64. B棟 - B -
「まだボケてはないはずだが。さっきの話を、あまり真に受けないほうがいいかもな」
一階の広い部屋に戻り、木製の長椅子に腰かけるや否や、
そもそも、忠告されなくても留め置くつもりのなかったアーロンは、あぁ、と気の抜けたいらえを返した。今は覚えもない男のことよりも、脱獄やタトゥーに関する情報を手に入れることのほうが重要だ。
「さて、本題に入ろうか」
少しばかり身を乗りだして、
「お前らの狙いはわかっている。ルール無用の全面戦争では、いくらマリクの力が抜きんでていようと勝負には勝てない。だからルールを定めて勝ちの目を拾おうという算段だろう」
話しながら、アーロンとダレルの目を交互に見つめる。そして、小さく息を吐いたあと、
「気に食わねぇな」
そう言って、
「わざと大げさに言うぞ。あとには引けない、天下を分ける戦いなんざ、問答もルールも無用の争いになって当然だろう。それをわざわざルールを取り決めて、それに則って戦えなんて、成り立つわけがない」
「全員が全員戦いたいと思っているわけではないと、あなたの
「喧嘩ふっかけてきた側がなに言ってんだ。それらしく悪役に徹してれば、オレとしてもやりやすいのによ。脳筋の集まりのくせして、中にお前みたいなのがいるからめんどくせぇ。マリクだけなら気兼ねなく、問答無用で潰せるんだがな」
あからさまに苛立った声色だった。
「まぁ、いい加減うっとうしいからな。黙らせる意味でも、オレとしてはお前らの喧嘩を受けてやってもいいと思っている。実現するかは、メンバーの賛同を得てからの話になるが」
「ただし、条件をいくつか出させてもらう」
黙ってふたりの話を聞いていたアーロンは、いやな予感がした。
「全員が全員、喧嘩したいと思っているわけじゃないことは同感だからな。選抜メンバーで戦うことは了承してやる。何人にするかはお前らに決めさせてやるが、こちらはそれよりもひとり多いルールでやらせてもらう」
「おい、それは」
思わず口を挟みかけたアーロンを、ダレルが手で制した。話を最後まで聞こう、ということか。
「決闘の会場はC棟。ただしお前らが罠なんかを仕掛けていないとも限らない。戦いをはじめる前に会場を検めさせてもらう。戦闘のルールは勝ち抜きでも乱闘形式でもなんでもいいが、こちらが納得するルールでないと中止だ」
眉根を寄せているアーロンの隣で、ダレルは落ち着いた様子で頷いている。
「最後に、日時はこちらで決める。以上の条件が飲めないようなら、この話は終わりだ」
「さすがにそんな条件……」
飲むわけがない、あの男が。
アーロンがそう口にする前に、ダレルが口をひらいた。
「わかりました。ですが、いつまでも日時を先延ばしにしつづけるようなことは勘弁してくださいよ」
「そんな
カラカラと、
「俺たちが負けたら、この棟を明け渡し、お前らの軍門に下ってやる」
その言葉を受けて、ダレルは納得したように大きく頷いた。
「もうこんなところでいいだろ。あんまりお前らと仲良しこよしやってると、周りに訝しがられる」
「ひとつ、頼みがあるんだが」
椅子から立ちあがった
「帰る前に、ほかの囚人にもタトゥーのことを聞いてまわっていいか?」
少しばかり、
それをダレルも察したのだろう。
「私からもお願いします。話を聞くだけですから。条件を呑んだ見返りを、少しくらい求めてもいいでしょう?」
彼の後押しのおかげか、
「騒ぎだけは起こしてくれるなよ。部外者がうろつくだけでも、嫌がる奴が多いからな」
礼を言い、アーロンは一足先に立ちあがった。そばを
『おいアーロン、遊んでいこうぜ!』
アーロンが部屋を出ていこうとしたそのとき、あぁ、と
「悪いが、ゲームで遊ぶのもナシにしてくれよ。それはこの派閥にいる奴らの特権だからな」
ザミュエルの姿も声も、彼には認識できないはずだ。単なる偶然だろう。
ザミュエルが耳もとで抗議の声をあげたが、アーロンははじめから遊ぶつもりなどなかったため、素直に受け入れフロアへと足を向けた。
ボードゲームやトランプに興じている囚人たちのあいだに割って入り、例のタトゥーについて話を聞いてまわる。
結果から言うと、目ぼしい情報は手に入らなかった。ほかの棟のように、初っ端から喧嘩腰で応対されるということはなかったものの、閉鎖的、排他的という事前情報のとおり、終始素っ気ない返答が返ってくるだけだった。
この派閥で一番愛想がよかったのは、トップツーの老爺と
これでは、本当に知らないのか、知っていて隠しているのか、判断がつかない。だが、
気づいたことといえば、この派閥には、ほかではひとりも見かけなかったアジア系の囚人をちらほらと見かけたことくらいだった。
「どうでした?」
アーロンが
「そうですか……」
「残念だったな。まぁ、もしなにかわかれば、喧嘩のときにでも教えてやるよ。期待はしないでもらいたいが」
「本当か、礼を言う」
「その代わり、もしお前が本当に脱獄するつもりで、その手掛かりを見つけでもしたら教えてくれねぇか」
思いがけない
「オヤジはああ言ってたが、ロンドンに帰れるものなら帰してやりたいんだ。あの人は、こんなところで人生を終えていいタマじゃない」
「けど、帰ったところで組織からの処罰が待ってるって言ってただろ」
脱獄をするつもりはないと語っていた老爺の言葉に、偽りはないように思う。そして、彼の真意を
「ずっと組織のために汚れ仕事を引き受けてきたオヤジが、処分なんてされるわけがない。本当なら、組織から充分な年金をもらって生活してもいいくらいの人だ。帰って万が一があっても、必ずオレが阻止する」
今までひょうひょうとした雰囲気をまとっていた
「ずいぶん慕ってるんだな」
「あの人は、中華街の隅で泥水啜るだけのガキだった俺を拾ってくれた恩人だからな」
そこまで話して、
「悪い、つまらん話をした。それより、オヤジもお前のことが気に入ったようだ。どうだ、キングス・ブルからこっちに移ってこねぇか」
『おっ?』
アーロンの傍らで、ザミュエルがピクリと反応を示した。
「カジノほど立派じゃあないが、この棟の娯楽をすべて楽しめるぞ。ひとりで移ってくるのが嫌なら、お前の好きな奴を連れてきてもいい」
『オマエ、ハナシがわかるヤツじゃねぇか!』
「できればその男を引っ張ってきてくれると嬉しいんだがな」
くるくると歓喜の舞を舞っているザミュエルに苛立ちをあらわにするアーロンをよそに、
彼は相変わらず、柔らかい笑みを浮かべている。
決闘の段取りを話しあったあとに、なにを言っているんだと思うアーロンだったが、
早々に話が終わると、黒虎はパンとひとつ手を叩いて立ちあがり、ふたりへ退室を促した。やはり、いつまでも密室でほかの派閥の囚人と話をしているのは、結束の強い派閥をまとめる者として、メンバーに示しがつかないということのようだ。
ふたりはすぐ部屋をあとにした。フロアからたくさんの奇異の視線を感じながら階段をあがり、A棟へつながる連絡通路へ足を踏み入れる。
B棟をあとにする際、ダレルは丁寧に見張り役のアジア系の男へ礼を述べていた。
「あんな不利な条件、呑んでよかったのか?」
B棟の扉が閉まると同時に、アーロンはダレルへ声をかけた。
「えぇ、まぁ。少しくらいはリスクを負わないと、スタート地点にすら立てません。交渉が決裂したでは、ボスは納得しませんし。頭数がひとり少ないくらいの条件で済んだのは上々ですよ」
たしかに、少しの数的有利は覆せるとマリクなら考えそうだ、とアーロンは思う。
「あとひとつ、訊いてもいいか?」
「私に答えられることなら、なんでも」
「息子のほうは、ずいぶんアンタに好意的だったな。誘ってたくらいだ。わざわざ、C棟なんかにいる必要があるのか?」
ダレルは少し逡巡する様子を見せたあと、通路の壁に背を預けた。
「そうですね……どう言えばいいでしょうか。今のパワーバランスを崩したくないんですよ」
「パワーバランス?」
「B棟はたしかに魅力的なところです。ですが、あなたもなんとなく実感したと思いますが、本当に排他的なんですよ。仲間と認めた者、気に入った者以外にはことごとく冷たい気風です。あなたに好意的だったのも、あなたの人柄を認めたというより、力を見込んでのことだと思います。その根底は、あなたに目をつけたボスと変わらない」
ダレルは乾いた笑みを漏らした。
「反面我々のほうは、無秩序で、理性もないように見えるかもしれません。ある種、それは間違ってはいませんが、弱者の受け皿になっている面はあります」
受け皿ねぇ、とアーロンは口角をつりあげた。その表情の意味を、ダレルも察したのだろう。
「力のない彼らにとって居づらい環境であることは否めませんから、自分が少しでも緩衝材になれればと思って……なかなか、思うとおりにはいきませんけどね。あなたが来る少し前にも、新しい囚人が送られてきたのですが、しきたりを伝える前にボスの逆鱗に触れてしまって。見ましたか? 外に吊るされた遺体です」
アーロンの脳裏に、収容所にやってくるまでの草原のワンシーンがフラッシュバックした。草原に無数に立てられた十字架の一部にかけられていた、複数の遺体。
「彼らには悪いことをしました。ですので、あなたがボスと交戦したと、目を覚ましてから聞いたときには肝が冷えましたよ」
ダレルは深いシワが刻まれた眉間を揉んだ。
「どうして、そんな面倒な役目を担おうと」
「なぜでしょう、自分でもよくわかりません。性格なんですかね」
力なく笑う彼の隣で、ザミュエルが思いきり鼻で笑った。
『反吐が出るな』
「えぇ、なぜですか」
『他人のためだと声高に宣言するヤツが一番信用ならねぇからだ』
「いつも吹聴しているわけではないですよ。今のはアローボルトさんに聞かれたからで……」
「コイツの言うことなんざ気にしなくていい」
『あでっ』
本に対しても律儀に弁明をしようとするダレルの言葉をさえぎって、アーロンは本の表紙を裏拳で殴った。そして〝それなら〟と話をつづける。
「派閥どうしの決闘は、アンタにとって不本意じゃないのか」
「そうですね……邪眼の囚人がA棟に移ってからは、派閥間の争いも落ちついていたので、少し安堵していたんですが。ただ、目に見えてボスの機嫌が悪くなっていたので、結局よかったのかどうか、わかりませんね」
フゥ、とダレルは小さく息を吐く。
「今までは何度も衝突していたんですよ。決着こそつきませんでしたが、戦うだけでよかった。うまい具合にストレス発散になっていたんだと思います」
そうつづけて、もたれていた背を起こした。
「でも、なんとなく、次で終わる気がしますね。あなたがいるからでしょうか」
「買いかぶりすぎだ。俺にやる気なんてない」
「やる気がなくても、いつの間にか巻きこまれていたりするものです。戦争とおなじですよ」
そう言って、ダレルは力なく笑った。
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