第2話 海童邦洋 1

 我が国の刑事裁判における有罪率は99.9パーセントである。――という言葉を耳にしたことがある人は多いと思われるが、実はこの数字にはカラクリがあるということまで知っている人はあまり多くないだろう。

 刑事事件において被疑者を起訴するか否かの決定権を持つのは検察だけである。被害を受けた者、あるいはその遺族がどんなに訴えても、検察が首を縦に振らない限りは起訴されない。もちろん民事で争うことはできるが今回は刑事事件に限った話なので割愛する。

 さて、ここまで話せばピンときた人もいるかも知れないが、検察だけが起訴できる権限を持つということは、負ける勝負を回避することができるということだ。簡単に言ってしまえば、絶対に有罪にできる相手だけを起訴してそうでない場合は起訴しないという判断を下すわけだ。これを繰り返せば自ずと有罪率が上がっていくのは自明の理である。

 

 付け加えるならば、有罪が意味する言葉の範囲が広すぎるという点だ。例えば検察が被疑者に対し懲役10年を求刑したが、実際にに下された判決は懲5年だったとする。この結果に仮に勝敗をつけるなら弁護士の勝ちだろう。しかし有罪は有罪である。たとえ執行猶予がついたとしても有罪扱いになる。極端な話、裁判官が下す判決が百通りなのだとしたら、無罪はそのうちの一つで残りは有罪。たとえ選択肢が千や万に増えようとも無罪の条件はたった一つしかない。つまりは無罪以外はどんな判決が下されようと有罪なのである。


 私は今は県内にあるF大学で特別講演を開かせてもらっていた。テーマは『死刑制度の是非について』だ。久しぶりの講演はまずまずと言えた。舌に油が乗ってきたところで用意してきた台本に沿って話を続ける。


「それでも、負けるとわかっていても弁護士は被疑者を弁護しなければなりません」


 そもそもほとんどの場合は弁護士がつかなければ裁判は行われない。刑事事件において、被疑者は大抵犯罪またはそれに類する行為を行っている。先にも語ったが、その確証があるからこそ検察側も自信を持って起訴に踏み切る。ならばなぜそのような人間を弁護するのか。弁護しなければいけないのか?


 ――私は行き過ぎた正義を抑制するためだと考えている。


「古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、中庸にこそ善が宿るのだという考えを示しました。彼はその考えの中で偏った思考、思想を危険視しています。両端にそれぞれ正義と不義があった場合、そのどちらもが悪になり得る可能性を秘めていて、善とはその丁度真ん中にあると説いています。

 これを裁判に置き換えるなら、裁判官は常に中立的思考を維持しなければならないということです。しかしその過程で裁判官が検察の意見、主張だけを聞いてしまえばどうなるでしょう。当然思考がどちらかに偏ってしまう。仮に検察の主張が正義であったとしてもアリストテレスの考え方に当てはめるならそれは中立とは言えません。

 だから我々弁護士が立つのです。検察とは逆の立場から意見を述べて裁判官に正しい判断を下してもらうのです。いわば弁護士は裁判官に善の判断を行ってもらうための材料を提供する存在なのです」


 一旦言葉を止めて会場を見渡した。今回ここに集まったのは10人ばかり。そこまで広くない教室の席は半分も埋まっていない。聴衆の数は目に見えて少ない。わかっていたことだが、こうして現実を目の当たりにすると少々堪えるものがある。このうち何人が私の理念に賛同してくれるかわからない。それでも全力で伝えるべきことを伝える。重要なのはここからだ。


 私には宿願があった。それは『死刑制度の廃止』だ。しかしながら世間の潮流は真逆だ。これまで私をはじめとする死刑制度廃止派の人間はそれを実現するためにいろいろな活動を行ってきた。ホームページを作ってネットで宣伝してみたり、流行りのSNSで啓蒙したり、街でビラを配ってみたり、政治家相手にロビー活動をやったこともある。だがどれも成果らしい成果は出せていない。政治家も所詮は人気商売。どんな理想や理念を掲げようとも国民の理解を得られなければそれを実現することはできない。そして私たちの主張する死刑廃止論は残念ながら国民にまったく理解を得られていないのが現状だ。そんな論に彼らが乗ってくるはずがない。逆に人気を落とし多くの票を失うことになるだろう。

 法律を作るのは政治家だ。最終的には彼らを納得させる必要があるが、その準備段階として国民に声を上げてもらうことが不可欠だ。そのためにも死刑制度廃止の重要性を国民に広く知ってもらわなければならない。何事も一足飛びでことを成そうというのはおこがましい。だから初心にかえり草の根活動に勤しむと決めた。


 今回のこの講演もその活動の一環だ。そのテーマからあまり歓迎されないことは承知の上だ。こうして講演を開かせてもらえるだけでも非常にありがたいことだ。だからこそ失敗は許されない。


 私が弁護士の資格を取ったのは28の時だった。あれからもう20年が過ぎた。その間、仕事の合間で死刑廃止を訴えてきた。最初は先輩弁護士の受け売りでしかなかったが、いつしかそれを自分なりに真剣に考えるようになった。でも国民の意識は20年前と何も変わっていない。いや、実際は死刑を指示する国民は増加傾向にあり、死刑にならないなら私刑に処すという人々が散見されるようになった。自分たちのやってきたことが無駄だとは思いたくないが、無駄なのではないかと思ったことがないと言えばウソになる。それでもやるしかない。自分の年齢を考えればあと何年現役で戦えるかわからない。きっと自分が生きている間に死刑制度が廃止されることはないだろう。それでもそのきっかけは作っておきたい。後世につながる何かを残しておきたい。そんな思いを胸に熱く語る。


「この国では重罪を犯した者に対して死刑を望む声が多いことは知っています。被害者あるいはその遺族の感情も理解できます。ただその一時の感情で相手の死を望むのは褒められた行為ではないのです。『目には目を歯には歯を』というハムラビ法典で有名なこの一節は、しばしばやられたらやり返せの代名詞として使われますが、実際はそうではありません。この言葉は罪に問われたものを救済するためのものであり、何事もやりすぎはよくない、それ相応の報いのみを受けさせるべきだということを説いたものです。似たような言葉に同害報復という言葉もあります。法の原点と言われているものにそうあるのだから、我々はそれに倣うべきです。

 やられたらやり返したいという気持ちも理解できないわけではありません。報復や復讐はエンタメとして見る分にはスカッとした気分になるのもわかります。でもそれはエンタメの中だけにとどめておくべきで、実社会に持ち出してはいけないのです」


 どんな理由があっても無闇に他人の死を願うものではない。たしかに人を殺めてしまう者はいる。しかしそこには何かしらの理由があるはずで、なにかの弾みで結果的にそうなってしまっただけかもしれない。罪を憎んで人を憎まず。まさにこの言葉が示すとおりだろう。


「あの。ちょっといいですか?」


「え? はい?」


 話の途中で割り込む形で、会場に来ていた一人の青年が手を上げた。講演の席でこういった事態に遭遇したことのない私は少々面食う。だがこれを無碍にするわけにはいかない。そんなことをすれば死刑反対派に対する心象が悪くなってしまう。そうなったらますます彼らは我々から遠ざかっていくだろう。


 真摯な態度で「どうぞ」と先を促した。


「先程それ相応の罰を与えるべきと言いましたよね? ならやっぱり殺人犯には死罪が適当なんじゃなですか?」


「なるほど。それは自分が犯罪とは無関係の立場にいるから言えるんだと思います。ですが実際は誰もが加害者になり得るんです。実際、私は自分の知らないうちに加害者となってしまった人の弁護についたこともあります。ここで大切なのはそれが冤罪である場合もあるということです。冤罪人を一方的に犯罪者扱いして死刑にしてしまったら取り返しがつかないでしょう。だから無期懲役あるいは終身刑を導入してそれを最高刑にすることでいつでもやりなおしが可能な状態を整備しておくことが大切なんです」


 そう説明すると別の人から質問が上がった。


「冤罪だった場合に罪のない人の命を奪うことになってしまうというのは理解できます。でもそれは先程の主張と矛盾しませんか?」


「と言うと?」


「弁護士と検察官が意見を出して裁判官に判決を委ねる。そうして出された判決は善なんですよね? もし双方の意見を聞いた上で裁判官が死刑を宣告したらそれも善ということになりませんか? もっと言うと、弁護側がちゃんとした弁護を行えば現行法でも死刑を回避することができるってことですよね? それでも裁判官に死刑という選択を出させてしまうのはその弁護士が未熟だからでしょ?」


 会場内にクスクスと小さな笑いが起きた。なんとか反論しようと口を開きかけたところで先程の青年が言葉を発した。


「死刑は必要ないって言いますけど弁護士さん。もしも自分の家族や大切な人が殺されても同じ主張ができるんですか?」


 小馬鹿にしたような言い方がさらに会場の笑いを誘う。


「……っ!」


 その質問は芯を抉った。脳裏に妻の顔が浮かんでしまい言い淀む。即座に反論できなかったことを答えと受け取ったのか、青年は「でしょ?」と念を押してくる。


 適当な言葉が思い浮かばないまま立ち尽くす。全身に嫌な汗をかく。晒し者の気分を味わうこと数秒。スタッフの男性が近づいてきて「あの、そろそろお時間のほうが」とささやき声で告げる。スッタフの言葉が終わるとタイミングを合わせたようにチャイムが鳴る。

 これ幸いと「えー、どうやらお時間が来てしまったようですので――」と話を切り上げ、急いで資料をまとめ逃げるように教室を出た。


     ******


 外に出た私は敷地内にあったベンチに腰を下ろした。教室棟の裏手の人通りの少ない場所。ひとり盛大なため息を吐く。与えられた60分を有意義に使うことはできなかった。本来なら死刑制度のありかたについて深く知って納得してもらうための講演だったのに、聴衆に言い負かされてしまった。


「こうじゃないんだよ……。はぁぁぁぁぁぁ――」


 何度目になるかわからないため息。もう逃げる幸せも残っていない。相手は一回り以上も下の若者だ。悔しいという思いはないが、不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。彼の放った質問は嫌な質問だったかもしれない。でも反論できずに口を閉ざしてしまったのは紛れもない事実だった。

 法廷ではその瞬間瞬間で気になる箇所を追求しなければならない。あとになって、「すいません。さっきの尋問について気になることを思いついたのですが」は通用しない。だから言い返せなかった方が悪い。青年の言葉を借りるなら、私が未熟者だっただけだ。


「もしも、家族が殺されても……か」


 それは嫌な想像だった。たとえ何があろうと死刑に反対するというのが死刑制度廃止を訴える者のベストな解答だろう。ただ一個人としてはどうだろうか……


「先生?」


 不意に呼ばれ項垂れていた頭を上げた。そこにはバッグをたすき掛けしている黒髪のおさげの女の子が立っていた。左右の短いおさげは、可愛らしいシュシュでそれぞれ丁寧に結ばれていて、彼女が顔を動かすたびに付随してぴょんぴょんとはねる。丈の長いパーカーに短パン。そしてニーハイソックス。今は9月で日中でもそこそこ寒いというのに惜しげもなく太ももを露わにしている。ここにいるということは大学生なのだろうがとても幼く見える。化粧っ気のない顔の肌艶の感じは中学生でも通用しそうだ。


「せんせい? ――私のことかい?」


「ほかに誰がいるんですか。あ、弁護士って先生であってますよね?」


 可愛らしい声で喋るその口調と、あどけない表情で小首をかしげる仕草も彼女の幼さに拍車をかける。


「え、まあ、そう呼ぶ人は多いね。……そうか、私が弁護士だって知ってるってことは、あの場にいたのかな?」


 彼女はそうですと明るい笑顔で答えた。すると彼女は間違いなくここの学生である。彼女は私の隣りにちょこんと座った。


「落ち込まないでください。最近流行ってるんですよ。ああやってロンパするのが」


「ロンパ? ……ああ、論破か」


 雑に言えば言葉で相手を言い負かすことだ。別に討論していたわけではないのだが言い得て妙だ。


「わたしは先生の言ってること理解できましたよ。たぶんこの問題はどっちが正しいかっていう勝ち負けの問題じゃなくて、どっちも正しいが正解なんですよ。世の中にはいろんな意見を持っている人がいるんですから」


 その幼い容姿には似合わない達観した考えだった。でもたしかにそのとおりだ。これは勝ち負けではないのだ。落ち込む必要なんてない。


 ――言い負かすのも若者なら、励ましてくれるのもまた若者か。


 ますます不甲斐なさが募る。ただ不思議と嫌な気分ではなかった。それはきっと彼女の純粋さがちゃんと伝わって来るからだ。


「それに、わたしは先生の意見を支持します」


「へぇ?」


 思わず頓狂な声が出る。


「死刑廃止の活動をやってるんですよね? それってわたしも手伝ったりできます?」


「あ、いや。え? え、えっ! ほ、本気かい?」


 彼女のように若い女性がメンバーになってくれるのは非常にありがたいことだ。だがこの活動は非難されることが多い。さっきの講演での一幕の比ではない。そんな活動に彼女を巻き込んでいいものかと考えると躊躇してしまう。


「君が思うよりずっと大変だよ」


「大丈夫ですよ。わたし根性だけはありますから」


 彼女は袖をまくって力コブを作るってやる気を表現する。白く華奢な腕でコブも申し訳程度しかなかった。


「あ、そうだ。わたし小桃って言います。白井小桃しろいこもも


「白井君か。私は――」


「知ってますよ。海童邦洋かいどうくにひろ先生。でしょ?」


 白井君が私に笑顔を向ける。落ち込んでいた気分を忘れさせてくれる、そんな晴れやかな笑顔だった。

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殺人のすゝめ 桜木樹 @blossoms

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