45. 月の逆位置 - nooM ehT -

 まず視界に飛びこんできたのは、木板の天井だった。

 靄がかかったようなぼんやりとした思考に身を委ねつつ、メイ・ファレルはゆっくりと起きあがった。


「お目覚めになりましたか」


 平坦な声が届いた。

 見ると、そばにあるロッキングチェアに、バーテン姿の男が本を手に腰かけていた。長い赤髪をポニーテールにしている大柄な彼は、ペンドラゴンという喫茶店を営む、ヴォルフガングという名前の男だ。


「マスターさん……?」


 メイは辺りを見まわす。寝かされていたのは、本棚や椅子、テーブル等があるだけの、小さな客間のような部屋のソファだった。テーブルを挟んだ対面のソファには、大柄な男性がひとり眠っている。


「ノアさん……」

「大丈夫、眠っているだけです」


 ヴォルフガングは手にしていた本を閉じて答えた。


「あの、ここは……」

「ペンドラゴンの二階ですよ」


 彼の言葉に、ぼんやりしていた思考が鮮明になっていく。自宅で起こった一連の事件の記憶が、激しい波濤のように押し寄せてきた。最後、心臓に銃弾を受けた父が母のもとへ這いより、そして絶命した光景を思いだし、咄嗟に口もとを押さえた。二、三度深呼吸し、なんとか精神を落ち着かせる。


「あの……母がどこにいるか、知りませんか?」

「隣の部屋に」


 ヴォルフガングが手のひらで指し示したのは部屋の外だった。すぐにメイは廊下に出る。隣の部屋の扉が開いており、中はなんの変哲もない寝室だった。ただ、キングサイズの大きなベッドにひとりの女性が横たわっている。


「お母さん……」


 一歩、また一歩、メイはおそるおそるベッドへ近寄っていった。首から上だけを布団から出している母の顔は雪のように白い。そして、目を閉じたままピクリとも動かない。息遣いすら耳に届いてこない。まるで、人形と見間違えてしまいそうな母の様子に、メイは息を呑んだ。


「大丈夫ですよ。命に別状はないようです」


 彼女が振り返ると、ヴォルフガングが部屋の入口に立っていた。


「ただ、一応、主治医には連絡をしました。すみません、鞄の中身を漁るつもりはなかったのですが」

「いえ……ありがとうございます」


 ベッド脇にあるサイドテーブルには、母を連れて家を出ようとしたときに一緒に持ったバッグが置かれていた。その中にあった連絡先を見て、電話をしたということだろう。


「うぅ、う……!」


 母が無事だった安堵感と、父を失った悲しみ、これからの将来についての不安、ありとあらゆる感情が入り交じり、それは滂沱の涙となってあふれだした。嗚咽を漏らしながら、メイは母の眠るベッドに縋るようにしてしゃがみこむ。

 その声が、耳に届いたのだろうか。

 母がゆっくりと目を開けた。

 うつろで濁った眼球は、いつもどおり。まばたきこそするものの、眼球自体はほとんど動かない。顔を覗きこんでみても、本当の意味で目が合うことはない。


 母の目には、誰の姿も映らない。


 それが日常だった。

 布団の中にある母の手を握る。あふれる涙のせいで、母の顔が滲む。そんな曖昧な視界の中で、微かに黒いものがふたつ動いた。


「!」


 慌てて目を拭う。

 鮮明になった視界で、母の双眸としっかり目が合った。その目の奥に、ほのかな光が宿っているように見える。


「メ……イ……」


 母の唇が微かに動き、吐息のような音が漏れる。


「お母さん、あたしがわかるの?」


 母はうっすらと微笑んだ。



 ―

 ――

 ―――



「まさか、反応を示すとは思いませんでした」


 一階のカウンター席で、紅茶の入ったカップに口をつけながら、メイが口をひらいた。今、ペンドラゴンの二階では、呼ばれてやってきた主治医が診察をおこなっている。その邪魔にならないようにと、メイは一階の喫茶店へおりてきていた。


「うれしいはずなのに、ちょっと、理解が追いつかなくて……すみません」


 母の容態は少しずつだが悪くなる一方で、上向いたことがなかった。母はすでに、指一本自力では動かせないような状態で、目の動きなどで意思疎通を図ることもできない状態だった。それが先ほどは、眼前で動かした指をしっかりと目で追い、つたないながらも言葉を発した。その姿は、親子にとってまさしく光明だった。


 ただ、喜びの感情と一緒に、本当に現実なのかという、ふわふわした感覚が湧いたのも事実だった。腕をつねってみたり、紅茶をじっくりと味わってみたり、これが現実であることをじっくりと確認し、そのたびにじんわりとした喜びが湧いてあふれた。


 母の寛解は単なる一過性のものという可能性もありえるが、とにかく、今この場に父がいないことが残念でならなかった。この喜びは、父と一緒に噛みしめたかったと切に思う。


 いつ、医者の診断は終わるのだろう。

 いつも以上に五感を研ぎ澄ましていると、二階から階段をおりてくる足音があった。医者かと思い顔を向ける。予想に反して現れたのは、深緑のモッズコートを羽織った大柄な男だった。いまだ本調子ではないのか顔面は蒼白としていたが、自力で歩けるほどには回復したらしい。


「ノアさん! よかった……本当に」

「嬢ちゃん……無事だったか」


 ふたりは互いに、ほっとしたように口もとを緩ませた。はい、とメイは朗らかに返し、


「お母さんも、目を覚ましてくれたんです」


 そうつづけると、ノアは目を丸くした。


「なっ……本当か?」

「はい、ノアさんのおかげです」

「私のほうからも、御礼申しあげます。本来なら、対魔特課A.D.Sですらないあなたを巻きこむような真似は避けるべきでしたが」


 メイにつづいて、ヴォルフガングもノアへ礼を述べた。メイはともかく、店主からも感謝されるとは思っていなかったのか、ノアは戸惑ったような顔をした。


「やめてくれ、俺はほとんどなにもしてない。アーロンのおかげだ」


 苦い顔をしつつ、ノアは店内を見遣る。


「……そういや、アーロンは?」


 そういえば、とメイもつぶやいた。もうひとりの恩人の姿を、今までここで見ていない。


「先にお帰りになりましたよ」


 その問いに、ヴォルフガングがさらりと答える。


「そうか。それじゃあ、俺も帰るよ」

「まだ万全ではないでしょう。もう少し休まれたほうが」

「いや、大丈夫だ。ありがとう」


 階段の前から一歩踏みだしたノアにヴォルフガングが声をかけたが、ノアは足を止めずに返した。


「ノアさん」


 ちょうど目の前を通り過ぎるところで、ヴォルフガングはノアを呼び止めた。ちらりと真横を見遣ったノアの視線がヴォルフガングに向けられる。


「落ち着かれましたら、一度連絡をくれますか」

「あぁ、わかった」


 短く答え、ノアは店の玄関へ足を向けた。その背中に、メイは声をかける。


「ノアさん! 本当に、ありがとうございました」


 扉を押しひらきながら振り返ったノアは、軽く手をあげて柔和な笑みを浮かべたが、どこか影が差しているというか、力ない笑みと表現するのが的確なように見えた。カラン、と扉のベルが乾いた音を立てて閉まる。


 店内に店主と自分のふたりだけになったところで、メイは店主、ヴォルフガングへ向きなおった。


「あの、ちょっとお聞きしてもいいですか」

「私に答えられることであれば」


 ありがとうございます、と礼を言って、メイは話しはじめた。


「こんなこと、マスターさんに聞いても、困らせるだけかもしれないですけど……あたしには、父の身に起こったことが、信じられなくて……父はいったい、ずっと、なにを研究していたんでしょうか。願いを叶える花の話が、あんな結末になるなんて」


 父が、父ではない異形の者に姿を変えたこと。

 父がひとりこもっていた庭の小屋で見た、黒い染みにたたかっていたハエの群れ。

 いつの間にか、父は自分の知る父ではなくなってしまっていたようだった。が、その理由や原因について、メイは判断するための材料をなにも持たず、想像すらできなかった。


 家であった白昼夢のような出来事の記憶を、メイはなんとかたどりながら、とつとつと話をした。ヴォルフガングはその話を馬鹿にするでも、口を挟むでもなく、ただじっと黙って話を聞いていた。メイがしゃべり終わっても、彼はすぐには口をひらかず、沈黙が喫茶ペンドラゴンを支配する。やがて、ヴォルフガングがその沈黙を静かに破った。


「お父様はおそらく、完成した月の雫を使って、悪魔と契約を交わしたのだと思います」

「悪魔って、そんな……冗談ですよね」


 ヴォルフガングはふたたび沈黙したが、メイには彼が嘘を言っているようには見えなかった。なにより、異形に変わった父の姿を鮮明に覚えている。あれは、科学などでは説明がつかない、常識の埒外にあるものだ。理解などできなくても、それだけはわかる。


「冗談だと、思っていないようですね」


 彼の射貫くような視線に、メイは口をつぐむしかできなかった。


「もしかしたら、アーロンさんが力を振るわれるところを目にされたかもしれませんが、実は彼も、悪魔が憑りついた人間です。信じられないでしょうが、ここロンドンでは昔から、時として悪魔が現れ、人に憑りつき害を振りまいています。お父様もおそらく、その被害に遭われたものと思います」

「アーロンさんは、普通の人と変わらないように、見えるんですけど……」

「それは、彼が自身に憑いた悪魔を制御しているからです。自我の手綱を決して離さず、悪魔に身を委ねていない。ですが、お父様は、悪魔にすべてを明け渡した。そうまでしても、お母様を助けたかったのでしょう」

「それじゃあ、お母さんが目を覚ましたのも、悪魔が関わってるっていうんですか」

「それは……そうですね。お父様はすべてを賭けたはずです。たったひとつの願いを掲げて、悪魔を召喚し取引をした。それに応えた悪魔が、お父様の肉体を奪い……悪魔は消滅する前に、存在を賭してその願いを叶えなければならなくなった」


 メイは呆然とし、言葉を継げずにいた。


「契約とはそういうものです。覚悟と対価、その両方が大きければ大きいほど、因果を歪ませる力を持ちえます」


 一呼吸おいて、ヴォルフガングが話をつづけた。


「それだけ、あなたのご両親は強く結ばれていたということだと、私は思います」


 メイは大きな双眸を見ひらいた。その目に、みるみる涙が溜まっていく。


「……ですが、まだ予断は許さない。本当にお母様の病気が治ったのか、まだ予後を観察する必要がある。家も倒壊したと聞きました。しばらくはここに留まるといいでしょう」

「そんな、そこまでご厄介になるわけには……」

「次の住居が見つかるまででも、休んでいかれては? まさか、お母様と一緒に野宿するというわけにもいかないでしょう?」


 その言葉に、メイは噛みしめるように何度もうなずいた。


「本当に、ありがとうございます……お世話になりっぱなしで、あたし……」

「お母様が元気になったら、またいらっしゃってください。良い紅茶と、たくさんお菓子もご用意してお待ちしてますよ」


 あまり表情の機微が見られない店主だが、うっすらと柔らかい笑みを浮かべて見せるヴォルフガングに、メイは心から救われる思いがしていた。


 主治医の往診が終わったところで、メイ・ファレルは母のいるペンドラゴンの二階へ向かっていった。階段をあがっていくその背中を見送って、店主のヴォルフガングはシンクに目を落とす。一階の店舗に残ってひとり作業していると、カウンターに置いてある電話が音を立てた。

 濡れている手を拭いてから、ヴォルフガングは受話器を持ちあげる。耳に届いてきたのは、よく知っている刑事の声だった。まだ本調子ではないだろうに、こうしてすぐに連絡をしてくれるところが彼らしい。


「あぁ、ノアさん。すみません、ご面倒をおかけして。先ほどは、ファレルさんがいたので話しづらくてですね」


 そう口にすると、電話口から怪訝そうな声が返ってきた。


「実は、アーロンさんはこちらにはいらっしゃらなかったんですよ。ファレルさんのお宅に向かってから、帰ってきていません」


 驚いたような反応が返ってくる。やはりノアもあちらで気を失い、決定的な瞬間は目撃していないようだ。


「詳しいことは対魔特課A.D.Sで聞いてください。灰色の救急車、と言えば伝わるはずです。できることなら、協力を仰ぐといいでしょう」


 受話器の向こうで絶句しているらしいノアに、


「ノアさん、あなたの判断を尊重しますが、くれぐれもお気をつけて。あなたにとってなにが一番大切か、今一度考えてください」


 そうつづけ、ヴォルフガングは通話を終わらせた。受話器を置いてから、小さく息を吐く。


 ファレル親子とノア・ブレイディのふたりをペンドラゴンまで運んできたのはアーロン・アローボルトではなく、白いタキシードの男だった。通称〝ジョーカー〟というその男が語っていた話によれば、アーロンが灰色の救急車グレイビュランスに連れ去られたということだった。あれ、、の話を鵜呑みにするわけにもいかないが、事実関係を確認しておく必要はある。


 対魔特課A.D.Sへ働きかけるという布石は打った。

 振られたサイコロは、どんな未来を示すのだろう。

 アーロン・アローボルトの死という形で幕がおりれば、これから大きな波風が立つことはなさそうだ、という想像はできるのだが。


 ヴォルフガングはちらりと外を見遣る。店の外、ガラスの向こうに見える鉄柵に止まっていた一羽のワタリガラスが、甲高い声で鳴き、曇天の空に向かって羽ばたいていった。



                           MOON DRIP ― fin ―

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