58. 邪悪の樹 - Tree of evil -

「こっ、これですこの本!」


 歓喜の声とともに、ダレルは宙に現れた黒い本を抱きすくめる。


『やめろハゲ頭! オレはむさ苦しい男に抱かれるシュミはねぇ!』


 ずりずりと頬を擦りつけられたザミュエルが、悲鳴のような叫び声をあげた。それに驚いたらしいダレルは目を丸くし、本から顔を離す。だが、手はしっかり本を捕まえたままだったため、ザミュエルがダレルから逃れることは叶わなかった。


「すごい、喋る本なんてはじめて見ましたよ。たしかにこれは、隠しておきたい逸品ですね。あなたの気持ちもわかります」


 彼も悪魔という存在を知り、悪魔に憑かれているひとりだからか、いきなり目の前に現れた黒い本に驚きはしたものの、それに恐怖したり、理解ができないというような反応は示さなかった。むしろ未知の存在に胸を躍らせる研究者や、好奇心旺盛な子どものように目を輝かせている。


「中を見てもいいですか?」

「べつにいいが、確実に落胆するぞ」

『やめろっ! ヘンタイ!』

「すみません、失礼します」


 ぎゃあぎゃあと暴れるザミュエルだったが、その全身全霊の拒否は意味をなさなかった。ダレルの武骨な手によって、本の表紙がひらかれる。


「なっ……」

「言っただろ? 落胆するって」


 パラパラとページをめくっているダレルに、アーロンは話しかけた。


「そう、ですね……まさかなにも書かれていないとは」

『書かれてんだよホントは! オマエには見えねぇの!』

「えぇっ、そうなんですか? いったいなにが書かれて……もしや、裏社会の機密とか」

『アホか! 普通の魔術だよ、魔術。コイツがオマエにさんざん撃ってただろ』

「あぁなるほど、ほかの人には教えられない秘術というわけですね。中身が見えないように細工が施されていると」

「悪いが、それは俺にもどうにもできない。人から借りたモンだからな」


 読書がしたいと言っていた彼の願いが叶えられないのは最初からわかりきっていたことだったため、ほかの囚人にもタトゥーについて聞いてまわろうかと言うダレルの厚意をあらかじめ断ったというわけだった。それにしても、さらりと納得してくれるダレルは、アーロンにとってはありがたいことこのうえなかった。


 宙に浮き喋る本という存在そのものに関心が向かったのか、読書ができないという落胆は特になかったようで、ダレルは興味津々といった様子で黒い本を矯めつ眇めつしている。


『そこはおしりっ、触るなバカ!』

「そうは言われても、わかりませんよ」


 べたべたと本のあらゆる部分をなでるダレルに声を荒げるザミュエルだったが、彼の手の動きが止まることはなかった。その様子を一歩引いた目線で見つめていたアーロンは、コットンがぽかんとした表情を晒していることに気がついた。


「アンタも見たいか?」

「ちょ、ちょっと興味が出てきました。わたしにはなにも見えないし、聞こえていないのに……ダレルさん、頭がおかしくなったわけじゃないですよね」


 見た目によらずさらりと棘のある言葉を口にするコットンに、アーロンは思わず口角をあげた。彼からも血を一滴だけもらい、ザミュエルへの認識阻害を解く。コットンの目線では、なにもなかった空間に恐ろしい表紙の黒い本が浮かびあがったように見えるはずだ。


「きゃぁっ!」


 それを捉えたらしいコットンは、びくっと身体を震わせて尻もちをついた。


『ぶははは、オマエはなかなかいい反応するじゃねぇか!』


 その反応に満足したらしいザミュエルが、ゲラゲラと笑う。


「すごい、なんですかこの本? 喋ってる!」

『オレの名はザミュエル、コイツに憑いてる悪魔だ』

「あっバカ! そこまで教える必要ねぇだろ」


 得意げに答える黒い本に、アーロンは慌てて口を挟んだ。


『いいじゃねぇか、喋ってりゃそのうちわかることだ』

「あなたに憑いている悪魔が、この本……? いったい、どういうことですか」


 ザミュエルが口にした言葉に、ダレルは目を丸くした。


「俺に憑いたコイツの自我だけを、この本に移してもらったんだ。そうすれば、無理やり自我を乗っ取られる心配もないってな」


 わざわざ教えるつもりはなかったが、ここでへたに口ごもるのも不自然だと思ったアーロンは、ザミュエルという名の黒い魔導書について口をひらいた。


「ということは、悪魔の声が頭に響いたり、べつの思考が流れこんでくるようなことがないということですか?」

「あぁ。代わりに耳もとがうるさくなったけどな」

「すごいですね、そんなことができる人がいるとは」


 ダレルは素直に感心したようだった。

 たしかに、とアーロンも内心で同意する。


 ほかの悪魔憑きとは異なり、ひとつの肉体にふたつの精神が同居していない。ザミュエルの魔力はアーロンの身体に残り、意識だけが黒い魔導書へ宿っている。

 憑いた悪魔の力を宿主に残しつつ、自我を奪われる恐れをできるだけ排除するために、悪魔の自我を身体から引き剥がすという方法をかの喫茶店の店主は取った。それにあやかっている悪魔憑きは、自分のほかに例の舞台女優しか知らない。彼女もアーロンと同様、某喫茶店のマスターに師事したらしい。

 あまり気にしたことはなかったが、底が知れない人だと改めて思う。


「こらこら、他人ひとの境遇を笑ってはいけないよ」


 脳が自然と行きつけの喫茶店の内装を思い描きはじめていたとき、ダレルが諌めるような言葉を口にした。その不自然さが、アーロンを現実に引き戻す。


「あぁ、すみません。私の悪魔が、ザミュエルさんの境遇を憐れんだだけです」

『今笑ったって言ったよな』


 いきなりおかしなことを口走った理由を述べるダレルに、ザミュエルが間髪を入れずに口を挟んだ。


「それにしても、まさかダレルさんが負けるとは思いませんでしたね」

「えぇ、頑健さにおいては自信があったので、負けることはないと思っていたのですが。いや、まさか意識を奪う術までお持ちとは。ザミュエルさん、あなたは多才な悪魔ですね」

『フフン、そうだろ。オレはスゲェんだ。もっと褒めていいぞ、ハゲ頭』


 ザミュエルから侮辱の言葉をかけられても、ダレルは気を悪くした様子さえ見せなかった。ニコニコとしている彼を見て、アーロンはふと疑問に思う。


「見るから、好戦的な性格にも思えねぇんだが。十三の次に、どうしていきなり四番のアンタが出てきたんだ」


 人の好さそうな彼が、ほかの囚人を差し置いて参戦したというのが、どうにも解せなかった。


「それは……」

「ダレルさんの、優しさですよね」


 どういうわけか口ごもるダレルの代わりに、コットンが答えた。


「優しさ?」

「能力的に自分が怪我をする心配もないし、手加減もしやすいから、特にC棟へやってきたばかりの人の相手をして、無駄な怪我をする前に負かしてあげてるんですよ」

「十より上だと、強さというよりも加減を知らない者ばかりになるので」


 コットンの話に、ダレルは頭を掻きながら恥ずかしそうに付け加え、


「あなたには、通用しませんでしたけどね」


 そうつづけて、軽快に笑った。


「それに、まさかボスが出てくるとは思いませんでした。よく生きていましたね」

「まぁ、あいだに割って入ってくれたおかげだな」


 ふたりから視線を向けられたコットンが、恥ずかしそうに頬を赤らめる。と、そのとき、地響きのような音がフロアのほうから響き渡った。


「なんだ?」

「マリク様が呼んでいるみたいです。わたし、行ってきますね」


 それじゃあ、と一礼して、コットンが立ちあがった。アーロンの監房を出ていこうとする彼に追随して、黒い本がふわりと浮かぶ。


「あっ、ちょっとザミュエルさん!」

『うるせぇ、テメェらむさ苦しい男といるより、おなじ男でも可愛らしいヤツと一緒にいるほうがマシだ!』


 それを留め置こうとするダレルだったが、ザミュエルは振り返りもせず声を荒げた。


「まぁまぁ、落ちついて。ダメですよ、すぐに怒ったりしたら」


 出ていった黒い本を見送りながら、ダレルは眉尻を落とした。急な独り言を訝しがられると思ったのか、すぐにアーロンへ向きなおって、


「あぁ、すみません。うちのがザミュエルさんに怒ってしまいまして」


 と、笑った。


「思ったんだが、アンタ、自分の悪魔と仲がいいんだな。表に出ているのもアンタ自身だろう」


 自分が悪魔憑きであることにすら半信半疑のコットンや、悪魔の自我を魔導書に移したアーロンとは異なり、ふたつの自我を肉体に同居させたうえで、しっかりと肉体の権を握っている。


 悪魔の力が強まるらしいこの世界において、悪魔と同居する人間が自我を保っているのは、少なからず悪魔の理解、了承があるからだろう。


「そうですね。いろいろとおしゃべりしていたら、いつのまにか仲良くなっていたというか。悪魔が憑くのは、基本的に気に入った相手らしいですから。そう難しいことではないですよ」


 ニッコリと笑ってさらりと述べるダレルだったが、彼の人となりの力によるだろうことは想像に難くなかった。もし憑いているのがあの性根の曲がったザミュエルでも、彼ならうまくコントロールしそうだ。


 ふたりきりになった監房で、ダレルがふいに「そういえば」と口をひらいた。


「アローボルトさん、ちょっとさっきの話で、気になったことがあるんですが」

「さっきの話?」

「生命の樹のことです」


 あぁ、とアーロンは首肯する。だが、つづけてダレルの口から出た言葉に、アーロンは眉根を寄せることになる。


「あなたが探しているそれは本当に、生命の樹なんですか?」

「どういう意味だ?」

「生命の樹は、いわゆる旧約聖書に登場するあの樹ですよね。あなたの言うデザインなら、カバラのセフィロトと表現するほうが合っているかもしれませんが」

「あぁ、そうだ」

「悪魔憑きが、聖なるものを身体に刻むということが、少々不思議です。もちろん、悪魔に憑かれる前に入れたものかもしれませんが」


 悪魔と自我が離れているアーロンにとってはあまり感覚的に理解しづらいが、悪魔に憑かれた人間は、やはり聖なるものを忌避する傾向にあるらしい。しっかりと自分の自我を保持しているダレルであっても、内なる悪魔に拒否されるだろうと彼は語りつつ、


「でも、それよりは、邪悪の樹を模していると考えるほうが自然かと思うんですが」

「邪悪の樹……?」


 聞き覚えのない言葉に、アーロンは返答に窮した。その様子を、ダレルは不思議そうに眺める。


「あれ、ご存じないんですか? セフィロトを知っていれば、対になるクリフォトも自然に知識として覚えそうなものですが」


 セフィロトと対。

 クリフォト。

 熟考してみたが、まったく覚えがない。


「どちらもデザインがよく似ているので、あなたがそのタトゥーを生命の樹だと断定しているような口ぶりが、少し不思議に思いまして。単に見ただけでは、どちらか見分けにくいと思いますし」


 その話を聞いてもなお、難しい顔で考えこんでいるアーロンを見て、


「すみません、変なことを聞きました」


 と、ダレルはバツが悪そうに眉尻を落とした。


「いや、いい。その邪悪の樹……クリフォトってのはなんなんだ」

「すみません、私もそこまで詳しくは。ただ、生命の樹と対をなす邪悪の樹というものがあるということを知っているくらいで」

「そうか」


 短く返して、アーロンはふたたび思案に耽る。それを黙って見つめていたダレルは、しばらくして口をひらいた。


「やっぱり、私もそれとなく情報を集めてみますよ。おもしろいものを見せていただいたお礼です」

「本当か、礼を言う」

「その代わり、もうザミュエルさんを隠さないでくださいね。もっとたくさんお話してみたいので」

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