39. グラデーション - Gradation -

 朝のファレル家に、甲高い声が響いた。


「えぇっ、お父さん、朝ごはん作ってないの!?」


 その声の主は、ぼさぼさの髪にパジャマ姿のままの、メイ・ファレルだった。母が横たわっているベッドのそば、スタッキングチェアに腰かけていた父が、ゆっくりと振り返る。


「すまない。今から、なにか作ろうか」

「あ、ううん、大丈夫。パンでも焼くから」


 ゆらりと立ちあがろうとした父を制止して、メイはキッチンに立った。


「お父さんは、ご飯食べたの?」

「いや」

「それなら、お父さんも食べるよね。パンと目玉焼きでいい?」

「あぁ」


 食パンをトースターに突っこんで、卵をフライパンに落とす。冷蔵庫の中からレタスやトマトも取りだして、簡単にサラダも用意した。


「お父さん、お母さん連れてきてねー」


 三人ぶんの飲み物を用意しながら、リビングに向かって声をかける。できあがった朝食をテーブルに持っていくと、ちょうど父が車いすに乗った母を押してくるところだった。


 着席する前にテレビをつけにいく。

 子どものころは食事中のテレビを禁止されていたが、成長してからは叱られることもなくなった。特に母が臥せってからは、テレビやラジオの音声は食卓に色を添えるバックミュージックとして機能している。


 テレビではちょうど朝のニュース番組が放送されていた。


『――……リンゲイにある公園で、トリュー・スマルちゃん零歳ぜろさいの行方がわからなくなるという事件がありました』

「えっ、これってうちからも結構近い公園だよね」


 その内容に、メイは驚きの声をあげた。画面に映っているのは、母とも散歩に行ったことがある、よく見慣れた公園だった。画面に釘づけになっているうちに、テレビの映像は公園から、行方不明になった赤ん坊の母親らしき人がインタビューに答えている画に切り替わる。


『私がお手洗いに行っているほんの少しのあいだにいなくなったのよ! こんなことになるなら、トイレまで一緒に連れていくべきだった。もうっ……! あぁっ、神様、どうかあの子を無事に帰して……!』


 嗚咽と慟哭、悲壮感がテレビ越しにも痛いほど伝わった。母親の目の下にはクマができ、髪はボサボサ、肌も荒れ、憔悴しきっているのがわかる。

 なにか知っていることがあれば警察に連絡を、というキャスターの言葉でニュースは締め切られ、放送は天気予報へと移っていった。


「うちの近くでも事件が起きるなんて、最近物騒だね」

「あぁ」


 メイの言葉に、父はうつろな視線をテレビに向けたまま小さく頷いた。


 朝食のあとは、メイは外出の準備をはじめる。

 翻訳家であり、家が職場である父は、仕事をしながら母の介護をする。それが、ファレル家の朝の日常だ。


 病院で点滴をしてもらってからは、母の容態は小康状態にあった。

 むしろ、精神的に不安定だったのは、自分のほうだったかもしれない、とメイは思う。母の容態が悪化したのは、もしかしたら、喫茶店に長居させたことが負担になっていたのかもしれないと、あとになって気がついた。

 母のためを想って行動していることが、本当に母のためになっているのか。

 そう思いこんでいるだけで、結局母に献身的な自分に酔っているだけではないか。

 頭の隅で、自分を腐す気持ちが膨らんでいた。


 家を出る前に、メイは父の書斎へ足を向けていた。母もすでに経鼻栄養摂取を終え、ベッドで横になっている。父が書斎に戻ったのを見計らってのことだった。


「ねぇ、お父さん。あたし、やっぱりバイトやめようかなって」


 仕事に取りかかろうとしている父の背中に、ぽつりと呟いた。

 もともとは、大学入学を機に、父に勧められてはじめたアルバイトだった。母のことがあるからと渋ったものの、父としては娘が家のことに囚われず、勉強や社会経験を積むことに精を出してほしい、という思いがあったようで、父の厚意に甘える形でアルバイト先を探した。そしてホワイトシープ見つけ、今があるのだが。

 アルバイトにうつつを抜かしている、という思いは心の片隅にずっとあった。


 大学生の夏休みは長い。

 しかし、決して無為に過ごすための時間ではない。

 九月入学であるイギリスでは、五月ごろに全課程を修了し、六月から長い夏休みを迎える。卒業を控えた学生は、就職活動を本格化させていく時期でもある。

 在学生もボランティアやインターンシップといった社会経験を積んだり、論文のための研究に心血を注いだり、そして学期末にあった試験の追試に追われている人もいる。皆がそれぞれ、やるべきことをやっている大事な時期だ。


 そろそろ、自分も将来を見据えた活動をしていかなければならない。そして、母と過ごす時間もなにより優先すべきこと。そうすれば父の負担も軽減できる。

 アルバイトは楽しいが、最上位に置きたいものではない。ただでさえ週二、三日ほどの勤務。これ以上減らしてもらうのはかえって迷惑だろう。それならば、すっぱりとやめてしまったほうがいい。

 母が体調を崩してから、ずっと心の片隅にあったその気持ちが大きくなった。


「そうか」


 父は背中を向けたまま、


「いいんじゃないか」


 そう、短く返しただけだった。


(……あれ?)


 どうしてだろう。

 なぜか目に水の膜が張った。


 父は反対しないだろうと思っていた。親の考えを子に押しつけるような人ではない。自分で考え決めたことならと、尊重してくれる人だ。

 そして実際、父は反対しなかった。

 なのに、どうして胸が軋む音がするのだろう。


「とっ、とりあえず学校行ってくるね」


 声色だけは努めて明るくし、だが逃げるように書斎をあとにした。


(やだな……あたし、考えなおせって言ってもらいたかったの?)


 うっすらとうるんだ目を擦る。

 引き留めてもらいたい気持ちなどまったくなかった、つもりだったが、本心は違っていたのかもしれない。自分にとって都合のいい答えを父から引きだそうとしてしまったようで、そんな自分に嫌気が差した。


 ――その日は一日身が入らなかった。

 夏休みを目前に控えた五月の下旬。

 どこの大学もおなじだろうが、学期末は往々にして忙しい。学生は皆、試験やら課題やらに追われる生活で、それはメイも例に漏れない。


「メイってほんとにすごいよね。バイトも家のこともやってさ。一日が二十四時間以上あるんじゃない?」

「本当にそうだったらいいんだけどね~」

「目の下。ちょっとクマが濃くなってる。無理しちゃダメだよ?」

「だいじょうぶ、これを乗り越えたら夏休みだし」


 友人との他愛のない会話は、日常にある小さなリフレッシュの瞬間だ。

 なんとか一日を乗り越え、大学をあとにしたメイは、買い物を済ませ、大きな袋を提げたまま帰宅する。

 リビングに入ると、ベッドに横たわっている母のそばで、父がたたずんでいる姿が目に入った。


「あれっ、お父さんいたんだ」


 メイが夕飯を作って呼びにいくまで、父はだいたい書斎でまだ仕事をしているか、外にある小屋にこもっていることが多かった。


「すぐご飯作るから、待っててね」


 そう告げて、キッチンに立つ。

 そのあいだ、父は母に寄り添っていた。

 夕食の準備を進めながら、遠くに見える両親の様子を見遣る。

 長らく見ていなかった光景な気がした。父が外の倉庫を改装し、こもりきりになるようになってからは特に。


 邪魔をするのは忍びなかったが、夕食の完成とともにふたりを呼んだ。父が母を車椅子で連れ、食卓につく。

 食事の最中、ふと父の皿に目がいった。


「お父さん、野菜残すなんて珍しいね」


 いつもなら、最初から取り分けているぶんのみならず、サラダのおかわりまでしている父が、まったくと言っていいほど野菜に手をつけていなかった。反対に、あまり得意でないはずの肉料理を真っ先に平らげている。


「そうか」

「うん、まぁお肉をしっかり食べるほうが精もつくだろうし、いいと思うけど」


 前のように食欲がないなら心配になるが、主菜をしっかり食べているだけ安心はする。結局野菜にはほとんど手をつけなかった父だったが、たまにはそういう気分のときもあるだろうと、大して気に留めずにいた。


 そして、いつもなら父は夕食を食べたあと外の小屋へ向かうのだが、今日はゆっくりと食後のひとときを過ごしていた。

 不思議には思ったが、尋ねることまではしなかった。

 そんな気分の日もあるだろうし、先日体調を崩した母が心配だということもあるだろう。

 その程度に考えていた。


 ――だが、次の日も似たような第一声から一日がはじまった。


「えぇっ、お父さん今日も朝ごはん作ってないの!?」


 母が横になっているベッドのそばに座っていた父が、ゆっくりと振り返る。


「すまない。なにか作ろうか」


 相変わらず平坦な声だった。


「ううん、大丈夫。お父さんもまだ食べてないんでしょ? 昨日と同じでもいい?」

「あぁ」


 トーストと卵を焼き、サラダを用意する。昨日とほとんど変わらない光景が、ダイニングに現れる。


 それから、そんな日がつづいた。

 母の介護こそ忘れることはなかったようだが、どこかぼんやりとしていることが多くなった。体調が悪いのかと尋ねても、大丈夫だと一言返ってくるだけ。


 さすがに、変だという気持ちが大きくなった。まさか、父にまで母と同じような症状が現れはじめているのではないかといういやな想像が湧いてくる。


 昼間、日課になっている母との散歩を終えたあと、仕事中の父へ紅茶でも差し入れようと書斎へ向かった。片手でカップの載ったトレーを持ち、バランスに注意しながら扉をノックしようとする。


「あぁ……だ……もう」


 誰かと話をしているような声が聞こえてきた。扉を叩く寸前で手が止まる。

 仕事の邪魔になるのを嫌って、父は書斎に電話機を置いていない。仕事のことで電話をするときは、いつもリビングにある電話機を使っている。


(誰と話してるんだろう)


 今日は来客もない。

 カップの乗ったトレイを持ったまま耳をそばだててみるも、なにを言っているのかまでは聞き取れなかった。

 ただ、独り言というような気はしない。

 割りこんでいいものかと考えていると、急に書斎の扉がひらいた。


「わわっ……!」


 いきなり迫ってきた扉に驚き、バランスを崩して数歩後退した。トレーに乗っているカップが揺れる。中身をこぼさないことに意識が向いた。


「どうしたんだ」

「あ、えっと。お父さんに紅茶、淹れたんだけど……」


 父の怪訝そうな声が頭上から響いてはじめて、メイはトレーから顔をあげた。

 自分よりも背の高い父と目が合う。

 今までは寝食よりも優先すべきことがあったからか死相が出ているような顔つきをしていたが、少し血色と肉付きが戻ってきたように思う。

 だが、もともと線が細く、気弱で優しそうな面立ちが、少し変わった気がした。


(お父さん、こんな目だったっけ……)


 ぼんやりとそう思ったところで、ふいに両手が軽くなる。


「ありがとう」


 そう言って、父は紅茶のカップが載ったトレーを受け取り書斎に戻った。

 ほんの短い時間、父の背後に見えていた書斎の中。


(やっぱり誰もいなかった、よね)


 小さく首をかしげながら、メイは二階へ足を向けた。

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