43. 悪夢 - Nightmare -

 一歩踏みだそうとした黒い触手の肉体に、深緑のコンパクトカーが一切の躊躇なく、全速力を維持したまま直撃した。鈍い音と衝撃がほとばしり、黒い塊が宙を舞う。一方、車も無傷とはいかなかった。車のフロント部分は大きくひしゃげ、ボンネットの内側はプスプスと音を立てながら白い煙をあげはじめる。


『オマエ、これはさすがにヤバいぞ……』


 運転席の扉を開け、中からひとりの男が現れた。その後ろから、黒い一冊の分厚い〝本〟がふわりと舞い、見るも無残な姿になった車について口をひらく。


「警部の様子見てこい」


 しかし、暗い金髪と無精髭を生やした男、アーロン・アローボルトはそれを無視し、庭に倒れているモッズコートの男の様子を見てくるよう本に命令した。


『ぶち殺されても知らねぇからな!』


 本はそう叫んだものの、ふわりと宙を舞いアーロンから離れた。そのあいだに、吹き飛ばした黒い塊を見遣る。


 人の形をしたそれは、幾重にも重なった触手だった。

 日没を直前に控えた真っ赤な夕日に照らされ、ぬらぬらと気味の悪い光沢を放っている。辺りに漂う、卵や肉といったタンパク質が腐ったような不快な臭いに、アーロンは顔をしかめた。


「とんでもないモンを、呼びだしたみたいだな」


 ぼそりと呟いたアーロンのもとに、黒い本がげらげらと笑いながら舞い戻ってきた。


『オマエ、なにか勘違いしてねぇか? ありゃあニンゲンだ』

「なっ……」

『だから言ったんだ。ここは胸焼けがするってな』


 見ひらかれた目で、もう一度黒い塊を見遣る。

 たしかに人の形はしている。だが、あれが人間だと言われても、にわかには信じられなかった。それだけ、所有物であるはずの黒い本への信用度も低い。モッズコートの男は気を失っているだけだった、と本がつづけた言葉は、耳を素通りしていった。


 もし人間だとすれば、あれは悪魔憑きだろう。

 しかし、人の姿を失っている悪魔憑きなど、見たことがなかった。あれはもう悪魔が表に出ているどころの話ではない。

 まさか、あの正体は――


『ありゃあもう剥がせねぇな』


 マスターを呼んでどうにかしてもらうか、と考えていた思考を見透かしたような言葉を、ザミュエルは口にした。


『悪魔はニンゲンの魂と結びつく。自我を保つのはニンゲンの、最後の砦だ。それを手放し肉体の権を譲った時点で、自然に離れることはない。それに、あんな状態になっちまったらもう無理だ。剥がせば死ぬ。現世に肉体を得た悪魔として生きるか、死ぬか、どちらかだ』


 ギチッ、ギチチッ。

 軋むような異音を響かせながら、黒い触手が蠢く。


『あのニンゲンは、ヒトであることをやめた。そうしてまでも叶えたいなにかがあった』


 冷然とした悪魔の声が響く。


『ニンゲンってのはこれだから馬鹿で、愚かだ! 自らを捨てて願いを叶えたところで、それを確かめる術を失っちまえば意味がねぇってのに』


 吐き捨てるように言うその台詞には、嫌悪の色が滲んでいた。


『自分を失った時点で、勝負に負けてんだよ。せめてひと思いに、あの世へ送ってやれ』


 ゆっくりと、アーロンは黒い本へ手を伸ばした。

 表紙を飾っている悪魔の顔が、カッと口を開ける。紫電が瞬き、稲妻を伴って一丁の黒い拳銃が姿を現す。それをつかみ取った瞬間、二本の触手が目にも止まらぬ速さで伸長し襲いかかってきた。


「Burst 34〝紅火扇フラベッラ〟」


 触手の先が届く前に、ぼそりと呟く。

 構えた拳銃から炎の一閃がほとばしり、触手を焼き焦がした。饐えたようないやな臭いが漂う。


「何者ダ、キサマは……」


 銃から弾以外のものが射出されたことに、悪魔は驚きを隠せない様子を見せた。目も鼻も、口もない顔面から、フィルターを挟んだようなくぐもった声が響く。


「まァいい……邪魔ヲするなラ排除するだけダ」


 アーロンが答えずにいると、悪魔はすぐに身を翻し突進をはじめた。インファイトのほうが有利を取れると判断したのだろう。だが、アーロンからするとのろい速度だった。スイングされた怪腕を躱し、地面に手をつく。そのまま背後を取り、もう一度。計四回、悪魔の周囲で地面に触れる。


「Assist 40〝刺突四剣クァドラ・スペディオン〟」


 パンッ、と手を合わせた瞬間、手の触れた四ヶ所が光を帯び、そこから伸びた四つの光線が、中心に立つ悪魔に向かって突き刺さった。


「ぐぅっ……」


 触手の悪魔から、うめき声が響く。細い四つの光に貫かれた身体は捩っても動かず、拘束を解くことも叶わない。その先で、アーロンが黒い拳銃を片手で構えていた。


餓狼一切がろういっさいどよめきて、青天白蛇せいてんはくじゃはらむ。荒廃するみやこ、蒼い嚆矢こうし、千古の礼。黒い継嗣けいしに導かれ、とどとどまれ竜の声」

「やめ――」

「Burst 55〝竜吼炮ドラゴニックハウリング〟」


 ボッ、ゴォォォォンッ!

 悪魔の懇願をかき消す轟音が、銃口の爆発とともに響き渡った。同時に、空気を巻きこむ衝撃波が撃ちだされ、それは音の壁となって、光の剣に拘束されていた悪魔へ叩きつけられる。

 片手で銃を構えていたアーロンの腕も射出の衝撃で持ちあがり、銃が手の中からすっぽ抜けて後ろに飛んだ。砲身が砕け、そのまま塵となって消滅する。


『テメェッ! 使い捨てすんなって言ってんだろ! 作るのにも労力がかかるんだぞ!』


 得物が消えたことに憤慨した黒い本ザミュエルが、ふわりと舞い寄り声を荒げた。アーロンはそれに対し、無言で手のひらを突きつける。声を発しても一切変化のない表紙が、カッと口をひらいた。


 ふたたび、本から一丁の黒い銃が現れる。それをつかみ取り、倒れている悪魔憑きへ近づいていく。背後では黒い本がわめいていたが、完全に無視していた。


 鼻を衝く悪臭がひどくなる。

 倒れている悪魔のそばで、衝撃波によりちぎれた触手が多数散らばり、うねうねと蠢きながら霧散していた。傷口からは黒い液体が漏れ、そのたびに〝ぶじゅ〟といやな音を立てている。

 顔があるはずの場所もすっかり触手に覆われ、目や鼻、口の位置もわからない。頭部から伸びた角のような触手が二本、小刻みに脈動している。

 ス、と銃口を悪魔の額に向けた。


「やめ、ろ……」


 ぎらりと光を反射する砲身に、悪魔は身を震わせる。顔面を覆う触手の蠕動が激しくなった。ぐねぐねとのたうつように動くそのあいだから、くすんだ肌色が覗く。

 やがて顔面の触手は縮みあがり、奥にあった顔が現れた。

 その顔と目が合った瞬間、トリガーを引きかけていた指が止まる。

 心の隅で、もしかしたらと思っていた正体。

 そうでないことを望んでいた顔が、そこにはあった。


「助けてくれ……妻を助けたいだけなんだ……」


 ファレル家の主、ジェイコブ・ファレルの悲痛な顔と声。

 懇願がアーロンの耳をなぞる。


「ッ!」


 銃を持つ身体が硬直した瞬間を、悪魔は見逃さなかった。ジェイコブの顔でニヤリと笑みを浮かべた瞬間、腹部からを触手が飛びだした。

 槍のように伸びるそれは、アーロンの胸部をめがけて突き進む。

 瞬間、黒い影があいだに割って入った。


 ガキンッ! と硬いもの同士がぶつかりあう音が響く。

 触手はちょうど降ってきた黒い本ザミュエルの表紙、悪魔の顔を模した彫刻へ突き刺さった。

 勢いに押された本は、そのまま背後に立っていたアーロンもろとも飛ばされる。


『馬鹿が! 見えてるモンに惑わされてんじゃねぇぞ! もう剥がせないつっただろうが!』


 よろよろと立ちあがる宿主アーロンに対し、ザミュエルは烈火のごとく怒りをぶちまけた。

 だが、アーロンは反応を返さない。声を荒げるザミュエルを一瞥もしないその額からは、一筋の汗が垂れていた。


「ク、クク……ようやく、全力を出せそうだ」


 そこに、かつてのジェイコブ・ファレルの面影はなかった。

 血走った眼を爛々と輝かせ、長い舌で唇を舐めまわす。

 ぬらぬらと光る唾液が口からあふれる。


 鼻を衝くいやな臭いが増した気がした。

 土地柄もあってか、不思議と辺りに霧が立ちこめはじめる。


 異変はそれだけにとどまらなかった。

 ふたたび顔面が黒い触手で覆われ仮面を形成し、悪魔は身をかがめる。その背中、肩甲骨あたりが不自然に盛りあがった。

 ブチブチときんがちぎれる音とともに、幾本もの触手が背中から噴きだす。それは身長をはるかに超える長さまで伸び、大量の触手が絡みあうことで、まるで猛禽の翼のような様相を呈した。


「――ッ!?」


 触手の翼が、拡散する光線のように解き放たれる。

 アーロンは反射的に身をかがめて躱したが、触手の槍は背後にあった母屋の二階部分や、庭にある小屋を貫通した。

 外壁に穴が開き、柱が切断され、母屋の二階が崩壊する。

 その重みはすべて一階を支える柱にのしかかり、メキメキと悲鳴をあげた。

 ちょうど、一階の窓際にはメイ・ファレルが気を失って倒れているのが見える。


「クソッ!」


 一階も潰れる。

 そう思った瞬間身体は跳ね、母屋へと駆けだそうとしたが、その四肢に太い触手が巻きついた。つまづきそうになるところを、ギリギリと縛りあげられる。


「離し、やがれッ……!」


 身体に力を込め前に進もうとするが、触手はさらに食いこんでいくばかりだった。

 触手が引く力が強く、抗おうとすれば痛みが増すと同時に、じりじりと後退していく。


 視線の先には、いやな音を立てながら軋み、歪んでいく母屋。

 その様子を見送るしかできなかった。

 もはや崩壊は避けられない。

 目を閉じそうになったそのとき、中からひとりの男が女性を抱きかかえて現れた。


 窓から外に出てきた男、ノア・ブレイディが、抱きかかえていたメイの母を建物から離れたところに横たえた。一息つく暇もなく、ノアはきびすを返す。

 中にもうひとり、窓辺で気を失っているメイがいる。彼女を背負って外へ出ようとしたとき、不運にもちょうど頭上の天井が崩れた。咄嗟にメイを下にし、彼女にまたがる形で四つん這いになる。刹那、重いものが降りそそぐ衝撃が、ノアの背中に襲いかかった。


「ぐぅっ……!」


 肺から空気が押しだされる音が響く。背にかかる圧は少しずつ重さを増し、横たわっているメイとの隙間をどんどん埋めていく。


 身体に力がこもるだけ、額から脂汗が噴きだす。

 輪郭に沿って垂れた汗が、滴となって顎からしたたり落ちた。

 ちょうど、メイの頬へ当たる。

 その小さな刺激が、覚醒の閾値を踏み越えたのだろう。


 意識を取り戻したメイは、真っ先に視界に映った、顔を歪めて歯を食いしばっているノア・ブレイディに目を丸くした。


「ノアさんっ!?」

「はや、く……抜けだして、お母さんのところに行ってやれ、外にいるから……!」


 そこでようやく、母屋が倒壊し、崩れた瓦礫がノアの背を押し潰そうとしていることに気づいた。慌てて這いだし、ノアの手を引こうとする。


「俺のことはいいッ! もう、限界――」


 それを肯定するかのように、突きでた梁が崩れ倒れてきた。メイは座りこんだ姿勢のまま後ずさりし、なんとか難を逃れる。だが、家屋を支える部位が失われたことで、ついに母屋は完全に倒壊した。

 メイが外に出た瞬間、なんとか一歩ぶんほど腕の力だけで前に進んだノアだったが、潰れた家屋が彼の下半身を呑みこんだ。


「警部ッ!」  

他人ひとの心配をしている暇はないぞ」


 ドンッ。

 背後から届く下卑た声が耳をなぞるとともに、アーロンは下腹部に違和感を覚えた。今まで四肢を締めあげられていた痛みが、腹部の痛みに塗り替えられる。


「がふッ……」


 口から赤い鮮血が散った。

 全身の力が抜け、地面に両膝をつく。その反動で首が縦に振られ、視線が腹に落ちた。


 黒くぬめりのある触手が、下腹部から顔を覗かせていた。

 絡みあい螺旋を描いたそれは血をまとい、一層グロテスクな姿に変貌している。


 シュルシュルと四肢を巻いていた触手がほどかれた。

 腹部を貫通していた触手も抜きだされ、赤い血が散る。腹に風穴が開いたアーロンは、支えを失い倒れこんだ。


『チィッ!』


 瞬間、黒い本ザミュエルが大きく舌を打ち舞い寄ろうとする。が、鞭のように超音速で振るわれた触手が本の表紙に叩きこまれた。

 ぎゃう、と悲鳴をあげ地面に転がり、ザミュエルはそのまま沈黙する。


「うぅん! 美味だ、美味だ!」


 悪魔の顔を覆っている触手が蠢き、口の部分だけが表に現れる。血のついた触手を口もとに持っていき、滴る鮮血を長い舌で舐め取ると、悪魔は歓喜に身を浸すように哄笑し、全身を震わせた。


「天の女王に総てを委ねよ! 我こそが汝らを導く救世主であるぞ!」


 両手と両翼を大きく広げ、悪魔は声高に宣言する。警官だという男はともかく、あとから首を突っこんできた男には悪魔が憑いている。それを返り討ちにできたということは、ジェイコブの皮を被った悪魔を上機嫌にさせるには充分だった。が、ひやりとした空気が辺りを包む。


「天の女王? 嘘言っちゃいけない」


 上機嫌な悪魔に水を差す、じとりと湿ったような声が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る