63. 黒龍會 - Hei Rong Hui -
「オヤジ、入るぞ」
先に
中は三つの監房の壁を取っ払い、ひとつの広い部屋にした監房だった。フロアとは異なり、全体的に
大きな木製のベッドが監房の壁際中央を陣取っており、その頭上には大きく漢字で
左右には床頭台やテーブルが設置され、その上には、中国将棋とも呼ばれる
「お前らが、マリクの遣いか」
ベッドには、ひとりの老人が胡坐をかいて座っていた。
白髪交じりの短い黒髪に、浅黒い肌をしたアジア系で、まくりあげた黒い囚人服から覗く四肢は細く、一見虚弱な印象を受けた。
「まぁ座れ」
彼に勧められ、アーロンとダレルはベッドに対面するソファに腰掛けた。
「アローボルトとは、お前だな」
アーロンの爪先から頭の先まで、見定めるような視線が這う。途中、老人と目が合った。深海のような彼の黒い瞳は、文字どおり底知れない雰囲気が漂っている。
嘘でもつこうものなら、すぐに見透かされてしまいそうな、この老人への面従腹背は通用しないだろうと、アーロンは内心で思う。
それすらも看破しているかのように、彼はうっすらと笑みを浮かべた。
「お前は警察官だったな」
「…………」
膝の上に置いている手の筋が、ほんの少し跳ねた。
裏社会に身を置いていた彼らなら、警察関係者についての情報をある程度持っていてもおかしくはないかもしれないが、知らぬ
「そう身構えるな。儂の能力だよ」
アーロンが無言のまま睨んでも、老爺は不敵に笑っているだけだった。
互いの視線が宙でかち合う。
一触即発の空気が広がりはじめる。
先に目を外したらまずい、と思わせるだけの眼力をひしひしと感じていたとそのとき、
「嘘だ」
いきなり老人がぺろりと舌を出した。
横に並んで座っているアーロンとダレルが、一様にぽかんとした間抜けな顔を晒す。それを見た彼は、大口を開けて笑った。彼の傍らでは、
「他人のとぼけた顔を見るのは久しいな」
「オヤジ」
「そう急かすな息子よ」
カラカラと笑いながら、老爺はアーロンへ視線を戻した。
「なに、儂がお前のことを知っているのは単純な理由だ。牢の中で、えらくアローボルトという名の警察官を恨んでいる囚人がいてな」
「牢?」
「あぁ、ここではないぞ。ロンドンだ。儂はあちらでも服役していてな、そのときに知り合った。奴は、アローボルトという警察官に捕まって送られてきた、と言ってな」
そう言って、彼はざりざりと顎をこする。
「そやつの名前はなんといったか……いかんな、歳を取ると物忘れがひどくなるばかりだ」
自分についての話題でありながら、アーロンは言葉が継げないでいた。
刑事という職務上、犯罪者と相対する荒事も多く、実際に現役のときは何人もの人を逮捕してきたため、自分を恨んでいる囚人がいると言われても、ピンとくるものはなかった。刑事とは、他人に恨まれてナンボ――当時は、そう思っていたこともあるくらいだ。
「オヤジ、そんな話をするためにコイツらを呼んだのか?」
黙ったままのアーロンを見かねてか、
「そうだ。こんなところに送られてくる警察官がどんな奴か知りたくてな」
「じゃあ、もう帰ってもらっていいな」
「まぁ待て。マリクは、うちと事を構えたがってるんだろう」
「はい」
ダレルが頷いた。老爺はフゥ、と息を吐く。
「派閥のことはすべてそこの
「えぇ、よくわかります。皆さんに戦う理由はないということも。ですが、そちらが沈黙を守られるなら、マリクは問答無用で攻めこむでしょう」
「彼我の戦力差を理解していない……なんてことはないだろう、さすがの筋肉ダルマでもな」
「それはもう、重々承知しています。ただ、戦場がB棟になると、この綺麗なフロアが見るも無残な光景に変わってしまうのではないかと」
その瞬間、老爺の射抜くような視線がダレルへ突き刺さった。彼の黒く濃い瞳に、小さくダレルが映る。
「それは、脅しと受け取っていいのか?」
「滅相もありません。ただ、この収容所の覇権を握る戦いを受けていただきたいだけです。場所はC棟を提供しますし、今あなたがおっしゃったように、誰もが戦って勝ち負けを決めたいと思っているわけではないことも理解していますから、選抜した数名で勝負をし、趨勢を決したいと考えています」
アーロンは内心、ダレルの毅然とした態度に感心を抱いていた。
不自然におもねるような真似はせず、かといって敬意を損なうこともなく、相手の意見をうまく利用して、こちらの口車に乗せようとしている。ただ、老爺もそれを見抜けないほど間抜けではなかったようで、彼は鼻で笑うような仕草を見せた。
「話はわかった。ひとつ聞きたいんだが、お前さんらはどうなんだ」
「どう、とは」
「少しばかり
「私は、できれば全面戦争のような事態は避けられればと思っています。どちらかが奇襲を仕掛けて泥沼化するような、混沌とした争いになるくらいなら、あらかじめルールを決めてから、ルールの中で勝敗を決するほうがいいかと」
ダレルが答えたあと、老爺は視線をアーロンに移した。
「俺は派閥争いとやらに興味はない。ここに来たのも、聞いてまわりたいことがあったからだ」
「聞きたいこと? 儂らにか」
「あぁ」
「いいぞ、言ってみろ」
細長い六角形に、十の丸が重なったデザインのタトゥーを彫った悪魔憑きを探している。邪悪の樹、もしくは生命の樹という言葉に心当たりはないか。
定型句と化した言葉を、スラスラと口にする。対する老爺は、はじめて眉宇を曇らせた。
「邪悪の樹ィ? なんだそりゃ」
そばに立っている
「フウ、知ってるか」
「いや」
手を後ろで組み、仁王立ちしたまま固まっていた
「カバラというユダヤ教の神秘主義思想における――」
「あぁいや、いい」
反応が芳しくないふたりを見て、ダレルが補足しようと口をひらいたが、老爺がすぐに話を遮った。
「確かに儂らは悪魔憑きではあるが、そういった宗教的な話はサッパリでな」
ぷらぷらと手を振り、老爺はアーロンへ向きなおる。
「それは、お前さんがこっちに送られてきたこととなにか関係があるのか?」
「いや」
「ふぅん……すまんが、力になれそうにない。その妙なデザインのタトゥーを見た記憶はないしな」
「そうか……」
「聞きたいことはそれだけか?」
つづけてそう問われ、アーロンは老爺と
「単に、ひとつ疑問があるんだが。この収容所から、脱出したいと思ったことはないのか」
「なんだ。お前さん、脱獄したいのか」
「いや、俺がどうとかじゃなくて……」
「隠すな隠すな! 看守どもに告げ口なんかしねぇよ」
目線をそらし口ごもるアーロンに、老爺はカカカ、と大口を開けて笑った。
「儂らもこっちに送られてすぐは、どうにかして脱獄しようと策を巡らせたもんだ。狼どもを返り討ちにしながら森を走りまわったり、外のモニュメントを調べてみたりな。だが、結局見つけられなかった」
「あきらめたのか?」
「このフロアを見りゃァわかるだろ」
彼は眉尻を落とし、薄く口の端をあげた。
いたるところに中華風の彫刻や装飾が施され、石を削って作られた象棋やチェス、囲碁、バックギャモンや麻雀牌、精巧に作られた石のダイス、どうやって作ったのか不明な、市販のものと遜色ない材質のトランプなど、多種多様なゲームが用意されている。ロンドンのカジノに比べるとお粗末なものだが、娯楽としては充分な遊戯の数々だ。
それらを派閥の囚人たちで協力して作りあげた。
それを主導したのは
脱獄することよりも、居住地であるB棟を快適にすることに心血を注ぐようになったということらしい。
「結局、あっちじゃ仕事をほったらかしにして行方をくらませた裏切り者扱いになってるだろうし、戻っても処分されるだけだ」
それを考えれば、こちらのほうが気楽だと彼は口にした。その言葉に、アーロンは引っかかりを覚える。
「処分って……アンタ、マフィアの頭じゃないのか」
「そう見えるか? 嬉しいことを言ってくれるな」
老爺は目を細め、軽快に笑った。
「だがあいにく、儂はトカゲの尻尾もいいところだ。組織のために悪魔の力を使い、悪事を働いてきただけの小物だよ。苦労して脱獄を図る理由もねぇだろうと思う、儂の気持ちもわかるだろ?」
アーロンは頷いて返す。
「それに、ここじゃ腹も減らねぇ。食事の楽しみがないのは残念だが、空腹に苛まれる心配がないってのは、なかなか悪くないぞ。精神衛生上な」
「えぇ、わかります」
ダレルも彼の言葉に笑顔で同意した。
「まァ、詳しいことは
話が一段落ついたところで、
ちょうど、部屋を出ていくタイミングで、老爺がポンと手を叩く。
「あぁ、思いだしたぞ」
自然と、三人の視線が彼へ向いた。
「バードだかバルドだか、たしかそんな名前だ」
老爺の口から出た男性名に、三人は顔を見合わせた。
「お主をえらく恨んでいた囚人だよ」
そう言って、彼は宙に視線を這わせる。
「今はたしか一九八三年だったな。刑期からして、もう出てるくらいだろうな」
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