42. 差 - Difference -

 彼の足もと辺りへ狙いをつけ、撃鉄を起こし、ためらうことなく引き金を引いた。発砲音とともに射出された弾丸が、家屋の土台へ撃ちこまれる。しかし、彼の歩みは止まらない。割れた窓から外に出て、まっすぐノアに向かって近づいてくる。


 チッ。

 小さく舌を打ち、ノアは再度銃口をジェイコブへ向けた。が、その瞬間、彼は人間離れした速度、挙動をもって一瞬で距離を詰めてきた。

 反応が一瞬遅れる。

 ノアが態勢を整える前に、狙いすまされたアッパーカットがみぞおちへと叩きこまれた。


「おごぉッ……!?」


 めりめりと胸骨の下部に食いこむ拳がもたらす鋭い痛みが脳で爆発した。また、衝撃により横隔膜の動きが瞬間的に止まったのか、呼吸困難に陥る。

 ぶわっ、と全身から脂汗が噴きでる。

 膝を折りうずくまることは避けられなかった。まるで首を差しだしたような格好になったノアの顔面に、間髪入れず追撃の殴打が襲いかかる。

 口から血の混ざった唾液が散った。腹を抱えたまま、地面に倒れ伏す。その腹めがけて、今度は渾身の蹴りが叩きこまれようとした。


「おっと」


 が、その爪先がノアの腹部にめりこむことはなかった。

 ジェイコブが感嘆の声をあげる。

 すんでのところで手のひらを挟みこみ、ノアは襲いくる足を受け止めた。もう一度蹴りを叩き込むために足を引こうとする力と、つかんだ足を離すまいとする腕の力がじりじりと競りあう。だが、片足立ちになってしまっているほうが分が悪かった。ノアは渾身の力を腕に込め、つかんでいる足を捻りあげる。バランスを崩したジェイコブはそのまま転倒した。

 それでもノアが気を緩めることはない。

 手からこぼれ落ちていた銃を拾いあげ銃口を向けようとする。が、倒れているはずのジェイコブがいない。そのことに気づいた瞬間、側頭部に衝撃が走った。


「がッ!」


 脳が揺さぶられ、ふたたび地に伏す。

 その首筋にかかとが落とされ、身動きが取れなくなった。


「いつ、のまに……!」


 ノアが拳銃に意識と視線を向け、それを拾いあげるまでの刹那のあいだに、ジェイコブは姿勢を整え、ノアの頭部に一撃を加えたことになる。

 にわかには信じられない。

 細身のジェイコブからは想像もつかない膂力。


 片側の目だけで睨みつける。

 自分を見降ろしている男の表情は、ひどく不気味で、そして愉しげだった。ノアの敵意のこもった視線に対する返答として、首筋を押さえている足に少しずつ力が込められていく。


「ぐ、うぅ」


 口から空気が漏れる音がする。

 目に映る男の顔がぼやけはじめた。頸動脈が圧迫されているようで、徐々に意識が薄れてくる。

 ノアが意識を手放す寸前で、フッと首にかかっていた負荷が消えた。


「ゲホッ、ゲホッ!」


 身体は反射的に空気を取りこもうとし、そして咳きこんだ。首筋に手を遣ろうとするより早く、乱暴に胸ぐらをつかみあげられる。少しずつ身体が持ちあがっていった。やがて、地面からも足が浮く。


「ク、ソ……」


 ジェイコブの腕を握っても、振りほどくには至らなかった。

 ニヤリと浮かんだ下卑た笑みが、かすんでいく目に映る。しかし、このまま素直にされるがままでいるつもりは一切なかった。残った気力を振り絞り、握りしめた拳をジェイコブのみぞおちに叩きこむ。しかし、男の身体はバランスを崩しすらしなかった。


「悪あがきを」


 地を這うような低い呟きとともに、ジェイコブは胸ぐらをつかんでいた腕を振る。

 筋骨隆々の体躯が宙を舞った。

 道路に転がったまま起きあがれないノアに、ゆらゆらと近づいていく。


「お父さん、もうやめて!」


 突如、母屋のほうから悲鳴にも似た叫びが響いた。

 ぐるりと振り返った父親の視線の先に映っていたのは、割れた窓の枠にすがるようにしてようやく立っている娘の姿。


「この男は私たちの邪魔しようとしているんだぞ!」


 歪んだ顔から、怒りを孕んだ声が轟く。しかし、娘は一歩も引かなかった。


「これもお母さんのためだって言いたいの!? 人を傷つけてまで助けようとしても、お母さんは喜ばない! そんな人じゃないって、お父さんが一番よくわかってるでしょう!」

「そんなことはない! ずっと自分が思っていることすら口にできず、なにもできずに過ごしてきたんだ! その辛さがどうしてわからない!? なによりも、元気になりたいと思っているに決まっているだろう!」


 心からの絶叫がぶつかりあい、互いに突き刺さった。

 それに感化されてか、倒れていたモッズコートの男がふらつきながらも立ちあがる。


「ひとつだけ確実に言えんのは……自分のことで夫と娘が争うなんて、それ以上につらいことはねぇってことだな」

「ノアさん、もう逃げてください! あたしたち家族のことで、関係のないノアさんが傷つくなんて」

「気にすんな! 市民の安心と安全を守るのが刑事デカの俺の役目だからな」


 プッと口内に溜まった血を吹きだして、ノアは高らかに宣言した。


「アンタは少しやりすぎた。いくら家庭の事情とはいえ、限度ってモンがある」


 対するジェイコブは、モッズコートの男の正体が警官だったという事実に、明らかに動揺を見せている様子だった。


「もし嬢ちゃんがアンタを庇ってたとしても、もう見過ごせねぇよ」


 両手で銃を構え、目を眇めてジェイコブの肩に狙いを定める。

 躊躇はしない。

 引き金を引く動きは迅速だった。破裂音とともに射出された弾丸は、狙いすました通りに男の右肩を直撃する。


 どす黒い血が舞い、ジェイコブの口から獣のような叫び声が響き渡った。咄嗟に傷口を押さえても、あふれる液体は止まらない。瞬く間に、シャツの肩の部分には黒い染みが広がった。脳で爆発した痛みが身体を震わせ、膝を折らせる。


「おい、マジかよ……」


 しかし、対面するノアの表情は緩まなかった。思わず、引きつった笑みが口からこぼれる。くずおれたはずのジェイコブ・ファレルが、何事もなかったかのように立ちあがり、悪魔と違わぬ形相を晒した。


「我の身体に傷をつけるなど……許さんゾ、キサマ……!」


 不気味な声とともに、銃弾が突き刺さった右肩から黒い触手のようなものが幾本も飛びだした。それは彼の肩を覆い、右腕に巻きつく。


「ッ!」


 ダンドンバンッ!

 瞠目するより早く、ノアは拳銃の引き金を引いた。撃ちだされた銃弾は、左肩と両の足を撃ち抜く。着弾の衝撃により、ジェイコブは数歩後退した。


 四肢の傷口から鮮血があふれるとともに、さらにぬめりを伴った黒い触手が飛びだした。足から生えたものは下半身を、左肩から生えたものは上半身を、顔を含めすべてが黒い触手に覆われていく。

 あっという間に触手が人の形を成しているだけの異形に変貌した。頭部からは、螺旋を描き絡み合った触手が、まるで悪魔の角のように二本屹立している。


「……ッ」


 心胆を寒からしめるには充分な光景だった。

 視界に映っているものに対する理解が追いつかない。銃を握る手のひらに、いやな汗が噴きだす。

 そのとき、ドサリという小さな音が耳に届いた。

 音のしたほうを眺めやると、窓のそばに立っていたはずのメイが横たわっているのが目に入る。


(無理もねぇッ……!)


 父親が異形の者と化してしまった現実から身を守るため、彼女の脳は意識を遮断するという方法を選んだのだろう。


 ギチギチと音を立て蠢く触手は量を増し、ジェイコブの右腕を太い怪腕に作り変えてしまった。しかし、ノアとの距離は約十メートル。その腕を伸ばしても届きはしない。


 利はこちらにある。

 そう判断したノアは、素早く弾倉に弾を込め構えた。

 しっかり距離を取り、腕のリーチにさえ入らなければ問題ない。ふたたび懐に潜りこまれるような下手へたを打つつもりもない。


 ギチッ。

 四肢の触手が小さく軋んだ。

 同時に、触手の塊ジェイコブが距離を詰めようと駆けだした。重そうな右腕が庭の柔らかい地面をえぐりながら突っこんでくる。

 どれだけの膂力を秘めているか、その光景だけで理解できる。ただ、アーマーのように全身が触手で覆われたせいか、先ほどよりも動きは緩慢だった。

 背をつたう冷や汗を感じながらも、ノアは狙い定めた銃弾を数発撃ちこむ。

 ブシュ、と黒い液体が噴きだすものの、黒い触手は一歩踏みだす足が遅れた程度で、振りかぶった太い右腕は止まらなかった。

 しかし、この距離なら当たらない。

 冷静に見極め、躱したあとに残りの弾を発射する。

 そう考えていたノアの視界に、一気に伸長した黒い怪腕が飛びこんできた。


 ゴッ!


 フルスイングされた大木の幹のような腕が、脇腹に食いこんだ。足が地面から離れ、背骨がミシミシと音を立て、胃が身体の端に追いやられる。

 ぐるんと視界が半回転し、そのままファレル家の庭へ吹き飛ばされた。


「あぁ、ぁぐ……」


 呼吸が止まり、目の奥がチカチカと明滅する。口の中で胃液と血が混ざりあい、だらだらとあふれた。

 身体に力が入らない。

 このまま意識を手放してしまえば終わりだ。

 それがわかっているのに、視界はぼやけ、重い瞼がさがっていく。気力ではどうにもできなかった。


「やはりまダ、完全になじんデはいないナ」


 道路にたたずんでいるジェイコブだったものは、左手を二、三度、握ってひらいてを繰り返していた。身体の動きを再確認してから顔をあげる。


 その視線の先には、男がひとり庭に転がっている。ピクリともしていないが、おそらく単に気を失っているだけだ。とどめを刺すために、一歩踏みだそうとする。


 瞬間、ドンッという音と衝撃が轟き、触手の塊が宙を舞った。

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