37. 願い - The Wish -

 次の日。

 ハーリンゲイの西部、閑静な住宅地の一角にあるファレル家は、朝からパニックに見舞われていた。


「お父さん、準備できた!?」

「あぁ、できたが。メイ、バイトは」

「そんなの電話して休ませてもらうから大丈夫、マスターは事情知ってくれてるから」


 父娘のふたりは家の中を右往左往しながら、慌てた様子で会話していた。


 今朝、普段通りに早起きした父のジェイコブが、真っ先に妻の異変を確認した。

 外から見える異変は発熱のみだったが、様子を見ながら看病しているうちに、熱はどんどん高くなっていった。呼吸も荒くなり、見るからにつらい思いをしているのがわかる。今まで自発呼吸に問題はなかったため、呼吸器を所有していないのがあだとなっていた。


 タクシーで病院へ行こうと考えていたジェイコブは、その旨を起床した娘に伝えたが、メイはタクシーを呼ぶ時間も惜しいと、バイトを休むつもりで通院へ同伴すると言って聞かなかった。


 結局、娘を連れだって、普段から世話になっているかかりつけの病院へ向かう。

 娘を待合室に残し、ジェイコブが車いすを押して診察室へ向かった。動けない妻の診察の介助を、看護師と一緒になっておこなう。


 終始時計を見ていなかったため、どれくらいの時間が経ったのか定かではなかった。処置が終わり、点滴をしてもらうと、妻の顔色はずいぶんよくなっているように見えた。

 一緒に診察室を出ると、娘のメイが駆け寄ってきた。


「点滴をしてもらったよ」


 言葉少なに、ジェイコブはそう言って病院をあとにした。特に会話もなく、二人掛かりで妻を後部座席に乗せ、メイはその隣に座る。


「どうだったの?」


 自宅を目指しゆっくりと滑りだした車の中。その空気は決して軽いものではなかった。メイはおそるおそるといった様子で、後部座席からジェイコブへ声をかけた。


「……鼻の粘膜が炎症を起こしてるそうだ。そのせいで熱が出たんだろうと」

「交換したばっかりだから、負担になっちゃったのかな」

「だから胃ろうにしたほうがいいと言われたよ」


 いつも以上に抑揚のない声が、ジェイコブの口から出た。重い沈黙が車内を支配する。


「……胃ろうはお母さん自身も楽になるんだよね? 私たちの負担も配慮して、先生は言ってくれてるんだろうし」

「メイは、お母さんの身体に穴が開いてもいいと思ってるのか」

「そんなことは、思ってないけど……」


 内視鏡を使った胃ろう手術が確立されたということは、幾度となく医者から説明を受け、その安全性を説得されてきた。

 一般の人と比べて、胃ろうについて知識を持っているだろうという自覚はある。

 だが、それでも妻の腹部に穴を開けるという決断は、ジェイコブにとってそう簡単に下せるものではなかった。

 胃ろうにしてしまえば、もう妻はもとの健康な身体には戻れないのではないか。そんな不安がどうしても首をもたげた。


 経鼻栄養と胃ろう、どちらを取るかの判断が、今後を分ける分水嶺になっている気がしてならない。決断ができない理由が、そこにはあった。そしてその気持ちは、医者に対する冷ややかな言葉となって表れる。


「どうせ、経鼻栄養くらいしか指摘できるところがなかっただけだ。こうなってしまった原因すら特定できない医者が言うことなど信用ならない」

「じゃあ、お父さんはなにが原因だと思ってるの?」


 反射的。

 そう言っても差し支えがないほど、メイの返事は早かった。

 今まで妻が永らえてきたのは、現代医療のおかげである。それはジェイコブも理解しているつもりだった。だが、医療に対して失望しているという気持ちも同居している。


「それは」

「私があのとき、天使を見たなんて言ったから、お父さんはお母さんによくないものが憑いていて、そのせいだって思ってるんでしょう」


 言葉を詰まらせたジェイコブとは対照的に、メイは止まらなかった。その目には、うっすらと水の膜が張っている。


「たしかに、きっかけはそうだった」


 ぼそりと、重く落ちるような声が漏れる。


「だがもう、それ以外になにがある? 心の問題でも、脳の異常でもない。ほかに納得できる理由は見当たらないだろう!」


 悲痛な叫びが堰を切って車内に響いた。


「ただ口を開けて奇跡が降ってくるのを待つなんてことはしたくないんだ。医者が頼りにならない今、医者とは違う視点からアプローチしたい」

「お父さんの気持ちはわかるよ。でも、お父さん、鏡見てる?」


 そう言われてはじめて、ジェイコブはルームミラーに目を遣った。骸骨のような容貌の自分が映り、そして鏡を介して後部座席の娘と目が合う。


「このままじゃ、お父さんまで倒れちゃうよ。お母さんだって絶対心配してる。自分をないがしろにしてまで頑張らなくてもいいって、お母さんなら言うと思うの」

「大丈夫。大丈夫だから心配しないでくれ。もう少しなんだ」


 ハンドルを握る手に力を込め、懊悩を振り切るようにして首を振った。車内にはふたたび沈黙がおりる。


「お母さん、ごめんね」


 娘が妻の耳もとに顔を近づけ、囁くように謝っている声が、ジェイコブの鼓膜を震わせた。



 ―

 ――

 ―――



 結局、それからは言葉少ななまま、車は自宅へ到着した。

 幸い、妻の容体は今朝がピークで、それ以上悪化することはなく、今はベッドの上で穏やかな寝息を立てている。


 昨日とは一転、ファレル家は静謐としていた。今日の夕食は、母を同席させなかった。父娘おやこふたり、会話の少ない夕食を終えてから、ジェイコブはいつものように屋外の研究室へ足を向けた。


 バタン、と扉を閉めると同時に、重い嘆息が漏れる。


 呆然とするほかなかった。

 妻を蝕んでいるのは意識障害のみで、身体的な健康問題は今まで特に見受けられなかった。

 だが、健常者にとっては軽い不調でも、それを訴える術を持たない彼女は、周りが気づかないうちに手遅れの事態にまで悪化してしまう可能性もある。今回の発熱をきっかけに、抵抗力が弱ったところで肺炎など命にかかわる病気を患ってしまうかもしれない。


 もともと、か細い命の灯を無理に繋ぎとめていたようなものだ。

 心の隅で感じていた、妻の命の限界。

 今までは見ないふりをしてきた。

 認めてしまえば、現実になってしまう。そんな予感がいやでも首をもたげた。

 信じたくはない。

 だが、死神の足音はすぐそばまでやってきているような気がしてならなかった。


「助けてくれ……」


 誰に向けるでもない懇願が漏れる。

 神でも、悪魔でも、なんでもいい。

 五年にわたる悪夢から救ってくれるのなら。


 暗澹たる感情を抱えたまま、ルーティンと化している花の世話を終え、ジェイコブは泥のように眠りに落ちた。


 ――願いが天に届いたのか。

 朝、太陽が顔を出す前に目覚め、植木鉢の並ぶ棚に視線を移した目に、白く輝くガラル・セクエンティアが目に入った。


「咲いてる……」


 慌てて摘み取り、いつものように乾燥の下準備に入る。ようやく、もらった赤い粉を試す機会が訪れた。


(頼む……頼むぞ……)


 今回が最後のチャンスかもしれない。

 焦燥は今までで一番強かった。

 なにがなんでも、結果を出す以外にない。


 乾燥を終えた白いガラル・セクエンティアを粉末状に挽き、豊穣の象徴であるカエルの干物と麦、ほかの種々しゅしゅの材料ををすり潰した粉末を用意する。

 供物をいつもどおりの手順で準備しているだけだったが、机の下の道具箱に手を突っこんで中身をあさっているときに、腕に鋭い痛みが走った。

 慌てて手を引き抜いて見てみると、前腕に一筋の裂傷ができており、赤い血があふれだしてきた。

 道具箱の中にあるなにかで切ってしまったのだろう。

 内心が焦りで埋め尽くされていたせいか、よほど注意力が散漫になっていたらしい。しかし、そんな些細なことを気にしている暇はない。止血すらせず、魔術の行使を優先する。


 用意した供物に先日もらった赤い粉を添加し、それをあらかじめ腹を裂いたキルトの人形の腹へ突っこんだ。この人形が、悪魔が憑くための人を模した器となる。いつもどおり呪文を口にすると、供物を組み込んだ人形がカタカタと動きだす。ここまでは今までとそう変わらない。

 だが、ここからは違っていた。


 羊皮紙に描かれている魔法陣がかすかな光を帯び、そして余白に赤熱した細い線が浮かびあがりはじめた。

 ジジ、という焼きつくような音とともに、焦げたような饐えた臭いが漂う。

 焼き文字よろしく刻まれたそれは、つたない英語で〝願い、なんだ、お前〟と記された。

 うつろだった双眸が、みるみるうちに見ひらかれる。


「妻をっ、健康に! 元気だったころの妻に戻してくれ!」


 嗚咽が交じったような叫びが小屋に響く。

 しかし、羊皮紙に刻まれた返事は〝NO〟の二文字だった。


「なっ……!」


 驚愕に染まる。


「エヴァ・ファレル! 僕の妻だ! 悪魔ならできるだろう! 相応の供物を用意した! お前には答える義務がある!」


 矢継ぎ早に、ジェイコブは声を荒げた。口から粘ついた唾液が飛ぶ。

 今までどれだけの心血を月の雫の研究に注いできたか。

 無駄に終わることなどあってはならない。

 しかし、その希望をたやすく折るように、羊皮紙の余白の部分に、ふたたび〝NO〟の文字が浮かびあがる。

 かっと頭に血がのぼる感覚が顕著に湧いた。


「妻をもとに戻せ!」

〝NO〟

「僕の妻だ! 今自宅で眠っている!」

〝NO〟

「やれと言ってるのがわからないのか!」

〝NO〟


 その応酬がしばらくつづき、羊皮紙が焦げついていった。もともと描かれていた魔法陣は見る影もなく、焼き文字もだんだん見えなくなり、用紙はもはやただの焼け焦げた炭になってしまった。


「あぁぁぁぁああああああッ! 使えない!」


 絶叫し頭を掻きむしる。

 そのとき、ほんの先刻怪我をした、血が滴る腕が目に入った。


 羊皮紙に文字を刻んでいる存在は、ただ自分をからかっているだけではないのか。

 その思いが頭の片隅に浮かんだ瞬間、試すような言葉が衝動的に口を衝いていた。


「悪魔ならッ! こんな傷ぐらい治してみろ!」


 その叫びに答えるように、羊皮紙の隅に小さく〝YES〟の文字が刻まれた。同時に、パックリと裂かれていた皮膚が、みるみるうちに接合していった。縫い目もなにもない、ほぼ完全な修復。

 頭の中は驚愕でいっぱいになり、言葉すら継げなかった。

 すっかり沈黙が落ちた小屋に、ジジ、と紙が焼けつく音が響く。

 羊皮紙に刻まれる文字はとどまることを知らなかった。余白がなくなった羊皮紙ではなく、研究室と化している小屋の内壁に文章が刻まれていく。片言の英語ばかりで、判読するのに苦労したが、その中でアスタロトと名乗った悪魔は、現世にとどまりつづけるため、ジェイコブの願いを叶える力を蓄えるために、もっと赤い粉を捧げろというようなことを伝えてきた。


「与えれば必ず、妻を助けてくれるんだろうな」

〝YES〟


 訝る気持ちがないわけではなかったが、その日からジェイコブは赤い粉を人形へ捧げるようになった。

 ただ、悪魔を名乗る存在を心底から信用はせず、自分がどれだけ赤い粉を所有しているかを悟られないよう、少しずつ分けて与えるようにした。


 人形が自ら動きまわるようなことはなかったが、妻を治すという約束を叶えさせるまで勝手な行動を取らないよう、人形をしっかり机に固定し、今まで以上に扉の施錠に気を遣うようになった。

 しかし、数日をかけ所有していた赤い粉をすべて与えても、召喚した悪魔は満足しなかった。


 最近、妻の容体はあまり芳しくない。

 それがジェイコブの焦りを助長していた。焦りは怒号となって表に現れる。


「もう充分与えただろう! 今度は私の願いを叶える番だ!」


 意思疎通のために置いていた羊皮紙には〝まだ足りない〟と刻まれた。最初はYESかNOという簡単な言葉だったり、文法を無視した片言の言葉しか刻まれなかったが、赤い粉を与えれば与えるだけ、羊皮紙に焼きつく言葉はだんだんと流ちょうになっていった。


「もうないんだよ! 所有していたぶんはすべて与えた!」


 叫んだ瞬間、人形の腹が破れ、中から黒い触手のようなものが飛びだした。ぬめぬめとした不気味な光沢を放つそれが、目にも留まらぬ速さで喉もとに突きつけられる。

 はじめての出来事だった。

 首筋を冷や汗がつたう。ジェイコブは黙るしかできなかった。

 同時に、羊皮紙へ新しい焼き文字が刻まれる。


『愛する者を見捨てられるのか?』


 苦悶の表情が浮かぶ。

 可愛らしいデザインであるはずの人形の、その腹から伸びる触手。人知を超えたものに手を出してしまったのだという思いが、いやでも首をもたげた。


『我の力を借りなくてもいいのか。今のお前に、ほかに頼れるものがあるのか』


 畳みかけるように刻まれる文字に、返せる言葉はなかった。ほかに頼れるものがないから、今まで言われるがままに赤い粉を捧げてきたのだ。それを当然見抜いているからこその、羊皮紙につづられた文章。


「追加を捧げれば、必ず対価を支払ってもらうぞ!」

『約束しよう』


 喉もとに狙い定められた触手がシュルシュルと縮み、人形の腹に戻っていく。思わず、ゴクリと生唾を呑んだ。

 羊皮紙に刻まれた文字を確認し、証拠として羊皮紙を懐に押しこむ。そのまま研究室をあとにし庭に出たが、いつも家の前にある車がない。

 そういえば今日は娘が友人とボランティア活動に行くと言って、車を貸したことを思いだす。

 母の容体が不安だからと、外出を渋っていた娘だったが、前々から決まっていた予定なのだから行ってきなさい、とジェイコブが外出を勧めたのだ。


 母屋へ戻り、妻へ少し出てくることを伝え、近くのタクシー会社へ迎えに来るように連絡を入れた。


 タクシーがやってくるまでの時間は、ひどく緩やかなものに思えた。曲がり角から見慣れた車体が姿を現したところで、ジェイコブは大きく手を振る。


 運転手は、電話越しの切羽詰まった声色に緊急性を感じていたのだろう。


「あれ、今日は奥さん一緒じゃないのかい?」


 ジェイコブがひとりで乗りこんできたことを珍しく思ったらしく、怪訝そうな声をかけてきた。

 いつも妻を病院へ連れていくときなどに利用しているタクシー会社であり、ファレル家の事情を知っているからこそ口を衝いた疑問だった。


 娘に車を貸しているから仕方なく、ということを伝え、行き先としてハックニーにある古物商の住所を告げた。

 近くまで送ってもらい、あとは徒歩で細い路地を突き進む。


 店はいつものように、街の隅で静かにその存在感を殺していた。この扉の先が骨董品を取り扱う古物商の店と、いったいどれだけの人が知っているのだろう。


 ギギ、と耳障りな音を響かせる木製の扉を押しひらき、店へ入った。古ぼけたオレンジ色のランプが店内を照らしており、それが店の中にある品々に一層アンティークな雰囲気を醸している。

 先日とは違い、今日は客ひとりいなかった。この店にとっては、それが普段通りの光景なのだろう。だからなのか、店主は入店にすぐさま気づき、そして来客がジェイコブだと知ると、わかりやすく嘆息した。


 袖にされていると理解していても、ジェイコブはそれに気づかないふりをして口火を切った。

 求めるは、先日浮浪者のような男から手渡された、赤い粉。古物商なら、ああいった得体の知れないものも所有しているのではないか、という推測からだった。なにより、あれをもらったのはこの店でのことだ。しかし、店主からは冷ややかな視線が投げられる。


「ないよ、うちには」


 心底からうっとうしそうな表情を浮かべ、店主は素っ気なく返した。だが、そう言われて素直に引きさがるという選択肢はない。


「だったら、あの人からもらってくれ! 金ならいくらでも払う!」


 脳裏に浮かぶのは、赤い砂を手渡してくれた浮浪者のような男。

 このさい誰でもいい、縋れるものにはすべて縋る。

 覚悟が垣間見えるその言葉に、今まで冷たくあしらっているだけだった店主の顔色が変わった。


「無理っ、無理だ。もう、あの方を呼び立てるなど! ご自分の意思で来られるときにしかっ」


 冷淡な態度から一転、店主は怯えの色をその目に宿し、ぶんぶんと何度も首を横に振った。


「じゃあいつ来るんだ!」

「わからない!」

「赤い粉が必要なんだ! あれがなければ、妻が!」


 どちらも一歩も引かない、怒号にも似た応酬がつづく。そして、ほんの少し懊悩するようなしぐさを見せたあと、古物商は意を決したように叫んだ。


「それなら自分で作ればいいだろう!」


 彼が言い放った言葉は、ジェイコブの耳の奥で鋭くこだました。

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