8 澪標エゴイスト(6)

 ふと、おさないころの夢を思い出す。

 フィオーレがようやっと伝い歩きをしはじめたようなずっとむかし、わたしはテオリアのお嫁さんになると母に話したことがある。だいたいのことには、それはすてきなことねと微笑んでくれた母が、そのときだけは悲しげに笑ってすこし難しいことねと呟いた。


 わたしとテオリアはともに愛情深く育ててもらったし、ほんとうの兄妹のように睦まじく過ごしていた。主家のむすめと従僕の子、という言葉は聞いていたけれど、それがいったいどういうことなのかは双方あまりわかっていなかったように思う。これからもずっと一緒にいたい、テオリアのいない毎日なんてつまらなさすぎて考えられない。そういった気持ちから話しただけなのに、なぜ母を悲しませてしまったのかとわたしは子どもながらに自分を責めた。


 だからフィオーレのことがあってテオリアとともに騎士になろうと誓ったときには、かたちは違ってしまったけれどまたおなじ道を歩めることが嬉しかった。きっとテオリアもおなじように感じてくれていると思っていた……。


 わたしを斬り捨てたテオリアの眼差しが脳裏から離れない。いったいいつから、ああなってしまったのか。

 メテオラの苦悩だってそうだ。なぜわたしはいつも、大切なひとの心に気づけないのだろう。


 目を開けると、涙がひとすじ顔を横切っていった。


 薄暗い部屋の、見慣れないベッドにいた。すぐそばではメテオラが深い寝息をたてて眠っている。その頬に紋様があることに安堵して、そっと触れた。起きているときより眠っているときのほうが大人びた顔つきをして、どちらかというと解放状態のときの表情に近い。

 はじめて会ったときから、へらへらふわふわとして、ふざけた男だった。わたしの問いにはのらりくらりと答えるばかりで、平気で話をすり替えるし、茶化してごまかしたりと散々だった。それでもわたしはこの男を信じると決めた。なにもわたしの意志だけのことではない。メテオラがそう思わせてくれたからだ。


 龍王とのやりとりがどうなったのかはわからない。だがメテオラが無事ここにいてくれればそれでいい。


 短いあいだとはいえ寝起きをともにしていたのに、メテオラの寝顔というのをほとんど見たことがない。いつだってわたしたちより遅く寝て、わたしより早く起きていた。そんな男がめずらしくよく眠っているのだ。下手に起こさないほうがいいだろう。


 ドアの隙間から光がもれている。なにか、おいしそうな香りもかすかに漂ってくる。わたしはブランケットを片手にそっとベッドを抜け出して、裸足のままドアを開けた。

 そこは昼間、テオリアと再会した部屋だった。だが、あったはずのソファや机は見当たらず、がらんとした空間が広がっているだけだった。

 奥のキッチンにテオリアの背中がある。


「起きたか」


 どう声をかけようか迷っていると、テオリアが振り返りもせずに言った。


「いい香りがして」

「おまえも食うか。どうせ一人分には多い」


 テオリアの隣に立って、手もとを覗きこむ。


「鶏の香味スープ……」

「ロッソのお屋敷で出ていたものとおなじレシピだ」


 週末になるとかならず食卓にあがったスープだ。そのままでももちろんおいしいが、パンを浸しても甘みが増して止まらなくなる。すぐにお菓子ばかり食べようとするフィオーレも、この香りを嗅ぎとると大好きなクッキーを控えたものだった。


「どうしておまえがこれを」

「騎士学校へ入る前、母に徹底的に叩き込まれた。いつ帰ってきたとしても、すぐにお屋敷の役にたてるようにと」


 わたしはテオリアの横顔を見上げた。その眼差しはおさないころの生真面目で優しいテオとおなじものだった。

 最期のときにこの目に焼きついた、凍るような憎悪とは折り合わない。

 たまらず奥歯を噛みしめた。

 わたしのことを殺すほど憎みながら、どうしてそんな目をする。

 百年のあいだに浄化されてしまったというのか。それならどうしてパルコシェニコで再会したおり、わたしが生きていることを素直に喜んでくれなかった。


 こうやって隣に並んでいると、戦争なんてなかったような気がしてくる。わたしたちは騎士学校の厨房に忍び込んで夜食を作っているだけの……、殺し合いなどなかった騎士見習いで……。


 どうして、という呟きは、声にならないまま舌のうえで消えてしまう。


 わたしを殺したテオリアと、懐かしい食事を用意しているテオリアと。

 どちらが本当なのだろう。

 ともに過ごしたたくさんの記憶と感情がひとつの鍋でかき混ぜられて、自分でも見分けがつかないほどとけあっていた。

 わたしは肩にかけたブランケットを、抱きしめるように胸もとに引き寄せた。


「毒でも入っているのか」


 慣れない皮肉が口をついて出る。

 テオリアはレードルで灰汁をすくいながら、冷たくわたしを見おろした。


「疑われるくらいなら、いっそそうしておけばよかったな」

「でも、だって……っ」


 そうでなければ、なぜわたしを殺したのか。なぜわたしにあんな、殴りつけるような口づけをしたのか。その説明がつかない。


「わたしのことが憎いのだろう?」


 味見をしていたテオリアの手がとまる。


「そういう無神経なことを平気で聞いてくるところは子どものころから嫌いだ」


 鍋を火からおろし、テオリアは深くため息をついた。


「むかしにも何度か話したと思うが、おまえは周囲のことに鈍すぎる。訊ねる前に、もうすこし自分で観察して、自分で考えろ。それは相手を信頼していることとは矛盾しないはずだ」


 たしかに騎士学校時代に何度も繰り返し忠告された。上官になれば状況に応じた判断力が必須となる。それを養うためにも、まずは自分で考えろ、と。

 そう、だからわたしはテオリアに訊ねることはしなかった。あの戦争の在り方についてもとことんまで話し合うことをせず、玉座の前へ至るまで、わたしたちはおなじものを見ていると信じて疑っていなかった。


 なぜなら、悪魔は敵で、帝国の勝利は絶対だったから。

 和議なんて、考えもつかないほどに。

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