紅い透明

きりんのにゃーすけ

私の愛した人

導入 朝日と橋と

「早くしないと日が昇ってくるよ」


 薄明うすあかるいしっとりとした静寂せいじゃくの中、私を呼ぶ夫の声だけがひびいた。


「ちょっと待って……思ってたより高くて……」


「はは、『朝日を見たい』って、君から誘ってくれたのに。意外と怖がりなんだね」


 吊り橋の上に一歩足を乗せて、私はすくんでしまった。そんな私を見て、夫は無邪気むじゃきな笑顔でからかう。


「もう……」


 『意外と』なんて、まるで普段から気が強い女みたいじゃない。少し悔しくて、大げさに顔をそむけてねたフリをしてみせる。


「ほら、明るくなってきたよ。せっかく早起きして来たんだから早くおいで!」


 私の態度などお構いなしに、夫はわざとらしく大きく手を振る。吊り橋がそれに呼応するようにゆらゆらと揺れた。

 

「怖がってるのに、そんなに揺らすなんてひどいじゃない!」


 怖気おじけづく私を面白がり、夫はいたずらっぽい笑みを浮かべ、今度はスキップをする様に吊り橋をキィキィと大きく揺らした。


 その時、『バツンッ』という大きな音と共に、吊り橋が大きく傾いた。橋を支える太いワイヤーロープの一本が切れてしまった。体勢を崩した夫は一瞬で顔をこわばらせ、慌てて手すりにしがみ付く。


「ねえ! 大丈夫?」


「あ、ああ……なんとか……」


 ほんの数秒前まで楽しそうに笑っていた夫の顔は、恐怖で真っ青になっていた。「誰か!」と助けを求める夫の声は谷底へ吸い込まれていった。


「俺は大丈夫だから、きみは下がって!」


 自分の恐怖を押し殺し、私を気遣う夫は震える声で叫んだ。傾いた手すりをしっかりと掴み、一歩、また一歩、慎重に足を進めていく。


 残された数本の細いワイヤーも、耐えきれず悲鳴のようなきしみを上げている。


「切れそう!」

 

 私の叫びで、夫が足を速める。

 

 一本、また一本と無情にもワイヤーが切れていく。私は夫に手を伸ばす。あと少し。ほんの少し。

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