40. 緊急事態 - Mayday -
『親父さんの様子がヘン?」
「そうなんですよ。なにが、ってほどでもないんですけど、人がいないのに誰かに話しかけるような独り言を言ってたり、野菜が好きだったのにお肉ばっかり食べるようになったり。あとですね、あれだけこもってた外の小屋に行かなくなったんです」
『そりゃあまた重症だな』
「ですよね」
受話器から壮健な男の声が響く。
ペンドラゴンという喫茶店で知り合い、先日自宅まで来てもらったノア・ブレイディという男性だ。
『でもまたなんで俺に電話してきたんだ? ペンドラゴンの番号も知ってるだろ?』
「いつでも電話していいって、ノアさんも番号くれたじゃないですか」
二階にある電話の子機を持って、ノアの職場、彼のデスクに直接繋がるという番号を押し、自分の部屋で電話をしていた。
ベッドに座り、受話器を持ち替えながら話す。
視線はもじもじと遊ぶ足の指先を見つめていた。
『そりゃあ言ったけどよ、俺だっていつもデスクに座ってるわけじゃないし。マスターのほうがしっかり応対してくれると思うけどな』
「なんとなく、電話だとノアさんのほうが話しやすいかなと思って」
『おっ、嬉しいこと言ってくれるじゃないの』
「そういう軽口とか」
『それは褒めてるのか?』
電話口の向こうからは、ノアの声がする以外に、なにやらざわざわと雑多な音が響いていた。人の往来や会話が活発なオフィスなのだろうと、メイはぼんやりと考える。
『それにしても、人が変わったよう、ねぇ』
少しばかり、考えこんだ様子だった。ややあって、声が響いてくる。
『それなら、ペンドラゴンに寄ったときにでも、マスターにも相談しといてやるよ』
「え、わざわざいいんですか?」
『マスターには電話で話しづらいんだろ?』
その言葉に、メイはかぁっと紅潮した。
「いえべつにっ、話しづらいとは言ってないですよ! ノアさんが話しやすいって言っただけで!」
『はいはい』
「ちょっと、誤解を招くようなことを言わないでくださいね!」
『わかってるって、それじゃあな』
電話だというのに大きな身振り手振りを加えて弁解したが、信じているのかいないのか、ノアはさらりと流してそのまま電話を切った。
唖然とした耳に、ツーツーという音だけがむなしく響く。
「大丈夫かな……」
そう呟いて、受話器を見つめる。とりあえず子機を廊下のもとの場所に戻し、そのまま一階に降りた。そのまま母のもとへ向かい、日課になっている母の体位変更と、ついでに四肢をマッサージしていく。
「ねぇ、お母さん。最近、お父さんちょっと変じゃない?」
尋ねても返ってこないのが当たり前になってしまった。
「好きな野菜をあんまり食べなくなったし、代わりにお肉はよく食べるようになったんだけど、それも変だよね。どちらかというとベジタリアンだったのに。それに、全然外の小屋に行かなくなったし」
母の顔を自分のほうへ向けていたため、母を見つめるとうつろな双眸と目が合った。目は心の窓だとはよく言うが、目が合っても母の心の中はわからない。目を見るだけで母の考えていることがわかればいいのに、と今でもときどき思うことがあった。
「実はあたしが外に出てるときは、行ってたりするのかな? お母さんのほうが一緒にいる時間も多いから、なにか知ってるんじゃないかなーと思ってるけど」
最近の父は、母のそばにいることが多くなった。それ自体は、娘として素直に嬉しいことだ。少しでも長く、ふたりには一緒にいてほしいと思っている。
ただ、今まで外の小屋に向けていた足が、そのまま母のベッドに向かったといってもいい、というのがひとつ、不思議なところだった。
「ごちそうさま」
夕食を三人で囲む、いつもの光景。
一足先に食事を終えた父は、それだけ言って席を立った。主菜の肉は平らげているが、サラダを残している。最近の、父の普通がそこにはあった。
父はそのまま、ゆらりと書斎へ戻っていく。
今までなら、夕食のあとは飛びだすようにして庭にある小屋へ向かっていた。だが、今は夕食後はおろか、昼間にすら小屋に立ち入っている姿を見ていない。
「もう、花の世話はしないつもりなのかな」
誰に話しかけるでもなく、ぽつりと呟いた。
もしかしたら、母には聞こえていたかもしれないが。
父が自らを顧みず没頭していたときのことを考えると、見た目も比較的健康になってきたように思う。
それ自体は喜ばしいことだが、母のことはもう諦めてしまったのだろうか、という気持ちは少なからず首をもたげた。だから、母と一緒に過ごす時間を多く取るようになったのだろうか。あれだけ父のことを心配していたはずなのに、自分の感情の身勝手さに辟易もしてくる。
母のベッドがある窓際からは、その小屋が見える。
夕食を終え、母を車椅子からベッドに移しているとき。夕焼けに照らされた黒い小屋が、光の加減のせいか妙に浮きあがって見えた。
(花の様子だけでも、見てあげたほうがいいよね)
本当のところは、興味本位。
どうして父は小屋に行かなくなったのか。
その答えはやはり小屋の中にあると思ったからだ。せっかく育てた綺麗な花を見捨てるのは忍びないと適当な理由をつけて、とりあえずメイは外へ出てみた。
小屋に近づくにつれ、耳障りな羽音と黒い小さな影が目立った。
しかし、季節は初夏に差し掛かるころ。外をハエが飛んでいても当たり前のものとしか思わない。そんなことよりも、当然小屋の扉は大きな南京錠で施錠されており、鎖がしっかり巻きつけられていた。
鍵は父は持っているはずだ。
どうしようか、と首を捻ったところで、あることに気づく。
扉を封じている南京錠と鎖が錆びつき、ぐずぐずに腐食していた。ただ錆びているだけにとどまらず、錆びが混ざったような濁った液体まで滴っている。
顔をしかめ、触れば崩れてしまいそうな錠前を眇めた。
まさかはじめからこんなボロボロの鍵を使ったとは思えないが、それならどうして鍵がこんなことになっているのかと不思議に思う。だがそれよりも、これならもしかしたら強く扉の取っ手を引っ張るだけで開けられるのでは、という考えが湧いた。
取っ手に手をかけ、グッと手前に引いてみる。たわんでいた鎖が緊張し、少しだけ扉がひらく。その隙間から、黒い小さな影が耳障りな羽音とともに飛びだしてきた。
「きゃっ」
ハエの群れに驚き、取っ手を握ったまま咄嗟に身を引いてしまう。瞬間、バキリ、という音がした。
「開い、ちゃった……」
施錠が中途半端になっていたらしく、扉は鈍い音を立てながらゆっくりとひらいた。
立ちあがり、一歩踏みだそうとする。まだ屋内に立ち入っていないにもかかわらず、有機物が腐ったような強烈な悪臭が鼻孔の奥を突いた。反射的に鼻をつまみ、おそるおそる小屋の中に足を踏み入れる。
時間帯もそろそろ日没になろうかというころ、窓のない小屋の中は薄暗い。目を凝らす視界に飛びこんできたのは、異様な光景だった。机や壁に散った黒い染みと、焼きつけたように刻まれた壁の文字。その机の上では、なにやら黒い塊が蠢いている。
天井の半分を黒い暗幕が覆い、ずらりとならんだ植木鉢があるのは、前に見た光景と変わらない。だが、真っ先に浮かんだのは、本当に先日立ち入った小屋と同じ場所なのか、という感想だった。
どうにも気持ちが悪い。
悪臭だとかそういった不快感以前に、この場にいたくないという気持ちでいっぱいになり、心なしか肌がひりひりする感覚に苛まれた。
「なにをしている」
一歩あとずさったそのとき、背後から抑揚のない声が響いた。ビクリと肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。
無表情の父が、扉の外に立っていた。
「まったく、勝手に入るなと言っただろう」
「おっ、お父さん……これって、どうしたの」
ゆっくりと一歩進み出た父の動きに合わせ、反射的に一歩引いた。
やっぱりなにか変だ。
うまく言葉にできないが、心は強く違和感を訴えていた。表情、癖、仕草、声色、それらがすべて、記憶の中にある父から少しずつずれているような気がする。
今この場にいる父は、本当に自分の父親なのだろうか。
馬鹿げた考えが脳裏をよぎる。
父が小屋の中に入ってくる。
キュッと目を閉じ、身を縮こまらせた。が、父はメイを叱るでもなく、なにもせず横を素通りする。
「お母さんを助けるんだよ」
その言葉に、ハッと振り返る。
見慣れた背中が映る。
背が高く、そして線が細い。
見慣れているはずなのに、強烈に感じる違和感。
父が小屋の中央まで進んだところで、机の上にあった黒い塊が突然ワッと霧散した。同時に、不快な羽音が耳をつんざく。わんわんと小屋いっぱいに反響する音で、メイの頭はくらくらした。
あれは、ハエの群れだ。
あの黒い塊が小さな虫の密集でできたものだったと気づいた瞬間、ぞぉっと身の毛がよだった。
見たくない、にもかかわらず、その気持ちに反して目線は机の上から離れない。
ゆえに、見えてしまった。
ハエが蝟集していたところにあった、細く小さな白い骨のようなもの。よく見ると、壁に散っている黒い染みは、それを起点に周りへ飛び散っているように見えた。
ヒュッ、と喉から空気が漏れる音がした。
小屋の中を飛びまわるハエの羽音が、どこか遠音に聞こえる。そのまま放心しそうになる意識を繋ぎ留めた瞬間、言いようのない吐き気がせりあがった。
慌てて口を押さえ、這う這うの体で母屋へ戻る。
助けを求めなければ。
いつでも繋がる電話番号。それでまず思い浮かんだのは、竜の名を冠する喫茶店だった。電話機へ這いより、番号のボタンを押そうとするが、手が震えうまく押せない。
「落ちついて、落ちつくの……」
自らに言い聞かせるようにぶつぶつと呟きながら、メイはようやくすべての番号を押し終わる。耳に当てた受話器から響く呼び出し音が、永遠のように思えた。
早く出て、という思いが通じたのか、電話口の向こうから、受話器が持ちあがる音がした。相手の言葉を聞く前に、切羽詰まったメイは口火を切る。
「メイです! メイ・ファレル! 小屋にっ、ハエがすごくて、血と骨みたいなものがあって! どうしよう、お父さん、おかしくなっちゃったかもしれない。お母さんが助かるって、言って」
電話口の向こうの相手は、まず驚いたようだった。断片的な伝え方しかできずうろたえるメイの様子に、ただならぬ事態を察したのだろう。だが、すぐに鷹揚な低い声が響いてきた。
『落ち着いてください、落ち着いて。あなたとお母様は大丈夫ですか』
「は、はい。どうしよう、あたし、どうしたら」
『まず家を離れましょうか。お母様も一緒に。難しければ、あなただけでも逃げてください。私のほうから助けを寄越します。すぐに動けますか』
「わかりました。すぐ、離れます」
乱暴に受話器を置き、メイはすぐさま母がいるベッドへと向かった。折り畳んだ状態で置いていた車椅子を組み立て、母をベッドに座らせる。大きなクッションを背中に当て、倒れないよう支えにしてから、母の臀部へ両手をまわした。お尻を持ちあげ、そのまま自分へ寄りかからせてから、両脚を踏ん張って車椅子に移動させる。
床頭台のフックにかけているハンドバッグを手に取り、母の膝に載せた。
母の保険証や数回分の診察代など、当面必要なものはすべてこの中に入っている。
あとは家を出るだけ。
立ちあがり振り返ったメイは硬直した。
「どこに行くんだ」
いつの間にか、父がリビングの入り口に立っていた。
ぞっとするほど冷たい声が耳をなぞる。反射的に、メイは車椅子に座る母を庇うように抱きしめた。
「メイにも協力してもらおうという話になったんだ。さぁ、お母さんから離れてこっちに来なさい」
「イヤッ、絶対にイヤ! お父さんどうしちゃったの!? 最近ヘンだよ! 倉庫の中も、あれってどういうこと? お母さんが助かるって言われても、あたし信じられない!」
娘の悲痛な問いに父は答えず、代わりに一歩踏みだした。ゆっくりと、妻子へと歩み寄る。
「イヤッ、来ないで!」
叫ぶと同時に、メイは思わずそばにあった点滴スタンドを父に向かって倒した。がしゃんっ、と甲高い音が響く。
「あ……」
スタンドの細い部分が当たったのだろう。父の腕には、細長いひっかき傷ができていた。あふれた血の雫が腕を伝い指先から滴る。
「大丈夫だよ、ほら」
ごめんなさい、とメイが口にするより先に、父は意にも介していない様子で、怪我をした腕を持ちあげて見せた。微かな稲妻のような光がほとばしり、ゆっくりと傷がふさがっていった。にわかには信じがたいその光景に、メイは瞠目する。
「これでわかったろう。父さんはなんでも治せるようになったんだ。月の雫の魔術が完成したんだよ。きっと母さんも元気になる。さぁ、お母さんから離れなさい」
一歩、また一歩、父はふたりへ近づいてくる。
その姿はもう、父の皮を被った得体の知れないなにかだとしか思えなかった。
彼が伸ばしている手が母へ届いた瞬間、なにもかもが終わってしまう。そんな気さえしてくる。
心臓が早鐘を打ち、ドクドクと全身へ血液を送っていた。
脳は、心臓は、今すぐに動きだせと指令を出している。
だが、身体は金縛りにあったように動かず、ぶるぶると震えるだけだった。
ギュッと、母を強く抱き寄せることしかできない。
「イヤ……イヤよ! それ以上近寄らないで!」
「離れろと言ってるのがわからないのかッ!」
娘と父の叫びが、真っ向からぶつかりあった。
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