3. CIRCULAR FOREST

46. ある日の午後 - One afternoon -

 それは、厳しい冬の寒さが少しずつ和らぎはじめる、イースターが過ぎたころだった。


 一九七七年、四月。

 イングランドの南東部にある首都、ロンドン。イングランドの南部を流れるテムズ川の河畔に位置し、その起源はローマ時代にさかのぼるとされる。現在は金融や文化、芸術の中心地で、世界に名を轟かせる大都市のひとつだ。


 そのロンドンを構成する一角に、ウォルサム・フォレストという自治区がある。ロンドン北部に位置するこの自治区は、東部にあるエッピングの森、西部を流れるリー川に挟まれて、森林や公園、運動場などが整備されていることで知られ、ロンドンの中でも広大な憩いの広場を有する地区となっている。


 そんな町の中を歩く、ひとりの男がいた。名は、アーロン・アローボルト。二十一歳。芸能と文化の街、ウエストエンドを構成する地区、ウェストミンスターに本部を構えるロンドン警視庁スコットランドヤードに勤める新米刑事だ。


 とある事件の捜査資料を配達する役目をことづかりウォルサム・フォレスト区にやってきていたアーロンは、昼食をとるためにひとり町内を散策していた。自宅は当区から南のタワーハムレッツにあり、距離的にはそう遠くないが、ロンドンの北の端になる当区に仕事以外でわざわざ立ち入るということはほとんどなかった。


 きょろきょろと辺りを見まわしながら町を歩いていたアーロンが、ふらりと銀行に立ち寄ったのは、なんとなくの思いつきだった。家賃や光熱費、水道代など諸々の振りこみを終わらせておこうと、面倒に思う気持ちを押し殺して銀行へ足を向けた。


 はじめて訪れたウォルサム・フォレスト区内の銀行は、平日の昼ということもあってか、比較的閑散としていた。

 客は幅広い年齢の女性が十名ほどと、男は三人。アーロンのほかは、サングラスをかけ、ゴルフバッグのような大きなケースを背負っている黒ずくめの男と、キャップを目深にかぶり、行内の隅のソファに座っている男だった。

 受付では、口座開設にやってきたらしい老婆に、新人と思われる行員の女性が四苦八苦しながら説明をしている。そんな光景をよそに、アーロンはフロアの隅に設置されているATMへ足を向けた。


 来客が少ないこともあり、列に並ぶようなこともなく、アーロンは代金の振りこみをはじめる。

 まずは家賃、次に光熱費。

 後ろに並んでいる人もいないため、アーロンはあくびをしながらのんびりと筐体を操作していた。


 毎月払っている生活費がいくらだったか、支払いについて気に留めることはない。

 十八歳で社会人になってこのかた、家計が赤字になったことは一切なかった。ただそれは、アーロンが真面目で質素倹約を是とする性格だからではない。刑事になってからというもの、職業柄、勤務時間が不安定かつ拘束時間が長く、急な呼びだしも多いため、金を使う暇がほとんどないというのが実情だった。貯金は増えていく一方で、またそれはアーロンの趣味のなさを物語ってもいた。

 アーロンにとって金に糸目をつけないものといえば、タバコや酒といった嗜好品くらい。だが、タバコはともかく、酒に関してはゆっくりと飲む時間もあまりない。


 そういえば、今懐に入っているもの以外、家にタバコのストックがなかったことを思いだす。寄り道して買うしかないか、と考えながら、最後の水道代を振りこみ終えたそのとき、銀行という場所に響き渡るはずのない破裂音が轟いた。


 フロアにいる行員、客全員の視線が一点に集中する。その先には、猟銃を天井に高々と向けている、サングラスをかけた男が立っていた。全身黒ずくめで、銀行という場所に似つかわしくない、ゴルフバッグに似た大きなケースを背負っていたあの男だ。


 天井にはハチの巣のような穴が開き、天を衝く銃口からは微かな硝煙が立ちのぼっていた。一瞬で静まり返ったフロアに緊張が走り、動揺が目に見えて広がる。


「騒いだら殺すぞ!」


 悲鳴があがる前に、男は行内全体へ釘を刺し、カウンターの向こう側、行員たちへと銃口を向けた。男の足もとには、背負っていたバッグが転がっている。おそらく、この中に猟銃を隠し持って銀行にやってきたのだろう。男はそのバッグを手にし、行員へ向かって投げつけた。


「それに金を詰めこんでこい! おかしな真似をしたらどうなるか、わかってるな?」


 一番近くにいた受付の女性へ猟銃をずらし威嚇する。両手をあげ降参の意を示していた女性は、喉奥から湧きあがる悲鳴を押し殺さんと、口を押さえた。


「早くしろ!」


 硬直している行員たちに向かって、男は声を荒げる。行員たちは表情を強張らせたまま互いに目配せし、ひときわ恰幅のよい男性が一歩踏みだした。投げ入れられたバッグを手に、彼は行内の奥へと引っこんでいく。金庫にある札束を詰めにいったのだろう。


 アーロンはというと、ATMのそばで犯人のほうを向いたまま、後ろ手にジーンズのポケットをまさぐっていた。あるのはオイルライターとタバコ、財布、レシートの紙屑。武器になりそうなものはない。


 本日は仕事とはいえ、すでに起きた事件の聞きこみが主だった。今日は拳銃を持ってきていない。アーロン自身の極めて私的な理由もあるが、イギリスでは警察官が日常的に拳銃を携帯することは一般的ではなかった。ゆえに今、強盗犯に対処できるような武器を所持していない。とはいえ、相手が銃を持っていても、ひとりならなんとか徒手空拳で組み伏せる自信はあるが、あいにく距離が距離だ。行内の隅にあるATMから、フロアのほぼ中央に立っている男へ飛びかかろうとしても、気づいた男に銃口を向けられ、凶弾に倒れるのが関の山。


 なにか、注意を引きつけられるものでもあればと思うが、ライターを点火したまま投げつけるくらいしか思いつかない。だが、それだけでは相手を怯ませるには足りないだろう。


「全員一ヶ所に集まれ!」


 四方を客や行員に囲まれているという状況を嫌ったのか、男はそう叫び、再度天井に向かって発砲した。反射的に甲高い悲鳴がこだまする。


「先に客だ。行員はまだ、その場から動くな」


 威嚇射撃におののいた客たちは、指示どおりに行内の隅へ移動しはじめた。

 アーロンもほかの人たちに倣い、ゆっくりと移動する。指示された場所はATMとは反対側だったため、猟銃を構える男のそばを通らなければならなかった。


 しかし、それは僥倖だった。隠れて後ろ手にオイルライターの蓋を開け、蓋部分にポケットの中にあった紙屑を挟みこみ、そしてそのまま着火して、すばやく男の足もとに投げ入れた。


 金属製のケースがカラカラと甲高い音を立てて転がり、男が履いているブーツに当たる。それだけでは、一瞬目を奪われるに過ぎなかったかもしれないが、ライターには火が点いている。その火は、ライターの蓋からはみだしていた紙屑に引火して、燃えあがり小さな炎になった。

 男はぎょっとした様子で硬直し、つづいて弾かれたように顔をあげたが、すでにアーロンが懐へと潜りこみ、猟銃をつかみ取っていた。


「テメェッ……!」


 猟銃を奪い合う取っ組み合いがはじまる。アーロンはなんとか銃口を天井に向けたままにさせ、引き金に指をかけた。


 空気を裂く発砲音が響き、ふたたび悲鳴があがる。


 男の猟銃は薬室に一発、弾倉に二発入る一般的な散弾銃だった。今の一発で、一度の装填で発射できる最大数を射出した。再度発砲するには、弾を装填する必要がある。


 男もまさか、自主的に発砲されるとは思っていなかったのだろう。ほかの客や行員と同じように、フロアに響いた破裂音に硬直した。その隙を見逃さず、アーロンは男の手から散弾銃を奪い取り、受付の向こう側へ放り投げた。

 足もとへ転がった凶器にぎょっとする行員たちだったが、機転を利かせたひとりがそれをつかみ取る。男が武器を取り戻すには、カウンターを乗り越え、さらに行員から奪い取らなければならない。もちろん、そんな行動を起こさせるつもりは毛頭ない。憂慮すべき武器が男の手から離れた今、徒手空拳だけで充分組み伏せられる。指の関節を鳴らし、ニヤリと口の端を吊りあげ、アーロンは男の胸ぐらをつかみあげ投げ飛ばした。


「ぐぇっ」


 潰れたカエルのような声をあげ、男は強く背中を打ちつける。衝撃で、かけていたサングラスが顔から外れた。アーロンはベルトを素早く腰から抜き取り、手錠代わりに使って拘束しようと、素顔を晒し倒れている男へ近づいていく。


「動くな!」


 背後で、鋭い声が響いた。振り返った視界に、キャップをかぶっている男が、ひとりの女性客のこめかみに拳銃を突きつけているのが映る。


「この女が、どうなってもいいのか」


 男に腕をまわされた栗毛のショートヘアの女性は、今にも倒れそうなほど蒼白した顔で震えていた。周囲の人たちが悲鳴をあげ、一斉に男女から距離を取る。


(まさか、もうひとりッ……)


 瞠目するアーロンの後頭部に、重い衝撃が走った。たまらずくずおれた横腹を、つづけざまに蹴りあげられる。


「ぐッ……!」


 床を転がり起きあがったところで、投げ飛ばした男が懐から拳銃を取りだすのが見えた。


「調子に乗りやがって、カスが」


 血走った目を怒りに染め、男は撃鉄を起こした。


「さぁて、どこからぶち抜いてやろうか」


 姿勢を低く構えているアーロンの四肢に、銃口の射線が舐めるように這いまわる。


「オイ、的当てに来たんじゃないんだぞ」

「金が来るまでの暇潰しだよ。無鉄砲なバカに現実を教えてやるんだ」


 女性を人質に取っている男が苦言を呈するが、猟銃を持っていた男は頭に血が昇っているらしく聞く耳を持たなかった。


「ったく……」


 相方の身勝手さに呆れた様子は見せつつも、男はそれ以上の諌言は口にしなかった。今、銃口を突きつけている女性が男の腕の中にいる以上、行員たちも勝手な真似はできないはずだ、と男は判断したのだろう。そのとき、人質にしている女性がなにやらぶつぶつと小さく呟いているのが、男の耳に届いた。


「……メ、ダメ……うぅ、あ……」


 男の腕の中で、ぶるぶると瘧がついたように身を震わせはじめる。銃口を擬せられた人質としてはごく自然な反応だ。しかし、男は面倒そうに舌を打った。


 ――おとなしくしろ。


 おそらく、そう口をひらきかけた男の視界に映ったものは、赤い色。

 男が今際の際に見たものは、真っ赤に染まった視界だった。


 ドサリ、と人がくずおれる音がする。


「きゃぁぁぁああああッ!」


 誰のものともつかない、再三の悲鳴が行内へ響き渡る。中にいる全員の視線が、女性を人質に取っていた男へ向けられていた。

 男は、なんの前触れもなく、目や鼻、口、耳といった、身体の穴という穴から血を噴きだして倒れた。男の身体は絶えず痙攣し、ゴポゴポといやな音を立てながら、真っ赤な鮮血を体外へ吐きだしつづける。


 行内の空気が固まるさまが、手に取って見えるようだった。その緊張と静寂を、相方の男が破る。


「女! テメェなにをしやがった!?」


 アーロンへ向けられていた銃口が、女性へとスライドした。


「なにもっ、わたしはなにもしてないっ!」


 男の返り血を全身に浴びた女性は、金切声のような悲鳴をあげる。パニックに陥るのは無理もないことだったが、それは拳銃を構える男の神経を逆なでた。


「このアマッ――」


 男の身体に力が入り、引き金に指がかかる様子を、アーロンは横から見ていた。そして、男が発砲する気だと思ったときにはすでに、女性を庇うようにして飛びだしていた。


 乾いた銃声が鳴り響き、赤い鮮血が舞う。飛びこんできた人間の腹に銃弾が突き刺さったことに驚いたのか、男は硬直した。その隙を見逃さず、アーロンは負傷した身を押して男へ飛びかかり、犯人の手から拳銃を奪い取らんとする。抵抗する犯人だったが拳銃は手からこぼれ落ち、アーロンはそれを遠くへ蹴り飛ばした。

 男の手から凶器が失われた瞬間、行員の男たちがカウンターを乗り越え一斉に取り押さえる。


 安堵の気持ちが湧くと、意識は腹部の痛みへ向かっていった。

 腹からあふれる血を押さえ、アーロンは床に倒れこんだ。薄れていく意識の中、視界に映ったのは、人質に取られていた女性が、うずくまり震えている姿だった。そんな彼女を介抱しようとしたのか、ひとりの行員が心配そうに近寄っていく。


「触らないで!」


 その女性が叫び声をあげると同時に、アーロン・アローボルトは意識を手放した。

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