60. 思惑の交差 - Speculation and Speculation -

 ひとりになった監房で、アーロンはふたたび硬いベッドに寝転んだ。ノックの音で目を覚ましたが、いったいどれだけの時間眠っていたのだろう。

 あいにく、時間を確認する術がない。

 ぼんやりとしていた頭は、コットンと話をしているうちに冴えてきた。意識がはっきりとしてくるにつれ、火傷した左足が疼きが強くなる。その疼きは、眠りに落ちる前のヒリヒリとした痛みではなく、それを通り越してぞわぞわとするような痒みに変わり、コットンと話をしていた最後のほうには、意識はほとんど足のほうへ向かっていた。


 痛みよりも痒みのほうが、我慢ができないというのはよくある話だ。アーロンもその例に漏れず、堪らず左足に巻かれている包帯をほどいた。妙に艶のある、真っ赤に膨らんだケロイド状の皮膚が顔を覗かせる。それを目にした瞬間、掻痒感が一気に膨らんだ。皮膚の下でなにかが蠢いているかのような錯覚を覚える。


「おぉぉぉ、あぁぁ……!」


 痛みが痒みに変わってきたのは治りはじめているということなのだろうが、この掻痒感は耐え難い苦痛となって身体を駆けのぼり脳を侵食した。患部を掻くのはご法度とわかっていても、両手はわなわなと震え、左足へ伸びそうになる。それをグッと理性で押さえ、ベッドへ腰かけたまま足を宙に投げだし、ブランコを漕ぐようにぶんぶんと振った。空を切る足に、微弱な風が当たる。が、その弱い刺激は指で掻きむしる代わりには到底なりえなかった。


 仕方ない。

 意を決し、左足に包帯を巻きなおしたあと、サンダルへ両足を通した。そのままゆっくりと立ちあがる。自身の体重が徐々に両足へのしかかっていく。その瞬間、ぞわりとした感覚が左足首から脳天へ向かって這いあがってきた。


「くぅぅ~ッ……!」


 宙で足を動かしたときとは比べ物にならないほどの刺激だった。快感にも似た感覚で全身が粟立ち、ぶるぶると身が振るう。左半身に重心を傾けると、その刺激がさらに強まっていく。おそらく掻きむしるほうがまだ気持ちがいいとは思うが、患部への影響を考えると、自重の刺激のみで我慢するほうが得策だろう。


 試しにその場で足踏みしてみても、我慢できない痛みが走るわけでもなく、むしろリズミカルで心地よい刺激に包まれた。今までは火傷した足を庇っていたが、歩行にも大きな支障はなさそうだ。掻痒感を頭の中からできるだけ排除するために、気が済むまで足踏みをしようと心に決めた。ひとりきりの監房に、一心不乱に床を踏みしめる音と、アーロンの息遣いだけが響く。


「あのー、なにされてるんですか?」


 急に、怪訝そうな低い声が響いた。

 ピタリと足が止まる。弾かれたように面をあげると、ひらいた扉から顔を覗かせた状態で、ダレル・マッカランが固まっていた。


「ちょっ、なに勝手に開けてんだ!」

「ノックしましたよ。そうしたら中からうめき声みたいなものが聞こえるので、なにかあったのかと思って。びっくりしました。その場で足踏みなんかして、どうしたんですか?」


 しっかりと目撃されていたようで、アーロンは柄にもなく両耳を紅潮させた。

 言葉に詰まりながらも、状況について説明すると、


「あぁ、なるほど。火傷の患部が痒くて仕方がなかったと。お気持ちはわかりますよ」


 ダレルは頷きながら理解を示し、


「でも、それならもう治りはじめてるんじゃないですか? すごいですね、驚異的な回復力だ」


 と、感心したようにつづけた。


「ここは魔力が濃いから腹も減らないんだろ? 傷の治りも早いってこともあるんじゃねぇか」

「たしかに、それはそうですが。それでもすごいと思いますよ。ボスの火力は私でも火傷するくらいですから」


 そう言って、彼は呆れたような視線をアーロンに向ける。


「あなたもいい加減頑丈ですよね」

「アンタに言われたくはねぇよ」


 頑健さでは右に出るものはいないであろうダレルに、アーロンは眉尻を落とした。


「それで、なんの用だ」

「あぁ、そうでした。聞きましたよ、ボスから頼みごとをされたんでしょう」

「頼みごとっつーか、あっちは命令のつもりだろうけどな」

「それはそうですよ。この棟の中でのことは、すべて彼の思いどおりになりますから」


 小さくため息をつきつつ、


「逆らったら殺される、という意味でね」


 少しだけ、声のトーンが低くなった。彼の目の奥が妖しく光ったように見える。


「私は、従っておいたほうがいいと思いますよ」


 ぽつりと呟くように口にしたダレルの言葉に、アーロンは顔をしかめた。


「あのなぁ、コットンにも言ったが、俺はマリクに迎合したつもりはねぇし、A棟にカチコミにいく理由もねぇ。ロンドンに戻れたり、邪悪の樹についてなにかわかるような見返りがあるなら多少の荒事はやぶさかじゃねぇが、マリクの機嫌を取るためだけにエネルギーを浪費するような真似はゴメンだ」


 その言葉に、お気持ちはわかりますが、とダレルは前置きしながらも、


「試しに、やってみるんですよ。なにも最初からドンパチやる必要はありません。ボスは他の派閥を根絶やしにすることが目的なのではなく、この収容所の覇権を握ることが目的なんですから」


 と、人差し指を立てた。


「うまくやればいい、という話です」


 そうは言われても、アーロンの顔色は晴れない。

 今、考えなければならない最優先は脱獄の計画だ。派閥争いに精を出すより、収容所内の探索や情報収集に時間を割きたい。


「なんでわざわざ俺に命令するんだ。いくらでもほかにいるだろ、アンタも含めて」


 派閥を仕切っているなら、極端な話、誰に命令しても変わらないだろう、と言うアーロンにダレルは同意しつつ、


「ボスにとって本命は向こう側にあるB棟です。A棟と本格的に事を構えていては、戦力の低下を免れない。ですので、新入りでかつ実力も申し分ないあなたに、お願いをしたんじゃないかと思いますよ」


 その話に、なるほど、とアーロンは舌を打った。


「当然っちゃ当然だが、俺は信用されてねぇわけだな。鉄砲玉として特攻させてうまくいけばそれでよし、交渉に失敗して戦闘になっても、損害は俺ひとりで済むうえ、A棟の戦力を削ぐような、ある程度の成果は得られると思ってるわけだ」

「まぁ、そういうことでしょうね」


 それなら、確実にアーロンよりも従順であろうダレルに命が下らないことにも合点がいく。


「ますます、気に入らねぇな。従う気が失せる」

「最初から失せてらっしゃるでしょう」


 ダレルは小さく笑って、眉尻を落としつつ、


「でも、A棟を手中に入れたら、おそらく次はB棟ですからね。私があなたの立場なら、まずは足掛かりとしてA棟と折り合いをつけます。そうしたら、B棟にもすんなり行くことができますし」


 B棟に行けば、あなたの情報収集もはかどるでしょう? とつづけた。


「そんなまわりくどい真似しなくても、勝手にB棟に行ってもいいだろ。ここの看守はほとんど仕事もしてないようだしな」

「ここを出ていくのは簡単ですが、B棟に入るのはまず無理だと思いますよ」

「連絡通路の扉に、鍵なんてモンはなかったように思うが」

「B棟はとても閉鎖的なんですよ。仲間意識が強くて、部外者はまず入れません。看守すら篭絡しているという噂ですから。それこそ、ボスの名前を使わないと門前払いされると思います」


 いわく、B棟は排他的でほかの棟を軽視しているが、派閥のボスであるマリクのことは無視できない。マリクの遣いでやってきたという体にするためにも、ここはまず従っておいたほうがいい、という話だった。


「チッ……」


 心なしか舌打ちが漏れる。

 ダレルもいなくなり、ひとりきりになった監房で、アーロンは監房の壁を拳で殴りつけた。

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