36. 離れ離れ - Grow apart -
本日のファレル家は、華やかな雰囲気に包まれていた。
その空気を振りまいていたのは、娘のメイである。
母の身のまわりの世話をし、洗濯物を取りこんで畳み、水まわりの掃除を簡単に済ませる。終始、鼻歌がこぼれていた。
翻訳家である父は締め切りが間近な仕事があるらしく、今日は書斎にこもっている。そのため今日の母の通院に付き添ったのがメイだったというわけだった。父はおそらく夕飯になるまで出てこないだろう。
いつもの夕食の時間に間に合うように逆算して、料理の準備をはじめる。
心なしか料理を振るう腕にも力が入る。今日の仕事を終え書斎から出てきた父は、テーブルの上に並ぶ料理の数々に目が釘付けになっていた。
「今日は、なにかいいことでもあったのか」
「ちょっとね」
少しばかり困惑した様子で尋ねてくる父に、メイはウィンクを返した。そのまま、父の背後にまわる。
「ほらお父さん、早く座って。お母さんも待ちくたびれてるから」
父の背を押して着席させ、親子三人で囲う夕食となった。しばらく自分が作った料理に舌鼓を打ちつつ、メイは通院の結果も含め、今日あったことを父へ報告する。が、父からはぼんやりとした返事しか返ってこなかった。
「お父さん?」
せっかくの豪勢な料理を前にしても、父のフォークとナイフの動きは緩慢で、あまり食が進んでいないようだった。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
「あぁいや、なんでもない。大丈夫だ」
少しばかり怪訝な表情をしつつも、メイは〝そう?〟と返し、中断していた話を再開する。
「今日ね、お母さんと喫茶店に行ってたの。お母さんが一緒でも、快く受け入れてくれるお店でね。今度はお父さんも一緒にどうかなと思って。最近、三人で出かけたこともないでしょ?」
「あぁ……そうだな」
力ない笑みを浮かべ同意する父は、結局大して食事を摂らずに残してしまった。ベジタリアンの色が強い父が好きなサラダや穀物たっぷりのオートミールも、あまり食べ進んでいない。
「あれ、もういいの?」
スプーンを置き立ちあがった父に声をかける。
「あまり空腹じゃないんだ」
「もう、ちゃんと食べないと身体壊すよ。お父さんまで倒れちゃったら、あたしひとりじゃどうしようもできないからね」
「わかってるよ」
抑揚のない声が返ってくるが、それが父の通常であるため、メイはそれ以上の諌言を口にするのはやめておいた。
「少し出てくる。お母さんのこと頼んだよ」
「うん、わかった。あ、そうだ。ついでに牛乳と卵、買ってきてくれない? ちょうど今日の夕飯で切らしちゃって」
「あぁ」
小さく頷いて、父はリビングを出ていく。
「せっかく、クッキーももらってきたのになぁ」
カバンに忍ばせておいた袋を取りだしながら、メイは残念そうに口を尖らせた。
× × ×
これ以上、どうすればいいといいのか。
夕食もあまり喉を通らないほど悩み抜いた結果、ファレル家の主人、ジェイコブ・ファレルは車を駆ってとある古物商の店に向かっていた。
自宅のあるハーリンゲイの隣区にあたるハックニー。その一角に目的の店はあった。ストリートの隅に停めた車から降り、くねくねと入り組んだ細い路地の先にある、古ぼけた木製の扉を目指して歩く。なんの看板も出ていないその扉を、ジェイコブは押しひらいた。
オレンジ色の温かなランプが照らす狭い店内。
骨董品や古い蔵書の山が積みあがり、今にも雪崩が起きそうな光景が広がっている。
来客自体が珍しいのか、扉がひらいた瞬間、中からふたつの視線が突き刺さる。気難しそうな壮年の店主と、先客らしき浮浪者のような年齢不詳の男がいた。
「誰だ?」
薄汚れた身なりの男が、店主へ話しかける。
「前に、月の書の翻訳をお願いしたファレルさんです」
対する店主は、どこか怯えた様子で口をひらいた。そして、店の入り口で足を止めていたジェイコブへ視線を投げかける。
「なにか御用ですか……」
「あの本を所有していたあなたなら、なにかわかるんじゃないかと思いまして」
店主の目つきは、少しばかり敵意をはらんでいるように見えた。しかし、ジェイコブとしてもすごすごと退散するわけにはいかなかった。
彼こそが、月の雫が記されていた魔術書を自分のところへ持ちこんできた張本人。
自力で芳しい結果が得られない今、一縷の望みを胸にここまでやってきたのだ。
「あの本に記されていた、月の雫という花についてです。 白い花を作るところまでは漕ぎつけました! 本にあるとおり、毎日月光のみを浴びせて育ててきました! でもダメなんです、願いを叶える悪魔を呼ぶどころか、小さな精霊を呼ぶことすら叶わない!」
グッと、握られた拳には力が入る。
「どうすれば、月の雫を使った魔術は成功するんですか!?」
「そっ、そんなことを私に言われても……」
鬼気迫る声色で詰め寄るジェイコブに、店主はうろたえるような反応を示した。そしてほんの一瞬、来客である浮浪者のような男を一瞥する。
「悪魔、精霊。まさか、本当にそんなものを信じて行動に移すヤツがいるとは」
その視線に気づいたのか否か、男がニヤニヤと笑みを浮かべながら口をひらいた。小馬鹿にしたとも、感心したとも取れるような反応だ。
「本当に力のある魔術書というのは、普通の人間が中身を目にしただけで正気を失う。世に出まわるようなものに、大した力はない。当然、そんな低俗なものに収められている魔術に、願いを叶えるようなものがあるわけがない」
冷笑よろしく紡がれたその言葉に、ジェイコブは脱力するしかなかった。
「そんな……でも、あと一歩のところだと」
「そう思いたいだけなんじゃないのか」
忌憚のない言葉が胸に突き刺さる。無意識に、奥歯に力がこもった。
対する男は、そんなジェイコブを見遣りニヤリと笑う。
「と、言いたいところだが。話を聞く限り、努力は感じるな」
そう言って、懐から透明なナイロンの袋を取りだした。チャックで密閉されているその中には、赤黒い粉のようなものが入っている。
「これを触媒に使ってみるといい。ほかは今まで通り、悪魔を呼ぶでもなんでも好きにしろ。それでなにも変わらなければ、諦めることだ。お前に才能はない」
手渡された粉末を仕舞い、ジェイコブは礼を言って足早に店をあとにしていった。
その背を見送り、店の扉がバタンと閉じられたところで、店主が口をひらく。
「い、いいんですか。あれは、そういう用途ではないのでは……」
「穴を生む意味では適役だろう。それに、月の雫と合わさればどうなるか興味もある。天の女王でも降りてこようものなら僥倖だ」
愉しげに口の端を吊りあげる。
「それより」
フッ、と表情を消した男の鋭い視線が店主を射抜いた。
店主の肩が無意識にビクリと跳ねる。
一筋の冷たい汗が、つぅと背中をつたった。
「わざわざ俺を呼びつけて、どういうつもりだ?」
「もっ、申し訳ございません。ただ、お恵みをっ、お恵みを頂戴したく……もちろん、供物はご用意させていただきました! なにとぞ、お納めください」
必死の形相で頭をさげる店主を見て、男は鼻で笑う。
「そんなに飢えているのか、浅ましいな」
その頭をわしづかみにし、持ちあげた。
頬は上気し、その目にはうっすらと水の膜が張っていた。よくよく見てみると、ふるふると生まれたての動物のように小刻みに身を震わせている。
「まぁ、約束通り月の書の翻訳を完遂してきたからな」
頭から手を離し、男はそう言ってくつくつと笑った。
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