38. 最後の藁 - The last straw -

 帰らなければ。そう思った。

 しかし、身体は脱力したように動かなかった。


 昼さがりの公園、ベンチに腰をおろしたジェイコブ・ファレルは放心していた。


 帰って、妻の介助をしなければ。

 娘のメイは外出中で、帰宅の時間も今日はわからないと言っていた。そもそも、昼間の妻の世話は自宅で仕事をしている自分の役目だ。


 頭ではそうわかっていても、どこかふわふわとした感覚が身体を支配していた。神経がうまく繋がっていないような、奇妙な感覚。

 ハーリンゲイにあるこの公園までふらふらと徒歩で戻ってきた、その疲れのせいもあるかもしれないが。

 普段は多くの人でにぎわい、ときどきイベントもひらかれている大きな公園。しかし、平日の昼間ということもあってか、まばらに親子連れや散歩中の老人が散見できるだけだった。


 家族連れの楽しげな声が、耳の遠くでこだまする。


 すぐそばの大樹の陰で、母親らしき女性ふたりが談笑していた。

 ひとりはベビーカーを手に、もうひとりの女性はベビーカーに乗っている赤ん坊をあやしている。彼女たちの周りでは、初等科の低学年くらいの男児ふたりがサッカーボールを追いまわしながら遊んでいた。女性ふたりはときどき男児を注意して、そしてまた母親同士の会話に花を咲かせる。


 ロンドンの昼さがり、ママ友同士の井戸端会議。

 それは、どこにでもある光景。


「ごめんなさい、ちょっと見ていてもらってもいいかしら。お手洗いにいきたくて」

「いいわよ、ごゆっくり」


 ベビーカーを友人に託した母親は、小走りで離れたところにある公衆トイレへと駆けていった。子どもたちを託された彼女は、ベビーカーを覗きこんで赤ん坊に話しかける。


「お母さんはすぐに戻ってきますからね~、それまでおばさんと一緒に遊んでましょう」


 赤ん坊の気を引く音の鳴るおもちゃを振って、ベビーカーに語りかける。そのとき、ガンッという音とともに、耳をつんざくような甲高い泣き声が響いた。

 驚いて音のほうに目を遣ると、自分の息子がへたり込んで泣き叫んでいる光景が飛び込んできた。その鼻からあふれだす赤い血と、そばでころころと転がるサッカーボール。

 ベビーカーの赤ん坊の兄にあたるもうひとりの少年は、大きな目を丸くしたあと、その双眸にあふれんばかりの涙を浮かべ、そして堰を切ったように泣きはじめた。


「あーあー、ボールが顔に当たっちゃったの?」


 まさしく阿鼻叫喚。

 男児ふたりが泣き叫ぶ光景に駆け寄って、慌てて懐からハンカチを取りだした。そのまま、赤い血が垂れている息子の鼻に当てる。


「大丈夫よ、すぐに止まるから。男の子なんだから泣かないの」


 ギャンギャンと喚くふたりの男児をあやしつつ、彼女は困ったような笑みを浮かべる。子どもは泣くときでさえ全力だ。しばらく優しく話しかけながら背中をさする。その甲斐もあって、子どもたちは次第に落ち着きを取り戻した。


「さぁ、少し休みましょう。遊び疲れたでしょう」


 そう言って、サッカーボールを手に子どもたちをベビーカーのある木陰まで連れていく。


「ごめんねぇ、お兄ちゃんたちがハッスルしちゃっ……て?」


 覗きこみながら話しかけたベビーカー。その中に、ほんの先刻まであったはずの小さな姿はなかった。



      × × ×



「はぁッ……はぁッ……!」


 ジェイコブ・ファレルは走っていた。振り返ることなく、ただひたすらに。

 彼の腕の中には赤ん坊がいた。

 泣き叫ばれないよう、赤ん坊の顔を胸に押し当てたまま走る。


 心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つ。

 もう後戻りはできない。

 全速力で駆け抜ける。


 壮年の男が赤ん坊を抱いて走っている姿を、すれ違った人はどこか不審に思ったかもしれない。ジェイコブにとっては、パトロール中の警官などに遭遇しなかったことは大いに幸いだった。


 家に到着すると同時に、真っ先に小屋へ駆けこんだ。

 水分を失い張りついた喉から、ヒューヒューと音がする。何度も肩を上下させ、心身ともに落ち着かせようと、大きく息を吸い、そして吐く。


 抱えていた赤ん坊を机の上に乗せた。ずっと胸に顔を押しつけていたからか、赤ん坊はぐったりとしている。思わず首筋に手を当ててみたが、脈も動いていないようだった。赤ん坊がどれだけか弱い存在であるかということは、子育ての経験があるジェイコブにもよくわかる。


 すでに一線を越えてしまったことは否が応でも理解できた。

 もう後戻りはできない。


 古物商が言っていた言葉が思い返される。


 あの赤い粉は、人の血をもとに作られる。素材に臓物、特に心の臓が加わると、より高い効果が得られる。素体は若く新鮮であればあるほどいい。作り方は単純。血と臓腑を混ぜあわせ撹拌し、特別な魔法陣と呪文を用いて結晶化させる。


 素人には難しいだろうと、魔術を安定化させる力があるらしい結晶の欠片を手渡された。それをやるからもう来ないでくれ、という言葉もしっかりと言い添えられて。


 店での話を思いだしながら、道具箱の中から鉈を取りだした。長らく手入れされていない、ところどころが錆びてしまった古い工具。それを手にする右手が、おこりのようにぶるぶると震える。上から左手で強く押さえ、なんとか震えを止めようとした。


 ゆっくりと、頭上まで腕を振りあげる。その顔はぐしゃぐしゃになっていた。

 涙、よだれ、鼻水、汗、そして失禁。今まで澱のように溜まってきた暗い感情が体液となってあふれていた。

 視界が霞む。

 乱れる呼吸を無理やり止め、そして。

 手の震えがピタリと止まった瞬間、錆びついた鉈を振りおろした。


 ドン、という鈍い音とともに、顔や服に返り血が降りかかる。振りおろされた鉈は、最後の細い良心の糸まで切断してしまったようだった。


 それからは、無表情で淡々と作業を進めていた。身に着けているシャツが真っ赤に染まっても、意にも介さず。男の瞳は光を失っていた。ただ、教えられたとおりの手順を進める。やがて、男の眼前に小さく盛られた赤い粉のような結晶の粒が完成した。


『ぐふっ、ぐふふ』


 鼻濁音が耳障りな、くぐもった笑い声のような音が小屋の中に響いた。瞬間、ものすごい速さで机の上にあった羊皮紙へ文字が刻まれはじめる。


『なにをしているのかと思えば、よいものを作ったな。自分でも作れるなら、もったいぶることはなかっただろう。さぁ、早く我に捧げよ』


 紙が焦げる饐えた臭いが漂う。

 筆記の速さは期待の表れか、ところどころにスペルミスがあった。その現象に連動するように、机の上に固定されているキルトの人形がカクカクと蠢いている。

 ジェイコブは無表情のまま、完成した赤い粉をつまみ人形の腹へ押しこんだ。

 人形の動きが激しくなる。ぐぶぶっ、といやな音が響いた。その音はどんどん大きさを増し、綿と供物しか入っていないはずの人形の身体が風船よろしく膨らんでいく。


 思わず、後ずさりをしてしまう。その瞬間、肉塊のようになった人形が破裂し、中から黒い物体が放射状に飛びだした。視界が黒一色に覆われ、そこで記憶は途切れてしまった。


 ――まず視界に飛びこんできたのは、黒い暗幕が張ってある天井だった。二、三度目をしばたたいてから、自分が地面へ横たわっていることに気づく。

 ゆっくりと起きあがり、自身に目を落とした。シャツや腕、上半身のいたるところが赤く染まっている。次に、机の上に視線を移す。そこは小さな地獄だった。気を失う前の光景がフラッシュバックする。自分が手を染めたこととはいえ、吐き気がせりあがった。


 慌てて小屋の隅にある簡素なシンクに顔を突っこむ。

 ゲーゲーと獣のような嘔吐を響かせたあと、血にまみれた上着を脱いだ。ちょうど小屋に置いていたタオルを濡らし、身体と顔を拭く。白かったタオルは瞬く間に赤く染まっていく。使い物にならなくなったタオルは、上着と一緒にゴミ袋へ投げ入れた。

 上半身は裸のまま、ジェイコブ・ファレルは小屋の外に出る。そして、中身を封印するかのように扉に厳重な鍵をかけた。

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