56. 頂点 - The Top -
突如フロアに広がった砂煙が、ゆっくりと晴れていく。そこには、第四位が倒れていた。その光景を目にした観衆が、次々にざわめいていく。
「やりやがった!」
「マジかよ……おれ、アイツが負けたのはじめて見たぜ」
「おれもだ、ボスを除いた上のふたりよりも強いって噂だったろ」
明らかな動揺がフロア全体に広がる。だが、その喧噪はすぐに収まった。
「久々に骨のあるヤツが来たようだな」
どこからともなく、獣の唸り声のような野太い声が響き渡った。瞬間、フロアの空気が変わる。思い思いに口をひらいていた観衆がピタリと止まる。
「マリク様……」
誰かが、呆然とした声色で呟いた。
フロアの一階、A棟では看守室だった一番広い部屋から出てきたのは、ルビカンテとかいう先ほどの小柄な看守ではなく、浅黒い肌をした半裸の男だった。
その姿を捉えたアーロンの目が、みるみるうちに見ひらかれる。
「――!」
アーロンが瞠目した理由は、なにも半裸に驚いたからというわけではない。身をかがめながらゆっくりと出てきた男の体躯が、尋常ではなかったからだ。
身長は、目測で三メートル近くはあろうか。腰まわりや腕、脚の太さも、成人男性の三倍ほどと言っても過言ではない。ボディビルダーも真っ青の巨躯だった。あれは明らかにクスリだとか、ドーピングだとか、そういったもので説明がつくような体格ではない。全身ぼこぼこと浮きでた筋肉が、皮膚の下でうごめいているように見える。それは顔面も例外ではなかった。ギリシャや北欧の神話に出てくるような巨人と形容していい男が、そこにはいた。
彼に付き従うように侍っている、メイド服のような衣装を着た小柄な人物も目に入らなかった。
「ダレルを倒すとはやるじゃねぇか。え? 現時点でお前は四番目だ」
緊張がフロアを包みこむ。
まるでコロシアムの決闘を見に来た観客よろしく、血沸き肉躍る狂乱の様相を呈していた周りの囚人たちも、水を打ったように静まり返った。
マリク様と呼ばれた彼は、周りのそんな雰囲気も意に介さず、思いきり足を持ちあげ、地面を踏み鳴らした。床に走った亀裂が、アーロンに向かって一直線に伸びる。
亀裂が足もとまで到達した瞬間、床がボコリと盛りあがった。
目を剥き反射的に横へ飛んだ瞬間、隆起した床が爆発し、炎の柱が噴きあがる。まるで、小さな火山が噴火したかのような光景だった。
瞠目しているアーロンをよそに、マリクは大木と見紛うような腕を床に叩きつけた。その瞬間、彼を取り巻くようにして周りの床が盛りあがり、複数の火柱が噴出する。フロア全体が揺れ、天井からはパラパラと砂埃が舞い落ちた。
噴きあがった火柱はのたうつ蛇のようにうねり、一斉にアーロンめがけて降りそそぐ。
フロアは阿鼻叫喚の渦に埋め尽くされ、二階の廊下を埋め尽くしていたオレンジ色の集団は瞬く間にそれぞれの監房へと引っこんでいった。
「クソッ」
ただひとり残されたアーロンは、わたわたと四つん這いで身を翻し、フロアを広く使って襲い来る炎の槍を躱していく。ただし、躱してばかりの防戦一方という手は取らない。そのまま相手の懐に潜りこみし、手のひらで練りあげた魔力を眼前で炸裂させた。
衝撃と轟音によりマリクの首は後方に折れ、顔は天を仰いだ。二歩ほど後退し、鼻や口から血の雫が散る。いくら頑健な肉体をしていようと、脳震盪は免れない一撃だ。
(入った)
無意識に口角が吊りあがる。
そのまま意識を失った大きな身体が倒れ、勝利を収める。と、脳裏に浮かびあがっていた未来は、両目に映った悪魔のような不敵な笑みにかき消された。全身がぞわりと粟立つ。
「イイ
瞬間、アーロンの半身に鉄の塊が激突したような衝撃が走った。天地が何度もひっくり返り、身体はもんどりうってようやく停止する。
「が、ぁ……」
全身を駆けめぐる痛みのせいか呼吸が止まる。かろうじて持ちあげた視線に映ったのは、大男の凶悪な笑みだった。
顔面の穴という穴から血を滴らせはいるものの、倒れることも、失神することもなく、マリクは憤怒の表情で目を爛々と輝かせている。つづいてアーロンの目に飛びこんできたのは、今まさに自分自身に降りそそがんとしている炎の柱だった。
硬直した身体は、うまく動かなかった。
真っ赤な炎の柱が、左脚に直撃する。
「がぁぁぁぁあああああッ!?」
オレンジ色のズボンが燃えあがり、アーロンの左脚を炎が包みこんだ。
立ちのぼる饐えた臭いと、視界を染めあげる真っ赤な炎。脳内で爆発する激しい痛みが全身を支配する。
「がァあづぅッ!」
自らの意思ではほとんど動かなかった身体は、痛みから逃れようという一心か反射的に跳ね、転げまわった。口からは言葉になっていない絶叫が轟き、唾液が泡となって散る。だが、そのおかげか、幸い火は全身には燃え移らず、ズボンの左股下を焼き尽くしたのみで鎮火した。燃え尽きた部分から、真っ赤にただれた脚が覗く。
しかし、ほっとしたのには違いない。
アーロンははじめて、視線を自らの左脚から外した。
「ッ!?」
映ったのは、脚を振りかぶった大男の姿。
硬い足の甲が、アーロンの腹部に突き刺さった。サッカー選手がゴールを狙って放つような、強烈な一撃。ふたたび身体はフロアを横断する勢いで転がった。
「ゴフッ……!」
シェイクされた胃の腑から逆流した胃液が唾液や血と交ざり、赤い液体となって口からあふれた。思考にもやがかかったような感覚に陥る。目が霞み、脳は痛みという感覚しか発していない。
看守長に反旗を翻したときから連戦による連戦で、すでにアーロンの魔力は枯渇の状況にあった。
散々いたぶられた身体は鉛のように重く、自らの意思では立ちあがることすら叶わない。ただ、地を踏み鳴らす悪魔の足音だけが聞こえてくる。それが消えると同時に、太い腕で胸ぐらをつかみあげられた。
地面から足が浮く。
なんとか逃れようと身をよじろうとするが、満身創痍の身体は、小刻みに痙攣するにとどまった。
マリクの大きな手が、アーロンの首へ食いつく。剣歯虎の牙のような鋭い爪が柔らかい皮膚に食いこみ、赤い血があふれだした。
「ご、ぉぅ……」
頸動脈が圧迫され、アーロンの視界は徐々に暗闇が支配していった。抵抗するように太い腕をつかんでいた手も、ついにだらんと垂れさがる。
「もうおやめください、マリク様!」
突然、悲鳴のような甲高い声が響いた。
顔を血に濡らし、愉しげに口の端を吊りあげていたマリクは、首を絞めていた手を緩め、肉食獣のような鋭い視線を横に流した。
見おろした先に、黒い給仕服に身を包んだ小柄な人物が立っている。若干距離はあったが、それでも身を震わせているのが簡単に見て取れた。
「アシュリー。テメェ、俺様の邪魔をしようってのか」
「いっ、いえ……そういうわけでは」
棘立った重く低い声を向けられ、アシュリーと呼ばれた小柄な人物はうつむいた。
「ですが、これ以上は死んでしまいます」
「死ぬようなヤツはその程度のヤツだった、それだけだ。お前もそれはわかってるだろう」
「はい、存じております。ですが、彼は第四位を倒すほどの猛者です。こちらの戦力にしてしまえば、先日失った人員よりもおつりがくるのではないでしょうか」
アシュリーの言葉に、マリクはいまだ首を持ちあげていたアーロンへ視線を戻した。
「……たしかに、邪眼とやらに恐れをなし、俺様のもとから逃げだした雑魚どもよりは価値があるか」
つかんでいた手を放し、アーロンを地面に投げ捨てる。そのままきびすを返し、自室へと足を向けた。
「あとはお前の好きにしろ」
部屋に戻るマリクへ、アシュリーは深々と腰を折った。
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