44. 愚者 - The Fool -

 悪魔は周囲を見まわす。

 頭上から、白いタキシードとシルクハットに身を包んだ奇術師のような男が、ふわりと悪魔の眼前に降り立った。


「誰だキサマは」

「野次馬、とでも申しあげておきましょうか」


 横槍が入ったことで、悪魔の声色には明らかに機嫌の悪さが滲みでていた。

 それに対し、奇術師らしき男は左目に着けているモノクルを妖しく光らせる。


「彼は月の雫を完成させられなかった。粗悪な粉末に手を出して、その力を過信してしまった」


 ふ、と小さくため息を漏らす。


「なんとも悲しい結果です。呼び寄せたものが天の女王アスタロトではなく、その名を騙る有象無象とは」


 その言葉に、悪魔の顔色が変わった。触手の仮面の下が透けて見えるほどの変容ぶり。


「我が、有象無象だと……?」

「そうでしょう。なにか間違っていますか?」


 ぞっとするほど冷たい声。

 しかし、奇術師の余裕綽々な態度は変わらなかった。それがさらに、悪魔のプライドを逆なでしたのだろう。


「我の名は天の女王アスタロトだ! 人間風情がッ! 我に盾突くなど烏滸がましいにもほどがある! その意味、理解しているのだろうな」


 ぐにぐにとのたうつ触手の蠕動が激しくなり、それは悪魔の怒りをそのまま表しているようだった。饐えた悪臭が、さらに周囲にばらまかれる。だが、奇術師は少しも意に介していない様子で、


「さぁ? わかりかねますねぇ」


 不敵な笑みを浮かべたまま、首をひねった。


「……いいだろう。死ぬより酷な苦しみを、その身に味わわせてやる」


 蠕動を繰り返し、大きく広がっていた翼が収縮し、すべての触手の先端が奇術師へ向けられた。

 狙い定められた触手は一斉に、弾丸のような速度をもって奇術師へ襲いかかった。

 当たれば確実に全身を貫通する。が、奇術師はニタリと口角を吊りあげた。


 身体に直撃する寸前で、まっすぐに突き進んでいたはずの触手は見えない壁に阻まれるようにして軌道をそらした。悪魔が瞠目するより先に、奇術師は両手で四角形を作り胸の前で構えを取る。


「Burst 88〝煌煌絶体輝匣レイス・レクタングル〟」


 目が眩むほどの光が瞬いた瞬間、構えた手の延長線上にあった悪魔の右肩が消し飛んだ。土台を失った右腕と右翼が、重い音を立てて地面に落ちる。それは苦痛にあえぐ生物のようにのたうちまわったあと、ぐじゅぐじゅと液状化していった。黒い液体を被った芝生やコンクリートの地面が、触手と一緒に溶けて削られていく。辺りから饐えた煙が立ちのぼった。


「相手の力量を見定めようともせず、ヒトの自我を潰し支配権を得たくらいで調子に乗る。いかにも低級の悪魔らしいとしか言いようがありません」


 ひょうひょうとしたその声を掻き消すほどの、獣のような叫びが轟いた。

 左翼を構成している触手が天を衝き、篠突く雨のように奇術師めがけて降りそそぐ。


「ヒトの肉体に夢を見過ぎなのです。実体を得たところで、結局は悪魔の実力が物を言う」


 襲いかかってくる触手をいなし、ひらりひらりと躱しながら、奇術師は軽快に言葉を紡いだ。悪魔の失われた右肩からは、みちみちと触手が激しく蠢いていたが、欠損を補うほどの再生力を見せてはいない。その様子を、奇術師は鼻で笑う。


「わかりましたか。あなたの浅い浅い底が」

「黙れッ! 人間風情が、我にっ、我に盾突こうなどッ!」


 登場の仕方からして、白いタキシードの男は連中を守るために現れたと、悪魔は思ったのだろう。倒れている金髪の男や、庭の隅で震えているファレル家の娘へ向かって、残っている左翼の触手を叩きつけようとした。だが、それは彼についての理解がいささか足りないと言わざるを得なかった。


 奇術師が指を鳴らす。

 触手はふたりに届く寸前で、弾かれたように進路を変えた。


「捉えたッ!」


 奇術師の足もと、地面の中から触手が飛びだし、彼の右足を縛りあげた。そのまま間髪入れず、倒壊した母屋のほうへ投げ飛ばす。

 宙を舞う奇術師の先には、崩れた母屋から顔を覗かせている鋭利な鉄筋。

 筋力や体幹だけでは身を翻すこともままならない速度で投げられた奇術師の身体は、待ち構えている鉄の槍に貫かれるはずだった。が、宙を舞う速度が不自然に遅くなる。まるで急に重力が弱い空間に身を置いたかのように容易にくるりと身を翻し、瓦礫の上にふわりと降り立った。


「危ないですね」


 自分が見た未来に至らなかったことを把握するや否や、悪魔は咆哮を轟かせるとともに左半身の触手をすべて解き放った。触手は地面をえぐり、瓦礫を吹き飛ばし、周囲一帯を無差別に攻撃しはじめた。

 メイ・ファレルの甲高い悲鳴がこだまする。


「ふぅ、やはり四人もの人間を庇いながら戦うのは、できるできないの以前に面倒ですね」


 オーケストラの指揮者のように優雅に腕を振り、的確に被害を抑えている奇術師だったが、ほんの少し眉根を寄せるとともに小さく息を吐いた。

 そして、薄く妖しい笑みを浮かべる。


「ひとり減らしましょうか」


 くい、と人差し指を曲げる。

 同時に、ノア・ブレイディを埋めていた瓦礫の山が持ちあがった。最後に、気を失っているノアの身体までが宙に浮かぶ。

 そのまま指をくるくるとまわし、ヒュッと悪魔を指差した。

 それに呼応して、宙に浮いているものすべてが、悪魔に向かって放り投げられた。


 横たわっていた金髪の男、アーロン・アローボルトの視界に、宙を舞う深緑のモッズコートが映る。

 目を見ひらいたときにはすでに身体は跳ね、反射的に駆けだしていた。

 まっすぐ悪魔に向かって飛ぶノアを、ダイビングキャッチで受け止める。

 視線を悪魔のほうへ向けると、ちょうど瓦礫が触手によってなます切りにされているところだった。


「――ッ、テメェ! いきなりなにしやがる!」


 少しでも遅れていたら、ノアの身体が瓦礫と同じ結末をたどっていた。肝が冷える思いをしながら、アーロンは声を荒げた。しかし、対する白いタキシードの男はカクンと首を傾ける。


「なに、とは? どういうことでしょう」

「言われなくてもわかんだろ! 今の行動だ!」

「はて。全員を庇いながら相手をするのが面倒だったので、負担をひとつ減らそうと思っただけですが」


 キョトンとした顔で語るその言葉に、アーロンは開いた口がふさがらなかった。

 この男の目的が見えてこない。悪魔と化してしまったジェイコブ・ファレルを敵と認識していることは確かなようだが、救援ではなく、ただ現場を引っ掻きまわしにきただけなのではないかという疑惑が濃くなっていく。


「任せてらんねぇ、すっこんでろ!」

「そうですか? それならお言葉に甘えて」

「絶対に三人を危険に晒すなよ!」


 もたもたしていたら白いタキシードの男がなにをしでかすかわからない。

 他者を守る術に乏しいアーロンは、自分が悪魔と相対することを宣言し、奇術師をさがらせた。防衛に徹しろと釘を刺し、一歩前に踏みだす。


「……ッ」


 一瞬、鋭い痛みが走り、貧血のような立ちくらみがした。

 思わず腹へ手を添える。

 当然だが、いまだ腹には穴が開いているままだった。出血こそほとんど止まっていたが、痛みはひどく、重傷には変わりない。相手も手負いとはいえ、戦闘を長引かせると不利になる一方だろう。


「これ、使いますか?」


 ものすごい速さで飛んできた物体を、反射的に受け止める。バシン、と手の中に収まったのは、一冊の黒い本。


『むにゃ……大きい、おっぱい……むふ』


 相変わらず気を失っている黒い本ザミュエルから、なんとも気の抜けた寝言が響いた。普段なら聞き流していたかもしれないが、今の状況ではこめかみに怒筋が浮かぶ。


 本を持つ手を思いきり振りかぶり、そして悪魔に向かって投げつけた。

 間髪を入れず、寝言を呟きながら飛んでいく本を盾に、悪魔へ向かって走りだす。本は触手に弾き飛ばされたが、それはアーロンが悪魔の懐に潜りこむだけの隙を生んだ。


「〝竜吼炮ドラゴニックハウリング〟」


 グッ、と両手を構え、魔力を練りあげる。

 圧縮された力が、悪魔の腹部で爆発した。

 轟音とともに衝撃波が撃ちだされ、触手の塊を吹き飛ばす。


 ちぎれた触手が宙を舞い、ぼろ雑巾のようになった悪魔は地に落ちた。

 懐から一丁の拳銃を取りだし、悪魔のもとへ歩みを進める。


「たすっ、たすけて……」


 腰を抜かしたらしい悪魔は、座った状態のまま後ずさった。

 顔面を覆う仮面となっていた触手が縮み、中からジェイコブ・ファレルの顔が現れる。その顔は恐怖に染まっていた。


 銃口を向けようとしていた手が止まる。視線だけを、離れたところにいる母娘おやこへ向けた。

 娘のメイが、庇うようにして母を抱きすくめ震えている。

 撃鉄にかかる指が引きつり、そしてその小さな隙を悪魔は見逃さなかったらしい。


(これだから人間は生ぬるい――ッ!)


 そんな感情が透けて見えるほど、口の端が吊りあがると同時に、腹を裂いて飛びだした黒い影がアーロンの胸を狙った。が、それは直撃する寸前で弾かれ頬を掠める。


「――ッ!」


 ジェイコブの顔が歪む。

 離れたところで、白いタキシードに身を包んだ男がくるくると指を弄んでいた。


「ためらうな。彼はもう人ではない。その引き金を引くしか、彼を救うすべはない」


 今までのひょうひょうとした態度とは異なる、冷然とした声色だった。


「彼は後悔していることでしょう。妻を救うはずが、かえって家族を危険に巻きこんでいることに」


 ジェイコブの意識は、どの時点で途切れてしまったのか。

 絶望に囚われながら呑みこまれたのか、絶望すら感じる暇はなかったのかはわからない。


 カチリと、親指が撃鉄を起こした。

 魔導を撃つための、ザミュエルが用意した銃ではない。鉛玉を撃ちだし命を奪う、正真正銘の拳銃だ。


「やめろ、やめてくれ……」

「命乞いで済む段階は終わってる」


 ふるふると顔を震わせる悪魔に、アーロンは冷たく言い放った。目の前で怯えている存在は、ジェイコブ・ファレルの皮を被っているだけの化物だ。

 このまま放っておけば、被害は家一軒にとどまらない。

 そう、自分に言い聞かせる。


「あの世で詫びろ、ファレル家の人たちに」

「ク、ソオォォオオオオオッ!」


 ジェイコブの顔から咆哮が轟く。

 大きくひらいた口の中から、黒い触手が弾丸のように飛びだし、アーロンの顔面を貫かんとする。


 それとほぼ同時だった。

 乾いた銃声とともに、悪魔の心臓に風穴が開く。

 迫っていた触手は、ちょうどアーロンの額に届く寸前でピタリと止まった。そのままぼろぼろと崩れ消えていく。悪魔の全身からは瘴気のような煙が立ちのぼり、身体を覆っていた黒い触手の鎧は瓦解していった。


「いやっ、いやだっ……! まだ、力は残って……」


 触手は消え失せ、器となっていたジェイコブが表に現れた。

 ガクン、と糸の切れた人形のように倒れたあと、ビクリと痙攣する。

 ゆっくりと上体を持ちあげ、這いずりながら娘に抱きかかえられている妻のもとへ近づきはじめた。

 それに気づいたアーロンは、咄嗟に銃口を向けるが、白いタキシードの男がそれを手で制する。


「大丈夫ですよ、もうろくな力は残っていない」


 蠕虫のようにゆっくりと、ジェイコブは匍匐前進で進んでいく。


「エヴァ、エヴァ……」


 ギュッと母を抱きしめる腕に力を込めるメイだったが、父が母の名を呼んでいることに気づき、顔をあげた。


「すまない……必ず、助けると約束した、のに」


 這いずる父の頬を、一筋の雫がつたっていた。


「無力な私を……ゆる、し……」


 妻の足先に手が届くと同時に、ジェイコブ・ファレルは事切れた。

 動かなくなった肉体が、劇薬に曝されたかのように煙をあげはじめ、ぐじゅぐじゅと音を立てながら溶けていった。


 父親の身体が溶けてなくなるという凄惨な光景を至近距離で目にしたメイは、そのまま気を失って倒れてしまった。そのとき、母の首にかけられていた小さなペンダントが淡い光を灯し、消滅していく。


月の雫ムーンドリップ……」


 ぼそりと、白いタキシードの男が呟く。

 その意味はわからなかった。それよりも、全身にのしかかる疲労感で、アーロンは地面に倒れこんだ。緊張の糸が切れたせいか、身体に力が入らない。

 悪魔憑きになって人間離れした回復力を身に着けたという自覚はあったが、大きな傷が塞がるとどうにも低血糖状態のような症状にさいなまれてしまうのが常になっていた。


 このまま寝てしまいたい、という感情が首をもたげるが、事態は落ちつきを取り戻してはくれなかった。


 辺りに立ちこめていた霧が少しずつ晴れてくる。

 それを吹き飛ばしながら、ものすごい速度で一台の車が突っこんできた。


 鈍色の救急車。

 その姿を捉えた瞬間、アーロンの顔色が変わる。驚いている合間にも、救急車の後部、両開きの扉がギギ、と軋む音を立てながら口を開けた。

 アーロンの視界から中は見えない。まっすぐその前に立っているのは、白いタキシードの男だったからだ。


 前に、同僚だったネイサン・ダンが車に引きずりこまれたことを思いだす。

 次の標的はおそらくこの男。

 そう思った瞬間、ジャラ……と鎖がこすれるような音がした。咄嗟に身を乗りだし、忠告しようと口をひらく。


「あぶね――」


 パチン。

 指が鳴った音がした。

 一瞬、視界が飛んだ。

 鈍色の車体の側面と、白いタキシードの男を捉えていたはずが、ぽっかりと口を開けた暗闇と、そこから伸びてくる幾本もの鎖が自分に向かってくる光景に変わっていた。


「なッ――」


 状況の理解ができないまま、錆びた鎖はアーロンの身体を縛りあげた。ぎちぎちと音を鳴らし、身体のありとあらゆるところに鎖の素子が食いこんでいく。遠くに転がっていたはずの黒い本ザミュエルがふわりと宙に浮き、無言のまま車の荷台へ吸いこまれていった。


「彼らのことは私にお任せを。安全は必ずお約束します」


 痛みに顔を歪ませながら横を見遣ると、今まで自分がいたはずの場所に、白いタキシードの男が立っていた。


(どういう、ことだ!?)


 男と自分の立ち位置が、一瞬にして入れ替わったとしか考えられなかった。

 だが、どうやって。

 考えているあいだも、鎖は万力のような力でアーロンをいざなっていた。下半身に力を込め抵抗しても、少しずつ荷台が口を開けた暗闇が近づいてくる。


「クソッ、クソ!」


 身体をよじっても、鎖はちぎれるどころかどんどん拘束力を増していく。踏ん張っている足はずるずると引きずられ、地面に深い轍を作る。荷台に腰が乗り、うなじを冷たい空気がなぞった。


「テメェッ、どうにかしろ――道化師ッ!」


 咆哮のような叫びが轟くと同時に、バタン、と荷台の扉が閉ざされた。


「ご武運を」


 白いタキシードの男は、扉が閉まると同時に薄い笑みを浮かべ呟いた。

 鈍色の救急車は、沈んでいく太陽へ向かって走り去っていく。心なしか、その後ろ姿はどこか恨めしげな雰囲気を湛えているように見えた。

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