59. 提案 - Suggestion -

 ボスには敗北したものの、派閥内のランクで第四位だったダレルに勝利を収めたアーロンは、C棟のフロアで一目置かれる悪魔憑きになっていた。


 足の火傷がまだ完治しておらず、歩行には難があるままだったが、情報収集をダレルに頼りきりというのも気が引ける。廊下や階段の欄干、フロアのテーブルや椅子を支えにしながら片足立ちで歩き、満身創痍の身を押して情報を集めていた。


 周りを窺うようにしてフロアを移動している者も少なくない中、自由に行動しても絡まれたり、喧嘩をふっかけられるようなことにはならなかった。ほかの囚人同士が諍いを起こし、争っている姿は姿はときどき見かけたが、戦闘力という意味では現状、大きく低下しているアーロンに対し、その隙を見て襲いかかってくることはない。


 どうも派閥内のルールとして、明らかな傷病者へ勝負を仕掛けることははばかられる傾向にあるらしい。もっとも、第四位だったダレルを倒し、臆せずボスのマリクと戦闘を繰り広げたアーロンに対し、いくら怪我をしているとはいえ、敵にまわす度胸のある囚人がいなかったのかもしれないが。


 そのため、情報収集にも大きな障壁はなく、ほかの悪魔憑きへ質問をしてまわったが、邪悪の樹、生命の樹のタトゥーに関する情報は手に入らなかった。


 わかったことといえば、派閥の名前がキングス・ブルということと、アーロンの監房に同居者はいないということくらい。それは特別というわけではなく、ほかの監房もちらほらと個室になっているところがあるらしい。


 理由は単純で、ネイサンについていった派閥の人員が抜けたぶんが、そのままフロアや監房の閑散とした雰囲気を生みだしているということだった。


 一方、ザミュエルはというと、フロアの中ならある程度自由に移動できるようで、基本的にアーロンから離れ、いつもアシュリー・コットンについてまわるか、ダレルにつかまっているという状況にあった。


 うるさい本が横にいないことは、アーロンにとっても幸いだったのだが。ただ、ひとつ気がかりなのが、例のタトゥーの情報はともかく、脱獄についての聞きこみが遅々として進まないことだった。


 脱獄を画策していると思われると面倒なため、声を大にして質問をすることが難しい。なんとなく、迂遠に尋ねるので精いっぱいというありさまだった。ほかの悪魔憑きも質問に素直に答えはするが、返ってくるのは、この世界は脱獄不可能だという答えばかり。派閥にいる囚人の中で、それを試そうとしたことがある者は今のところおらず、突っこんだ話を聞くことは叶わなかった。


 もし例のタトゥーについての情報が手に入っても、脱獄できないことにはなにもはじまらない。狼を侍らせているあの兄弟がうろついている森の中を、どうやって目立たずに散策するか。


 硬いベッドに寝転んだまま思案を巡らせているうちに、だんだんと瞼がさがってきた。身体はまだまだ休養を必要としているらしい。収容所に来てはじめて眠気という欲に支配された脳は、脱獄の方法について考えるより先に意識を手放した。


 どれくらい経ったころだろうか。

 かすかに扉をノックする音と、自分の名を呼ぶか細い声に、アーロンの意識は揺り動かされた。


 ゆっくりと起きあがり、怪我をしている足を庇いながら、なんとか片足歩行で扉まで向かう。扉を押しひらくと、その先に立っていたのは、小柄で、唯一のメイド服姿の人物。アシュリー・コットンという名前の囚人だった。


「……あぁ、アンタか」


 喉がひらいていない、獣の唸りのような低い声がアーロンの口から出る。


「すみません、お休みでしたでしょう」

「いや、いい。それで、なにか用か」

「マリク様からの言伝を伝えに参りました。アーロンさんにお願いしたいことがあるそうで」

「お願い……? また喧嘩したいとか、そういうんじゃないだろうな。もしそうなら勘弁だ」

「いえ、そういうことではありません」


 その言葉に、アーロンは眉根を寄せた。戸口で簡単に済む話ではないのだろうと判断し、コットンを招き入れる。


「前に、もともとふたつの派閥が争っていたことはお話ししましたよね?」


 誰も使っていない、対面のベッドに腰掛けたコットンが口火を切った。


「そこでネイサ――邪眼の持ち主がこっちで暴れて、派閥の囚人を引き連れて出ていった、って話だったな」


 はい、とコットンが頷く。


「そのA棟を攻め落とせ、というのがアーロンさんへの命令です。邪眼の悪魔憑き以外は軟弱な悪魔憑きばかりだから、アーロンさんひとりでも問題ないだろう、と」


 予想もしていなかった話の内容に、アーロンはため息をついた。


「どうしてわざわざ俺がそんなことを。俺はべつにアイツに迎合したわけじゃねぇし、騒ぎを起こしたいとも思ってない」

「そう、ですよね……」

「そもそも、攻め落とすってなんだ。看守がいる中で、そんな大暴れできるわけがねぇだろ。こっちは例外みたいだが、あっちは看守長の力が強い」


 派閥を治めるマリクが絶対的な権力を誇るこの棟で、ルビカンテという名の小柄な看守は、一番大きな部屋を追われ、囚人たちと同じ狭い部屋に引きこもっているらしかった。


「アーロンさんはまだご存じないかもしれませんが、基本的に、看守たちは囚人同士の問題や諍いに対処することはありません。なので、ここだけの話じゃないんですよ。ここの看守は、性格のせいもありますけど……」

「それなら、奴らは看守の役割なんてなにひとつやってねぇじゃねぇか」

「そう見えますよね。わたしも同感です」


 コットンの話をそのまま飲みこむなら、看守長を名乗っていたスカルミリオーネは、一番大きな部屋でただふんぞり返っているだけということになる。


「なので、A棟を手中に収められるなら手段は問わないと」


 最初よりも迂遠な言いかたをするコットンだったが、その言葉の真意は、いやでも理解できた。アーロンの眉間に刻みこまれているシワが一層深まったことに、コットンも気がついたのだろう。


「ですが、アーロンさんもまだ、完治していないと思いますし……マリク様も、すぐに行動しろとはおっしゃっていなかったので、あの……少し、考えてみてくれませんか」

「考えるたってな、そう簡単に変わんねぇって」


 あくまでも従うつもりはないと返すアーロンだったが、


『あの筋肉ダルマを敵にまわすよりは、あっちで暴れるほうが楽なんじゃねぇの』


 と、ザミュエルが口を挟んできた。


『コイツがあのバケモンに話をつけてくれたんだぜ。オマエの怪我が完治するまで待ってほしいって。どうせ最初の棟に戻るわけでもねぇんだ、それならこっちで動きやすくなったほうがいいだろ』


 ザミュエルが饒舌なのはいつものことだったが、アーロンは不本意ながら、その言葉の中にいつもと異なる違和感を感じとった。


「珍しいな。お前が、他人に従うことを受け入れるってのは」

『賢いと言え。オレはテメェみたいに感情だけに振りまわされるようなバカじゃねぇんだよ。ちゃんと理性でベターな選択肢を選びとれるんだ』


 それに、とザミュエルは付け加える。


『助けてくれた恩人の頼みを聞けねぇほど、テメェが落ちぶれてるとは思わなかったぜ。コイツはあのバケモンからお前への命令を命令されたんだ。話を聞いてもらえませんでした、じゃあ、コイツがどんな目に遭わされても知らねぇぞ?』


 恩。

 そんな概念など欠片も身についていないような悪魔から出たその言葉に、アーロンは歯が浮くような感覚を覚えつつも、一層眉根を寄せた。そんな、ひとりと一冊のあいだに流れはじめた剣呑な雰囲気を敏感に感じとったのか、コットンが慌てた様子で立ちあがった。


「あのっ、わたしのことならお気になさらず! 全然、大丈夫ですので!」

『でもよ、命令が聞けませんじゃあ、あの男は納得しねぇだろ?』

「それは、はい……より強い者の意思が優先される、というのが掟ですので……マリク様は、自分の考えが通らないなどということは、これっぽっちも考えていないと思います……」

『ほらな』


 どういうわけか、ザミュエルが得意げな声をあげる。


『靴を舐めろなんて言われたわけじゃねぇ。とりあえずコイツのためにも恭順する姿勢だけでも見せとけってんだよ』

「自分が従う立場じゃねぇからって好き勝手言いやがって」


 アーロンは苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てたあと、


「少し考える時間をくれ」


 と、コットンへ向きなおった。


「もちろんです、急がなくてかまいません。マリク様には、わたしのほうからお話ししておきますので」


 安堵の表情を浮かべ、コットンは恭しく頭をさげた。


「また、あとで替えの包帯を持ってきますね」

『さっさとオレの身体を治しとけよ』


 そう言って、彼はそのまま監房をあとにする。すっかりコットン付きになった黒い本は、捨て台詞のように言い残したあと、そのあとをついてふわふわと出ていった。

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