57. 小さな世界 - It's a Small World -

 目を開けた視界にまず映ったのは、こちらを覗きこんでくる恐ろしい悪魔の顔をした本の表紙だった。

 反射的に拳を突きだそうとしたが、その瞬間全身に走った痛みに身体は硬直した。


『ヒャハッ、バーカ!』


 ふわりと後退した本があげる下卑た笑い声に、こめかみがピクリと反応する。なんとか上体を起こし、一撃を加えようとした。

 その物音に気づいたらしい。


「あ、目が覚めましたか?」


 鈴を転がすような声が耳に届く。

 驚いて横に視線を流すと、おかっぱ頭の小柄な人物が、まんまるい双眸をアーロンに向けていた。


「だっ、誰だ!?」


 いつのまにか自分の独房に戻ってきており、その中に他人がいる。それも、皆が着ているオレンジ色の囚人服ではなく、黒と白を基調にした、女物の給仕服のような衣装を身にまとっている。

 状況のすべてに理解が及ばず、アーロンは素っ頓狂な声をあげ、壁際にあとずさった。


「あっ、すみません。わたし、アシュリー・コットンといいます」


 輪郭も目も髪型も丸い、どこをどう見ても可愛らしい容貌のその人は、ペコリと丁寧にお辞儀をした。所作や服装も相まって、メイドそのものにしか見えない。


『伸びたお前を介抱してくれたんだぜ。ってそれより、やっぱり女もいるんじゃねぇか!』


 その肩越しから、ザミュエルが補足しつつ鼻息を荒くした。


「アーロン・アローボルトだ。俺を助けてくれたみたいだな」

「はい、さすがに命にかかわると思って」

「男ばかりの収容所だと思ってたが、まさか女がいるとは。それにその服装、一応管理側か」


 給仕服を身にまとっていることから、囚人の食事などを取り仕切っている役目を負っているのだろう。看守とはまた異なるのだろうが、この収容所を支配している側といえる。最初に送られたA棟では、そういった人物は見かけなかったが、ただ見ていないだけだろうと勝手に想像する。が、


「いえ……わたし、男です。それに、囚人ですし」


 自分で納得していたアーロンの考えをすべて吹き飛ばす答えが、彼の口から控えめに、だが衝撃を伴って飛びだした。アーロンの横では、黒い本が喃語のような意味不明の音を発しながらパタリと床に落ちる。


「女の子に間違われるのは仕方ないですけどね。こんな見た目だし、身体も大きくないし、筋肉もないし」


 アーロンのいらえを待つ前に、コットンは矢継ぎ早に話をつづけた。


「いや、悪い。失礼なことを言った」

「だっ、大丈夫です! 気にしてないので。それより、お身体のほうは大丈夫ですか? 大怪我でしたので、心配だったんですが」


 コットンに言われてはじめて、アーロンは自分の身に視線を落とした。

 炎に包まれた左足には、白い包帯が巻かれていた。ヒリヒリとした感覚が常時左足を駆けめぐっているが、我慢できないというほどではない。


 つづいて、腕をまわし、足を動かしてみる。ピリッとした軋むような痛みこそ走るものの、関節や内臓、骨や頭も含め、骨折や内臓破裂といった重傷はなさそうだった。もしかしたら、寝ているあいだにある程度自然に治癒したのかもしれない。


「……問題ない」

「それならよかったです」


 ここでようやく、気を失う前の記憶が鮮明によみがえってきた。


「それにしても、あの戦闘によく首を突っこめたな。俺をここまで連れてきて、治療までするなんて」


 体格からして、アーロンとコットンでは結構な差がある。

 彼より屈強な男たちが何人もいる中で、コットンが真っ先に割りこんだとは、見かけによらずなかなかにタフなのかもしれない。

 そう思うアーロンだったが、コットンはふるふると首を横に振った。


「それは、わたしからマリク様へお願いしたんです。もうやめてほしいって」

「マリク様……あのバカデカい男か」

「はい、このC棟……いえ、おそらくこの収容所内で、一番強い男です」

「他人の話を聞き入れるようなタマには見えねぇが」

「たしかに、普段はそうなのですが……幸い、わたしがお願いすれば納得してくださることも多くて。わたしが、マリク様の身のまわりのお世話をしているからかもしれませんが」


 身のまわりのお世話。

 その言葉にアーロンは眉をひそめた。口には出さないが、うんざりとした気分になる。彼の服装が囚人服ではなく給仕服なのも、あの大男の意向ということかもしれない。


「すみません。マリク様のこと、あまり恨まないであげてください」


 アーロンの様子に気づいていないらしいコットンが、控えめに口にした。お願いします、と腰を折る彼を見て、ますますアーロンの眉間が寄る。


「どういう意味だ」

「ここ、C棟はマリク様が牛耳っている派閥が拠点にしているんです。なにかを決めるときは勝負で決める、というのが習わしで、すべてのことは力の上下関係で決まります。最近、邪眼を持つ悪魔憑きがこちらに送られたのですが、マリク様に迎合せず、対立してしまって。恐怖をおこす邪眼に恐れおののいた派閥のメンバーが、A棟に送られたその悪魔憑きについていってしまったんです」


 コットンの言う邪眼の悪魔憑きとは、おそらくネイサン・ダンのことだろう。

 そういえば、ネイサンは最初こちらに送られ、A棟に移ったと言っていた。C棟のことを厄介なところだと評していたあたり、もしかしたらネイサンも好き勝手に暴れたのかもしれない。


「それから少し、虫の居所が悪くなっているようで。憂さ晴らしでやつあたりされたアーロンさんとっては、堪ったものではないと思いますが……」

『あのナリで寂しがりやかよ』


 気持ち悪ィ、と悪態をつくザミュエルに内心で同意しつつ、


「この収容所、派閥なんてあるのか」


 アーロンは軽く驚嘆の声をあげた。

 だが、思えば一般の刑務所でもよくある話だ。大勢の人がひとところに集められれば、大なり小なりグループが形成されるのは自然な流れなのだろう。


 はい、と頷いて、コットンは話しはじめた。


「もともと、ふたつの派閥に分かれて、収容所の覇権を争っていたんです」

『こんな小さな世界でハケン争いって、笑い話にもなんねぇな』

「それぞれ左右の棟を拠点にして、中央のA棟を戦場にしていたんですが、例の邪眼の悪魔憑きが来て中央を占拠してからは、その争いも小康状態になりつつあります」


 ほんの少し、彼の表情が緩む。


「悪魔は元来争いが好みのようなので、物足りないと思っている人が多いみたいですが。わたしにとっては、束の間の平穏という感じがしてほっとしています」


 胸をなでおろすコットンを見て、アーロンはふと思い浮かぶことがあった。


「アンタの自我は、アンタ自身のものか」


 その問いに、彼はコクリと頷いた。


「意思疎通もできないし、自我の明け渡しかたもわからないし、自分が本当に悪魔憑きなのか疑問に思うこともありますけど」


 アハハ……と照れくさそうに笑うコットンを見て、アーロンは眉尻を落とした。彼を見ていると、ここが悪魔の力を使い悪事を働いた罪人たちの収容所だということを失念しそうになる。どうして彼のような人物が、こんなところにいるのか。


「そんな悪魔憑きが、なにをしてここに送られてきたんだ」


 それはほんの軽い疑問として口を衝いた。が、コットンの表情が強張り固まったのに気づき、小さく首を振る。


「悪い、無神経だった」

「いえ……正直、覚えていないんです。でも、凶悪な犯罪を自慢している人もときどき見かけるので、わたしも、それなりのことをやったんでしょうね」


 そう言って、コットンは悲しげに目を伏せた。

 監房に、重い沈黙が流れる。それを大きな深呼吸で裂き、アーロンはふたたび自分の身体に目を落とした。


「それにしても」


 話題を切り替えるように呟いて、自分の腹に手を遣った。コットンの治療の甲斐あってか体力には問題なく、今まで眠っていたためか目も冴えている。経験上、多くの魔力を使い、ボロボロになったあとはまず胃が空腹を訴え叫びだす。はずなのだが、相変わらず食欲は沈黙しているままだった。


「もしかして、お腹が減りましたか?」

「いや、全然」


 その言葉に、コットンは「ですよね」と笑った。


「この世界にいる限り、食事は必要ありません。それどころか、排泄もです。眠ることはできるんですけどね」


 彼の声が、脳内で妙に反響する感覚に陥る。それだけ、にわかには信じられない内容の話だった。


「うそ、だろ。たしかに、こっちに来てまだなにも食ってないし、トイレにも行ってないが……」


 そんなことがありえるのか。

 生きている以上、食事と排泄は逃れえぬ生命活動のはずだ。それを無視して生きていくことなど、不可能としか考えられない。


「理由まではわかりませんが……ここは、わたしたちが暮らしていた世界とはまるで異なる異界らしいんです。確かめる術はないみたいですが、魔力が濃いせいで、悪魔が力をつけるから、表に出るのも悪魔の人格になりやすいのだとか。食事をする必要がないのも、魔力が栄養の代わりになっているからだと聞きました」


 説明をしてもアーロンの表情が芳しくならないのを見てか、コットンは小さく笑った。


「信じるのは難しいですが、実際に、食べなくてもトイレに行かなくても生きていけてるんですよね、不思議です」


 理屈よりも事実が先に来る。そしてその事実が不都合なものでないのなら、苦労して原理を解き明かす必要もないということか。


『欲に惑わされずに過ごせるってことだな。いいことじゃねぇか』


 普段からそういった生命活動をおこなわないザミュエルが呑気に喋る。

 まどろこしい頭脳労働が苦手なアーロンも、問題がないなら文句はない、という感覚は理解できる。ただ、魔力が濃い異界に飛ばされたというだけで、生理現象がピタリと止まるということがありえるのだろうか。腕を組み、思考に浸ろうとしていたとき、コンコンと監房のドアがノックされた。


「入りますよ」


 外から声が聞こえるのと、扉がひらくのはほぼ同時だった。現れたのは、ひとりの男性。浅黒い肌と大柄で筋肉質な体躯は、見る者を圧倒する迫力がある。


「お前は」

「ダレルさん」


 アーロンとコットンがそれぞれ口をひらく。

 先ほどアーロンと相対した第四位の男、ダレル・マッカランは、黙ったままずんずんと入室してきた。そのまま、ベッドに座っているアーロンの両肩をガッとつかみ、


「どうして真っ向勝負をしてくれなかったんですか!?」

「ひっ」


 目を剥いて叫んだ彼に驚き、アーロンは反射的にあとずさろうとした。だが、がっしりと肩をつかんでいる彼の両腕がそれを許さない。


「最後のすごい技を、私が受け止めて勝敗を決すると、お互い了解し合っていたと思っていたのに! あれは陽動でしたね? 本命は私の意識を奪うことだった!」


 たしかにそのとおりだった。

 結局物理攻撃で攻めるのは得策でないと判断し、ザミュエルに発動させた、相手の精神に干渉し意識を奪う魔導で勝負を決める。アーロンが発動した派手なバーストスペルは、それで決着させると思いこませるためと、土埃を起こしザミュエルの姿を隠すためのおとりだった。


「そっ、そんなモン律儀に受け入れるわけねぇだろ。喧嘩なんて出し抜いたモン勝ちだ」


 まくしたてるような勢いで喋るに、アーロンは視線をそらして弁明する。


「……たしかに、私が勝手に期待をしていただけですね。すみません、横暴なことを言いました」

「いや、わかってくれたならいいが……」


 アーロンの発言に理解は示したようで、ダレルは肩をつかんでいた手を放した。態度からして、不本意だという気持ちはあるのだろうが、彼はどこまでも理性的な男らしい。


「ひとつ、お聞きしてもいいですか」

「なんだ?」

「最後に見た恐ろしい表紙をした本は、あなたの持ち物ですよね」


 ス、と射抜くような視線を向けられ、アーロンはピクリと眉を震わせた。


「……記憶が混濁してるんじゃないのか。この世界に本なんてないだろう」

「だからです! 私は読書が好きなんですが、ここではそれを楽しめません。アローボルトさん、あなたが持っている本を読ませていただきたい! ジャンルや内容はこの際一切気にしません!」

「いやっ、だからそれはアンタの」

「勘違いなどではありません! 絶対に見ました!」

「さっきの聞き分けのよさはどこにいったんだよ!」


 アーロンはあくまでもダレルの勘違いという話で進めようとしたが、ダレルは頑としてそれを認めず、譲らなかった。監房の中をすべて晒し、本がないことを示しても、能力かなにかで隠しているのだろうと言うばかり。

 結局、先に折れたのはアーロンのほうだった。


「目立つから隠しておきたいんだよ」


 視線をそらしたまま、眉間にシワを寄せる。対するダレルは、ぱぁっと顔をほころばせた。まるで欲しいものを手に入れた少年のように目を輝かせている。


「絶対に口外しません、コットンも約束できますよね?」

「え、あ、はい」


 今まで黙って話を聞いていたコットンは、急に水を向けられ鼻白んだ。


『もういいだろ、コイツら人畜無害っぽいし』


 三人の頭上では、今までのやり取りにうんざりしたらしいザミュエルがため息をつく。普段なら、ザミュエルが言うことにはほとんど同意をしないアーロンだが、ダレルの勢いに圧され、半ば不本意ながらに首を縦に振った。ニコニコと満面の笑みを浮かべるダレルの眼前に、ただし、と手のひらを突きつける。


「ひとつ、協力してもらおう」

「なんでしょう」

「六角形と十の丸、生命の樹を模したタトゥーを二の腕に彫った人間を探している。おそらく悪魔憑きなんだが、なにか知らないか」


 すぐにダレルは考えこみはじめた。ややあって、口をひらく。


「……いえ、すみません。わからないですね。コットン、あなたは?」

「わたしも、ちょっとわからないです」

「囚人の中に、それを彫ってる奴はいないか?」

「そもそもあまり裸を見ることもありませんからね。タトゥーを彫っている人は多いですが、そういったデザインのものは見た記憶がありません」

「右に同じ、です」

「そうか……」


 アーロンは小さく息を吐き、眉間を揉んだ。なんとなく、このふたりの言うことは信用できる気がする。情報の入手には至らなかったが、とりあえず新たにふたり、質問することができたという意味では進歩だ。


「ほかの者にも、それとなく聞いてみましょうか。私が聞けば、ある程度の者は答えてくれると思います。このフロアに限った話になりますが」

「いや、そこまではいい」

「そうですか?」

「アンタは確実に落胆するからな」


 首を傾げるダレルをよそに、アーロンは宙に浮いているザミュエルを引っつかんだ。


『はなっ、はなせコラッ!』

「一滴でいい、血を垂らしてくれ」


 声を荒げ、ばたばたと暴れようとするザミュエルを両手で押さえこみ、ダレルの前に差しだす。黒い本が見えないダレルからは、単に両手を差しだされたようにしか見えないはずだ。だが、ダレルは臆する様子もなく、自分の人差し指に傷をつけた。指先から垂れた血が、アーロンの両手のあいだ、なにもない空中にぽたりと落ちる。


形而けいじ上澄うわずみ、血の代償。汝、認識をとせよ」

 

 アーロンがぼそぼそと呟くと同時に、ダレルの両目がみるみるうちに見ひらかれていった。

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