8 澪標エゴイスト(5)
呆然としたわたしの呟きに、そのひとが視線を返す。長い睫毛に縁取られた宝石のような瞳が、わたしを捉えて細くしなる。たったそれだけのことで、心臓を素手で鷲掴みにされたような息苦しさに襲われた。
「ぼくのことを知ってるんだね。どこかで会ったことある?」
「百、年前……に」
「へえ、そうなんだ」
龍王はわたしの耳朶に顔を寄せると、わたしの肌を思いきり吸い込んだ。くすぐったさにも似た快楽と、死を思わせるような恐怖とが全身の血管をかけめぐる。
「人間のように思うけど、かすかに地龍のにおいもするね」
つい先日食われかけたところだと答えようとするけれど、まるで喉が押し潰されてしまったように声が掠れて言葉にならない。短い息がもれるばかりで、苦しさから目には涙が浮かんだ。
かすかにメテオラやテオリアの声が聞こえるけれど、わたしの耳は覆いでもされたように鈍く、彼らの声に応えることはできない。
わたしを抱く龍王の腕は痩せぎすで若木のように細い。力比べをすればわたしにだってたやすく振り払えるものだ。それなのにわたしは指一本だって動かすことができない。龍王の思うがまま、身体の自由といのちを握られていた。
龍王の強さとは、おそらく腕力や武力ではない。ただそこに在るだけで、生命を根本から脅かす神威にも似た存在感。
……なるほどこんな男の血を飲めば、たとえ一滴であろうと無事ではすまない。
しかしはたして百年前もこうだっただろうか。たしかに胸を押されるような圧迫感はあったように思うが、これほどではなかった。あのときと、いったいなにが違うのか。
「まあなんでもいいや。フィオーレもいないし、ちょうど暇してたんだよね。ぼくと遊んでよ」
龍王は涙に濡れるわたしの頬を指の腹で撫で、その手でわたしの顎を掴んだ。
尖った爪をした親指が、怯え続けるわたしの唇に触れようとしたときだった。
「そろそろ離してもらっていいかな」
すこし冷たい指が手首に触れて、わたしを龍王から引き剥がした。
膝が震えてよろめくわたしを、あまい香りが包み込む。
「ルーチェ、大丈夫?」
「なんとか」
龍王と距離を取ったからか、すこし呼吸が楽になる。
「ごめんね、宰相の剣が思いのほか深く刺さって手間取ってた」
わたしはメテオラに抱きとめられながら、首をひねった。なぜ龍王の気配の前で、この男はいつもどおりいられるのだ。
「おまえは平気なのか、メテオラ」
「なんのこと。血ならそのうち止まるけど」
メテオラは不思議そうにまばたきをする。どうやらなんともないようだ。わたしとはいったいなにが違うというのか。
「悪魔だから? それとも呪いか」
「いや、人間も悪魔も呪いも関係ないはずだ」
わたしの疑問を拾い上げてくれたのは、わたしとおなじく呆然とメテオラを見つめるテオリアだった。
「だったらどうして……」
「それはぼくも聞きたいね」
龍王がメテオラの胸ぐらを掴んだ。龍王の眼差しには、さきほどまではなかった瞋恚が渦巻いている。横から見ているだけで、わたしは全身が震えるようだった。
「ぼくをおそれないなんて。フィオーレじゃあるまいし、許されないことだよ」
メテオラは龍王の蠱毒のような視線をまっすぐ受けとめ、涼やかに見つめ返す。
「許されようと許されまいと、どっちでもいい。それより宰相、ルーチェの体の震えが止まらない。はやく休ませてあげて」
「あ、ああ……」
「ふざけるな。ぼくの許可なしにそんなことはさせない」
「うるっさいなあ。龍王だかなんだか知らないけど、いい大人なんだから状況わきまえろよ」
ざらりと紋様が蠢く。
宰相、ルーチェをお願いとメテオラのやわらかな声が聞こえる。ルーチェに手を出したら殺すよと付け足して、あまい香りが離れていく。
「やめろ、メテオラ……」
声は届いたのだろうか。わからない。メテオラのシャツを指の先で引っかいたようにも思うが、その感覚を最後にわたしの意識は途切れた。
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