜の寝付きは悪くなかったが、夜中の暑さに何度も起こされた。
昨日と同じ喫茶店で、氷が溶けきった一杯のアイスコーヒーだけで日中を過ごした。店員の視線がとても痛かった。
家に帰ると、普段使っている時計の針が止まっていた。新しい電池を入れてみたが、時計は動かなかった。
「はぁ……エアコンに続き、時計も壊れたか……」
寝るときは枕元に時計が欲しい。仕方なく、冷やし時計に電池を戻し、時刻を合わせる。
日課を終わらせて布団に入る頃には、雨が降り始めていた。
チッ チッ チッ チッ チッ チッ
やはり秒針の音は大きく感じたが、外から聞こえる雨音もあり、昨日ほど煩く感じなかった。
>>8月16日
雨のおかげで若干気温が低かったのか、暑さで目覚めることなくすっきりと朝を迎えた。
「冷やし時計のおかげなのかな」
そんな馬鹿な、と考えを一掃し図書館に行く準備を始めた。
涼しい場所で夕方まで過ごし、帰宅後はいつもどおりの日課をこなし、布団に入った。
チッ チッ チッ チッ チッ チッ
秒針が進む音の大きさは相変わらずだったが、不思議と気にならない。
雨は降っていなかったが、どこからともなく聞こえてくる川のせせらぎのような音のおかげで、涼しく寝ることができた。
>>8月17日
今日も暑さで目が覚めることなく、気持ちよく朝を迎えられた。
暑いはずの夜を、エアコンなしで快適に過ごせている。これはひょっとして、本当にあの時計のおかげなのだろうか。
夕方まで図書館で過ごしたが、どうもエアコンが効きすぎていたように感じた。
帰宅後、いつもより食欲がなく半分ほど残して夕食を終えた。日課を終わらせ、夜10時頃に布団に入った。
冷やし時計から聞こえる秒針の音は、すっかり気にならなくなっていた。
>>8月18日
暑さで目を覚ますことなく朝を迎えられたが、体が少し重い気がする。
図書館内の寒さに耐えられず、昼過ぎには図書館を出て家に戻り、夕方まで仮眠をした。夕食はようやく二口食べた。
「これは夏バテだな……」
入浴を済ませ、昨日より早めに布団へ入った。調子が悪かったからか、すんなり眠りにつけた。
>>8月19日
昼前まで眠り続けていたせいか、起き上がると頭が重かった。
気温は高いはずなのに、寒さすら感じる。もしかしてこれは"冷やし時計"のせいだろうか。いや……夏バテが悪化しているのだろう。
「病院に行くべきかな……」
独り言が漏れるくらい体調が悪いが、病院に行くとなると出費が気になる。寝ていれば治るだろうと一日、家でゆっくり休むことにした。
食欲が湧かなかったので、何も口にしなかった。明らかに体調が悪かったので、シャワーだけ浴びて、日が暮れる頃には布団へ入った。
タオルケット一枚では肌寒さを感じたので、薄手の掛け布団を押入れから引っ張り出した。
>>8月20日
昼過ぎまで寝てしまっていた。ようやく起き上がったが、頭も体も重く、言うことをきかない。寒気も強く、明らかに体調が悪くなっている。昨日、病院に行かなかった事を後悔した。
何科に行けばいいのか迷ったが、とりあえず近くの内科に向かった。
医師の診断は、夏バテによる自律神経の乱れとのことだった。
丸一日以上食べていない事もあり、点滴を一本打ってもらった。
点滴のおかげで、寒気が気持ち和らいだ様な気がした。会計待ちをしていると、台風が近づいているとテレビでやっていた。今日のうちに病院に来てよかった。
家に帰るとすぐに横になりたかったが、病院に行ったのだからと、仕方なくシャワーを浴びて布団に入った。
>>8月21日
今日もまた昼過ぎに目を覚ました。
点滴を打った甲斐もなく、体調は最悪だ。寒い、寒くて仕方がない。もしかしたらこの異様な寒さは、本当に冷やし時計が原因なのではないか……と一瞬だけ頭をよぎった。
台風の接近で雨風が強かったので、一日を通して家で過ごした。
外はまだほんのり明るかったが、起きているのが辛く、布団へ入った。
薄手の布団だけでは寒くかったため、薄手の毛布との二枚重ねにした。
>>8月22日
台風の音に目を覚ました。全身が鉛のように重く、起き上がる気力が湧かない。
大学の友人はみな帰省中のため、こんな時は独り暮らしの心細さを感じる。
精神的にも相当弱っているのだろうか、唐突に命の危険を感じ始めた。
再び眠りに落ちかけた時、川のせせらぎが近くに聞こえる事に気が付いた。
近くに川などあっただろうか?
台風の
このせせらぎは、いつから聞こえるようになったのだろうか?
チッ チッ チッ チッ チッ チッ
そうか、冷やし時計を買ってきたあの日の夜からだ。
思い返すと、せせらぎは日に日に音が大きくなっている。いや、そうじゃない。せせらぎの音が近付いてきている。
あの店に行って聞いてみたいが、台風の日にこの体調で外に出るなど、死にに行くようなものだ。そもそも、こんな暴風雨の中では、あんなボロい店がやっているはずがない。
明日、あの店に行くために、今日はもう寝よう。
>>8月23日
もう三日以上食べ物を口にしていない。
空腹という感覚を失ったかのように、食べようという気持ちが全く湧かない。
そう言えば……。おかっぱ店員が「気に入らなければ返品してもいい」と言っていた事を思い出した。
真夏だというのに震えが止まらない。体調は最悪だ。冷やし時計を抱え、残りわずかの気力を振り絞ってあの店に向かう。
台風一過の日差しのもと、長袖を着ても寒さで体が震える。すれ違う人が皆、
やっとの思いで店についた僕の目の眼に映ったのは、貼り紙に書かれた『休業』という、あまりにも無慈悲な二文字だった。
「……はぁ……」
冷やし時計を抱え、ようやく家まで帰り着いた頃には、身も心も限界を迎えていた。
まだ夕方の5時だったが、着替えもせずそのままの格好で倒れる様に眠りについた。
>>8月24日
目が覚めた時には、もう日が傾きかけていた。
昨日に引き続き、体の震えが止まらない。救急車を呼ぼうかと考えたが、その前にあの店に行かなければならない。理屈ではない、本能がそうするべきだと告げている。そんな気がした。
おかっぱ店員はきっと何かを知っているはずだ。体力はとっくに底を尽きている。わずかに残った気力だけで、這うように歩みを進めた。
今日は休業でないことを切に願いながら、冷やし時計を抱え、店に向かう。
やっとの思いで店の入り口の前に辿り着いた。その瞬間、僕を待ち構えていたかのように自動ドアが開く。
ウィーン
ピロリン ピロリン
「いらっしゃせー」
この声、この口調……間違いない、あの店員だ。
カウンターに近づき、今にも消えてしまいそうな声をようやく絞り出した。
「……すごく……寒いんですが……この時計のせい……ですか?」
「そうぇすよー。暑い夏をすごしたくない人用の時計と説明した通りぇすよー」
どこか他人事のようなおかっぱ店員の返答に、言葉を失う。考えないようにしていた疑問を、やっとの思いで声にしてぶつけた。
「この時計を……使い続けると……僕は……どうなりますか?」
「暑い夏は今年で最後になりゃーす」
今年で最後とはどんな意味だろう……。様々な思考が交錯するが、気力の限界も近い。全く考えがまとまらない。
しかし、この不調が時計の仕業だとしたら、返品すれば元に戻れるはずだ。もはや声にするのも苦しい。
「時計を……返品……したいんですが……」
ほとんど息のような声で伝えた。
「返品ぇすねー」
その後、店員は事務的なやり取りを淡々とこなし、僕は時計代の540円を受け取った。
直後、ほんの僅かだが寒さが軽減し、体が楽になったような気がした。
いやしかし、まさか540円のこんな時計に、本当にそんな力があるのだろうか。
おかっぱ店員の冗談であって欲しいと思いつつも、一刻でも早く布団に入りたいという思いだけが募る。まだ重い体と地面に吸い付くような足をどうにか動かし、店を後にした。
僕が店を出てすぐ、自動ドアが閉まりかけるその時、背後からあの店員の声が聞こえてきた。
「あと二日だったのに……」
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