41. ノア・ブレイディ - Noah Brady -

「まずいことになったようです」


 受話器を置いて開口一番、喫茶ペンドラゴンの店主、ヴォルフガング・フォン・ガーテンベルクは対面のカウンター席に座る男へ話しかけた。

 電話口のやり取りとはいえ、否が応でも切迫した雰囲気を感じざるをえなかったのだろう。ちょうど来店していたロンドン警視庁の刑事、ノア・ブレイディも、終始眉間にシワを寄せていた。


「そうみたいだな。行ってくる」

「警部、ちょっと」


 手もとの紅茶を飲み干し、ノアは立ちあがる。

 ロンドン警視庁スコットランドヤードの自分のデスクで、メイ・ファレルと電話をしたあと、タワーハムレッツで起きた事件の捜査に駆りだされ、それが終わってから休憩のためにペンドラゴンへ寄っていた。これから庁舎へ帰って報告書をまとめ、そしてようやく帰宅できる。今日も娘の寝顔を見て終わるだろうと、すでに諦念ていねんしていた。どうせ娘の就寝までに帰れないなら、少しくらい一息ついてもいいだろう、と。


 そろそろ店を出ようとしていたときにかかってきた、メイからの電話。切羽詰まった声が、受話器の外まで漏れ聞こえていた。緊急性のありそうな事案が舞いこんだとあっては、警察官として放っておくわけにもいかない。代金を置いて店をあとにしようとしていたところを、ヴォルフガングに引き止められた。


「私がお送りします。こちらへ」


 店内の隅、プライベートルームに繋がる木製の扉。それを押しひらいたヴォルフガングに招き入れられた。

 怪訝そうな顔をしながらも、ノアははじめて入るペンドラゴンの奥へと足を踏み入れる。


「警部、今銃はお持ちですか?」

「いや、死体遺棄事件の捜査だったからな。持ってきてない」


 内装をキョロキョロと見まわしながら答えるノアのそばで、ヴォルフガングは棚の中から重厚なアタッシェケースを取りだしていた。二ヶ所のパッチン錠を開け、フタを持ちあげる。中には種類の異なる銃がいくつか収められていた。その中から一丁の拳銃を取りだし、ノアに手渡す。


「アーロンさんのコレクションなんですが、借りることにしましょう。万が一の、護身用です」

「アイツ、銃なんて集めてたのか。昔は銃のじの字も興味なかったくせに」


 手渡された灰色のリボルバーに目を落とし、ノアは小さく笑った。

 その隣で、ヴォルフガングは小さなガラス容器を取りだす。その中には、水銀のような光沢を放つ液体が入っていた。フタを開け容器を傾けると、当然床にしたたり落ちるはずのその液体は、不思議なことに球体となり宙に浮かんだ。


「揺れる星屑ほしくず、月の影、しるしまたたく霧の庭。けん捉える三次の檻に、心眼はしらせ、声をあげよとうったえり」


 パンッ、と乾いた拍手がこだまする。


「Assist 72〝天地掃天アストロロギア〟」


 宙に浮かんでいた液体が細かく分散し、雨粒のような雫となった。それらはクルクルと宙を舞いはじめ、無数の星々が集ってひとつに見えるような球体を形作る。


「おいマスター、いったいなにを……」

「もう少しです」


 送ると言われて、連れてこられたのがガレージではなく部屋の一室。その時点で頭には疑問符しか浮かんでいなかったが、さらに目の前で繰り広げられている光景に、ノアは堪らず口をひらいた。が、ヴォルフガングから返ってきた言葉は、意味を掬うには困難な一言だけ。


「捉えた」


 刹那、球状を維持したまま回転していた大量の雫が一斉に動きを止めた。そのうちのひとつが、目にも綾な光沢を放ちはじめる。


「警部、送ります」

「はッ!?」

「地に足がつくまで、目を閉じていてください」


 説明が短すぎるせいで、ノアは最後までヴォルフガングの行動を理解することができなかった。この状態で送るとはどういうことか。理解できないまま仕方なく従い、目を閉じる。パチンッ、と指が鳴るような音がした瞬間、胃と足が浮くような感覚に襲われた。


「ッ!?」


 しかしそれも束の間、足の裏から衝撃が伝わった。まるで少しだけ無重力空間に放りだされたかのような感覚。

 おそるおそる目を開けると、ちょうどファレル家の目の前に立っていた。

 背後で、一羽のワタリガラスが鳴く。


「なっ……どういう、ことだ」


 夕焼けが目に染みる。

 夢かもしれない、そう思い加減せず腕をつねってみるが、目が冴えるほどの痛みが走った。そもそも、目に映る鮮やかな景色と、肌に感じる風、匂い、五感を刺激する鮮明な情報の数々は、現実であることを突きつけてくる。


「いや、うだうだ考えてる場合じゃねぇな」


 疑問はあとで訊けばいい。

 ハッと我に返り、ノアはファレル家の母屋へと突撃した。開け放たれたままの玄関から中へ入り、リビングへと飛びこむ。


「嬢ちゃんッ、大丈夫か!」


 言うや否や目に飛びこんできたのは、父親であるジェイコブ・ファレルが娘のメイの胸ぐらをつかみあげている光景だった。室内には倒れた椅子や点滴スタンドなど、もみあったと思われる形跡が見て取れる。

 唖然とするより先に、反射的に拳銃を突きつけた。


「なにしてやがる!?」


 その声に、ジェイコブはぐるりと首をまわした。

 こけた頬と、落ちくぼんだ眼窩に収まる血走った双眸。前に見たときは生気が感じられないうつろな目をしていたため、骸骨のような印象を受けたが、今の異常な充血と瞳孔がひらききった目を見るに、まるで薬物中毒者の症状に思えた。


(こりゃあ、悩みに耐えかねてクスリにでも手を出したか……?)


 ギリ、と奥歯を鳴らす。

 現実逃避のために薬物に手を出し、自宅で暴れるという暴挙。ありえない話ではないだろう。対するジェイコブは、突きつけられた銃に怯える素振りも見せず、カクカクと顔を震わせた。


「なに? なにを?」


 そして、ニタリと口の端を吊りあげる。


「おもしろいことを聞く。もちろん、妻を助けるんだ」

「冗談も大概にしろ! 嬢ちゃんを傷つけてまでやることか!」

「わかっていないな。聞き分けのない子どもには躾をする。親として当然のことだろう」


 その言葉に、ノアの眉根が寄る。生理的な嫌悪が顔に滲んだ。


「これが躾だと? アンタ、アタマのネジが吹っ飛んだみてぇだな。それとも、もともと外れてたのか」

「妻を助ける。その一心で今まで過ごしてきた。娘も志をおなじにしていると信じていたのに」


 長い嘆息がジェイコブの口から漏れた。


「娘は妻を助けたくはないようだ。その考えは正さなければならない」

「馬鹿野郎、嬢ちゃんだっておなじ気持ちに決まってるだろうが!」

「ならばなぜ邪魔をする? 私は妻を治す術を手に入れたというのに」

「なっ……」


 にわかには信じがたい言葉だった。何年も意識障害を患い、自活する能力を失った、現代医療ですら匙を投げた状態の人間の治療法を、医者でもない人間が見いだすなど。まだ偶然の奇跡によって治ったというほうが自然とすら思える。


「あぁ、そうだな。邪魔があると集中できない。まずこの男から排除しよう」


 ノアが言葉を継げないでいると、ジェイコブは誰かに語りかけるような話し方をした。そして、娘の胸ぐらをつかみあげていた手を離す。意識を失っているメイはドサリと床に倒れこんだ。


「本当は、もう少し身体になじんでからにしたかったんだが、仕方ない。邪魔をするなら、まずはお前からだ」


 足もとに転がっている椅子をつかみ、そのままノアに向かってぶん投げた。細い体躯からは想像もつかないほどの、弾丸の勢いで放たれたそれが襲いかかる。

 激突するすんでのところで、横っ飛びで身を翻した。その先にあるのは庭を一望できる大きな窓。両腕で頭を庇うように抱え、そのまま突っこんだ。

 ガラスが割れる甲高い音が響く。庭に飛びだしうまく受け身を取ってから、リビングへ拳銃を向ける。だが、それは脅しでしかないと決めつけているのか、やはりジェイコブは拳銃に怯まず一歩を踏みだした。

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