67. 悪魔と綿 - Devil and Cotton -

 一方そのころ、C棟では。

 アシュリー・コットンの監房で、黒い本がふわふわと宙に浮いていた。


 黒い魔導書に封じられているザミュエルに、表情というものはない。だが、もし人間のように顔で感情を表現することができたなら、目尻はさがり、鼻の下は伸び、口の端も上向いていたことだろう。


 いつもはだいたい小汚い金髪が映っている視界も、ここしばらくはそうではなかった。艶のあるおかっぱ頭がひょこひょこと跳ねている。普段、ロンドンで当たり前のようにすれ違っていた女性たちがいかに貴重な存在であるかを、この収容所にやってきてから、ザミュエルはひしひしと感じていた。


 目の前にいる少女のような人物が男だと知ったときは、地に叩き落されるような衝撃を受けたが、むさ苦しい男しかいない収容所の中で、アシュリー・コットンはまさしく一輪の花だった。このさい見た目が良ければそれでいい、という考えに変わっていたザミュエルは、宿主であるアーロンではなく、コットンのあとをついてまわるようになっていた。


 基本的に彼は、この棟を仕切っているボスであるマリクに付き従い、本来看守用の部屋であろう広い部屋にて、マリクの身のまわりの世話に奔走していた。その光景をずっと目にしてきたザミュエルの中で、純粋な疑問が湧いていた。


『なぁ、コットン』

「はい、なんですか?」


 自室で古くなった箒の修繕をしていたコットンは、黒い本に話しかけられ顔をあげた。


『どうしてお前は、マリクなんかの世話係をやってるんだ?』


 ザミュエルが一足先にC棟に戻ったとき、コットンは相変わらずフロアの中をせっせと動きまわり、まめまめしく働いていた。


 食事もしない、娯楽もない世界で、使用人としての仕事がそこまであるのかと思うが、しょっちゅう腕試しや闘争が起こるC棟は、常にどこかしら破損しているといっていいほど荒れており、それを修繕することもコットンをはじめとする力ない者たちの役割らしかった。


 ほかにも、実力上位の者が気に入った下位の者を囲い、派閥の中でさらに小さなグループを形成していた。相容れない者同士が争うという光景は日常茶飯事だ。コットンも、ほかの囚人に求められれば拒否できない立場ではあるが、幸か不幸か、ボスであるマリクの世話役を任されているコットンに手を出そうという囚人は、この棟にはひとりもいない。


「派閥のためになる能力を持たないわたしには、これくらいしかできることがないので……」

『か弱いオマエがこの世界で生きていけるよう庇護を得るためってことだよな』


 手もとの箒に目を落とし答えるコットンに、命令されてやってるんだろ、とザミュエルはつづけた。A棟で、看守長の世話係を任命されていたスタンリー・グレイヴのことも見ている。そして、このC棟をしばらく観察して、ボスであるマリクという存在がどれだけ力を持っているかを実感した。


 キングス・ブルという派閥において、彼に意見をすることは死を意味するといっても過言ではない。逆鱗に触れれば消し炭になるという未来が、透けて見えるような気さえする。


 フロアにて囚人同士の諍いが目立つのも、ひとえにボスであるマリクが、ほかの低劣な囚人の争いに意識を向けることをせず、ましてや割りこんで制止もしないため、好き勝手できているというだけの話だ。ちなみに、代わりにダレルが割って入る光景はザミュエルも何度も見ていた。


 身のまわりの世話を任せられている囚人たちは、コットンを含め、長であるマリクとの接し方を心得ているようだが、部屋に呼ばれたときの彼らは皆一様に表情を強張らせ、出ていくときにようやく安堵する姿が定着していた。


 その中でもコットンだけは、端的に言ってマリクのお気に入り、ということは傍目にもよくわかったが、彼だけは必ず安全だという保証はないだろう。マリクに対するコットンの態度を見ても、彼自身それを自覚しているようにも思う。役に立たないと判断されれば、いつ廃棄の憂き目にあってもおかしくはない。だが、コットンはザミュエルの話に、きょとんとした顔になった。


「わたしが、嫌々やってるように見えましたか?」

『いや』


 たしかに、C棟に移ってきてからの時間、ほとんどをコットンについてまわっているが、彼がグレイヴのような扱いを受けているところは見ていない。


 コットンに限らず、ほかの囚人に対しても、アーロンが完全に拒否を示していた、人の尊厳を踏みにじるような命令を下し、悦にるような姿は見ていないため、そもそもマリクはそういったことに興味を示さないタイプなのだろう。だが、広いフロアやマリクの部屋の掃除はコットンがそのほとんどを請け負っている。彼のような小さな体躯では、それも決して楽なことではないはずだ。しかし、つらい素振りをコットンが見せているところは見たことがない。


 自らの独房へ戻っても、愚痴ひとつこぼさず、ザミュエルと楽しそうにおしゃべりをしていた。普段周りの人間から話を聞き流されることが多いザミュエルは、コットンが嫌な顔ひとつせずに耳を傾けてくれるため、いつも以上に饒舌に話しこんだ。

 自分がどんな悪魔で、どんな力を持っているのか。

 アーロンにも話していないことまで、思わず喋ってしまったこともあった。


『でも、うまく隠してるんだろ。嫌々やってるなんて気づいたら、マリクは怒り狂ってオマエを殺すかもしれない』

「違いますよ。本当に、わたしがマリク様のお役に立ちたくてやっていることです」

『どうしてそこまでアイツに肩入れする?』

 

 意味がわからねぇ、とザミュエルは悪態をついた。

 ただでさえ自由のないこの収容所の中で、自分の好きに行動ができなくてなんの意味があるというのか。

 他者のために自らを犠牲にする。

 ザミュエルにとっては、到底理解ができない心情だった。


「ザミュエルさんのおっしゃるとおり、いつマリク様の怒りの矛先が、わたしに向かってもおかしくはありません。そういう意味では、たしかに恐怖している部分はあります。ですがそれ以上に、恩返しの気持ちのほうが強いんですよ」

『恩返し……?』

「まだ、マリク様が派閥を作る前の話です」


 そう、目を伏せて懐かしむように、コットンは話しはじめた。


「わたし、こんな見た目なので、この収容所に来てすぐ、ほかの囚人の皆さんに目をつけられました。その……暴力も、振るわれそうになって、でも、自力ではどうにもならなくて。そのとき、マリク様が助けてくれたんです」


 マリクも最初から、ここC棟の長だったわけではない。

 マリクとコットンがマーレボルジェへ送られたのはほぼ同時期。そのころの収容所は、今以上に無秩序で荒れた環境だったと、コットンは語った。


「わたしがこの収容所で平穏に過ごせているのは、マリク様のおかげです。なのに、わたしが派閥のためにできることはほとんどありません。だから、助けてくれたせめてものお礼に、お世話係を仰せつかっているだけなんです」


 コットンの話を聞きながら、ザミュエルは小刻みに揺れていた。まるで、貧乏ゆすりのように。


「あぁ見えて、優しいところも、脆いところもあるんですよ。力に執着するのは、たぶんそれ以外に信じられるものがないから。強い人ですが、それゆえに孤独な人なんです。だからわたしが少しでも、マリク様の空虚な孔を埋めてあげられたらと思っています」


 コットンは訥々と話しながら、遠い目をして口もとを緩めた。


「そんな力すら、わたしにはないかもしれませんが」


 ぼそり、という擬音がぴったりな彼の声色に、ザミュエルは舌打ちした。


『オマエは、自分のことを卑下しすぎだ。オマエならどこでだってやっていけるだろ』

「そんなことは……」

『ここから出ていきたいとは思わねぇのか。もとの世界へ帰りたいとは思わねぇのか』

「それは、思わないといえば、嘘になりますけど……」

『ほらな。その時点で、オマエは心から現状に満足してるわけじゃない』


 歯切れが悪いコットンに、ザミュエルは畳みかけるようにして、かつ彼の内心を断定するように言い切った。

 一方コットンは、どう返せばいいのか困っている様子だった。それを見て、ザミュエルは目の奥を光らせる。


『アーロンがB棟へ誘われた。あっちのリーダーから、好きなヤツを連れてきてもいいって言われたんだ。オレがアーロンに頼んでやるから、一緒にB棟へ行こうぜ』

「B棟に、ですか……?」


 その話に、コットンは目を丸くした。


『もとの世界へ帰れるわけじゃねぇが、こんなところより百倍マシだ。あっちにはいろんな娯楽があった。チェスにバックギャモンにトランプに、まるで小さなカジノだったぜ。諍いを起こしてるような囚人もいない。ここなんかよりもよっぽど理性的だった。囚人という立場は変わらねぇが、あっちのほうがまだ人間らしい生活を送れる』


 得意満面に弁舌を振るう。

 ザミュエル自身に自覚はないが、相手の反応を見ずに話に没頭してしまうのは癖だ。


『今のオマエは奴隷と変わらねぇ。助けてもらった恩義だの、自分の役目や価値だのと、いろいろ理由をつけて自分の立場を正当化しようとしてる。そうじゃないと精神の平静を保てねぇからだ。自分の気持ちに正直になれ。そうすればおのずと答えは出てくるはずだ』

「ザミュエルさん……」

『オレはオマエが気に入った。表に悪魔が出てるヤツらばっかりの世界で、本人の人格が出てるヤツが珍しいから、余計にそう思うだけかもしんねぇが』


 ザミュエルにとって、なぜそう思うのかという理由は大した意味を持たない。

 ゆえに、深く考えない。

 ただ感情のままに行動する、それこそがザミュエルがザミュエルたるアイデンティティだ。


『心配すんな、口車に乗せんのは得意だ。アーロンをうまく丸めこんで、安全にB棟へ行かせてやる』


 人と同じ肉体があれば、胸を張って拳で叩いていたことだろう。


『B棟に移れば、あんなヤツの下でおびえる必要なんてない』


 ザミュエルがべらべらと喋っているあいだに、コットンの顔は下を向いていた。箒を持っている手が、小さく震えている。

 最後に背中を押す一言を、ザミュエルは口にした。


『そうと決まれば善は急げだ。アーロンと話してくるから、ちょっと待ってろ』

「あっ、ちょっと――」


 慌てて顔をあげるコットンだったが、そのときにはすでに、黒い本が監房の扉を押しひらき外へと飛んでいった。



      × × ×



「行かねぇ」

『なんでだよ!』


 意気揚々と二階の隅にある監房に飛びこんだザミュエルは、すぐに一転声を荒げた。対するアーロン・アローボルトは、心底うっとうしそうに口をひらく。


「お前はずっとこの収容所にいるつもりか? 脱獄の目処が立ちはじめてるんだ。わざわざB棟へ行く理由がない」

『脱獄の目処?』


 思いもよらなかった言葉に、ザミュエルはオウム返しする。


「グレイヴと手を結んだ。奴の情報をもとに計画を立てる」


 ハァ!? とザミュエルは素っ頓狂な声をあげた。


『あんなヤツの言うことを信用するのか? どうせ適当なこと言ってお前をハメようとしてるだけだ』

「自分を危険に晒してまで、そんなことをする理由がない。それにもう契約を結んだ。裏切ったら腕が飛ぶらしい」


 そう言って、アーロンは袖をまくり腕に巻いている組み紐をザミュエルへ見せた。ザミュエルはそれをしげしげと見つめてから、大きく舌を打つ。


『バカかテメェは! オレがいない隙になに勝手な真似してんだ!』

「お前がさっさとC棟に帰るのが悪ィんだろ」


 声を荒げるザミュエルに、アーロンはすげなく返した。

 それにしても、この反応を見るに、グレイヴから渡された組み紐は単なるアクセサリーというわけではなく、なにかしらの力を秘めているか、少なくとも魔力を持った代物であるらしい。ザミュエルはというと、その組み紐に嫌悪感を覚えているようで、ぶつぶつと悪態をついていたが、やがてひとつため息をついた。


『アイツの情報収集を待つあいだだけでも、B棟に移ったほうがいいだろ。こっちにいてなにか進展するか? ひととおりの情報収集も終わって、話を聞く相手もいねぇじゃねぇか』


 感情的なまま口論していては本来の目的を達成できないと踏んだのか、ザミュエルは声量を抑えて話を切り替えた。


『あっちじゃまだまだ聞き足りねぇだろ。排他的ってのはそのとおりだった。仲間になんねぇと、話すら聞いてくれねぇよ』

「うるせぇな、今は脱獄が最優先だ。目立つような行動は避ける。ノコノコとB棟に移って、火種をまくような真似はゴメンだ」


 だが、アーロンの意思はそう簡単に変わらない。渾身の正論を叩きこんだつもりだったらしいザミュエルは、すぐに態度を一変させた。


『テメェもわかんねぇヤツだな! 脱獄に関する情報も、あっちなら手に入るかもしれねぇって言ってんだ! 実際、あのジジイは脱獄を図ったことがあるって言ってただろ。一度も行動に移してないオマエより、よっぽど信用に足る』

「なにも手掛かりは得られなかったって言ってただろうが」

『それを額面どおりに受け取るってのか? バカが』

「脱獄する手掛かりを得ているなら、フロアの改造に精を出す理由がない。あれは、あそこで生きていくことを覚悟した人間の姿だ」


 なにを言っても聞き入れようとしないアーロンに嫌気が差したのか、ザミュエルは大きく身を揺らし、


『あの刑事くずれの男もそうだ。あんな胡散臭ェヤツの言うことを真に受けて、ホイホイ協力なんざ了承しやがって。オマエ、いつか寝首掻かれて後悔することになるぞ』


 いつもの耳障りな濁声のトーンをさらに落とし、半ば脅しのような言葉を突きつけたが、アーロンはそれを鼻で笑い飛ばす。


「お前の予言なんざ信用に値しねぇな」


 大言壮語した手前、ザミュエルもこのままのこのことコットンのもとへ戻るわけにもいかず、アーロンとの言い争いは熱を帯びる一方だった。


 ザミュエルの存在は認識されないようになっているため声が漏れ聞こえることはないが、もしこれが聞こえていたなら、いくら普段からなにかと騒がしいC棟でも、今の舌戦は外に筒抜けだったかもしれない。

 もっとも、自分の声が周りに響かないということを自覚しているからこそ、ザミュエルは遠慮なく声を荒げ、対するアーロンは声を張りあげることがないよう、感情的にならないように努めていた。が、一歩も引かないザミュエルが耳もとで騒ぎつづけることに、アーロンの堪忍袋の緒は早々にちぎれかかった。


「テメェ、いいかげん黙らねぇと焚書に――」


 手のひらに炎を宿し脅そうとしたその瞬間、ズゥン、と地鳴りのような音が響き、木製の扉が木っ端微塵に飛び散った。

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