35. 嵐の前の静けさ - The calm before the storm -

 ガッシャーン!


 三人の視線が一斉に店の入り口へ向く。割れたガラスが床に散らばると同時に、店の扉が蹴破られた。そのままぞろぞろと店内へ足を踏み入ってきたのは、ガラの悪そうな数人の若い男たち。皆一様に、鉄パイプやバールのような鈍器を握っている。


「ペンドラゴン! 潰してやるって言ったよな!」


 最後に乗りこんできたひとりの男が、高らかに宣言した。


「今さら後悔しても遅ぇぞ」


 手にしている獲物をまっすぐ店主のヴォルフガングに突きつけ、下卑た笑みを浮かべる。対するヴォルフガングは眉ひとつ動かさず、まっすぐに男を見つめていた。


「チッ、警察手帳にビビッて尻尾巻いたガキが」


 代わりにアーロンが舌打ちひとつ、カウンター席からゆらりと立ちあがり、一歩前に踏みだした。うまく挑発して店の外で返り討ちにするか、とぼんやり考えながら、車椅子の母を庇うような態勢を取っていたメイへ避難するように告げる。

 彼女が車椅子を引いて店の隅へ退避したそのとき、トン、という小さな音がした。


「皆さん、奥の部屋へどうぞ。アーロンさんもご一緒に」


 まとめたカードを箱に片付けたヴォルフガングが、普段と変わらない鷹揚な声色で告げた。その意味が掬えず、ぽかんと口を開けているアーロンの感情を察したのだろう。彼は小さく口角をあげた。


「ここは私の店ですので、私にお任せください」


 店の主にそう言われては、食いさがるわけにもいかない。


「奥、いいのか?」

「えぇ、このまま店内にとどまるよりは安全でしょう」


 アーロンが店の隅にある木製の扉を指差すと、ヴォルフガングはあっさりと首を縦に振った。それならば特に言うことはない、と素直に従い、メイと母親を先に奥の部屋へと移動させる。


 店内の奥にある木造の扉。その先は、ヴォルフガングのプライベートルームである。アーロンもほとんど立ち入ったことはない。ゆえに、裏側こちらの事情を知らないメイとその母が立ち入ることを許すというのは意外でしかなかった。


「す、すごい部屋ですね」

「あー、オカルトに詳しいだけはあるって感じの部屋だよな」


 部屋を見まわしおっかなびっくり、といった様子のメイに、アーロンは適当な相槌を打っておいた。

 それもそのはず、黒が基調の薄暗い部屋は見るからに異色で、大きな本棚には古ぼけた分厚い蔵書がぎっしりと詰まっている。他にもフラスコや試験管といったガラス製の実験器具や、見たこともないような植物を乾燥させたもの、干からびた爬虫類の燻製らしき物体が瓶詰にされたものまで保管されており、雰囲気の不気味さに拍車をかけていた。端的に言って、メイの父が研究室にしている小屋にさらに輪をかけたような内装だ。


「大丈夫でしょうか、マスターさん。警察に連絡とか、したほうがいいんじゃ……」

「まぁ大丈夫だろ、あの体格だし」


 部屋の雰囲気に圧されながらも、メイはいまだに店内に残っているヴォルフガングを案じた。

 アーロンはというと、やはり適当な言葉を返す。ヴォルフガングが力を行使する姿はあまり見たことがないが、アーロンは彼に師事したと言っていい。最悪、魔導でも使えば大した労力もなく追い払えるだろう。


 だが不思議と、扉を一枚隔てただけの店内から暴れるような騒ぎは響いてこなかった。店のものが壊されるような、なにか大きな音がすれば介入しようかと思っていたアーロンだったが、なんの異音もないままそのタイミングを見計らっているうちに、店内へ通じる木造の扉がゆっくりとひらいた。一瞬身構えるが、ひょっこりと顔だけ覗かせたのは店主のヴォルフガングだった。


「もう大丈夫ですよ」


 店内に戻ると、あれだけ血の気が多かった男たちの姿はなかった。店が荒らされた様子もなく、割れたガラスと蹴破られたドアだけが、闖入者の襲来があったことを物語っている。


「あの、さっきの人たちは?」


 どうしても先ほどの男たちの剣幕と、今の店の静謐さにギャップを感じたのだろう。メイはわかりやすく困惑していた。


「お帰りになられました。前におこなった占いの結果をお伝えしたら、すんなりと」

「よかったのか? 前は教えなかったんじゃ」

「えぇ。ですが、どうしても知りたいようでしたので」

「……まぁ、マスターの判断なら俺が言うことはねぇけどよ」


 釈然としない感情は湧いてくるが、とにかく警察沙汰にならずに済んだのは幸いということで、特に詰めるようなことはしなかった。代わりに、妙に気になったことがひとつ。


「それよりマスター、なんかつやつやしてないか?」

「え、そうですか?」


 ヴォルフガングの肌が、スキンケア後のように光って見えた。終始静かだった店内のことを考えると、汗をかいた結果とは思えない。だが、ヴォルフガングがきょとんとした様子だったため、アーロンもわざわざこれ以上追及する気にはならず、気のせいかと納得して話を終わらせた。


「怖い思いをさせてしまいましたね」

「あっ、いえ。全然大丈夫です。ねっ、お母さん」

「嫌でなければ、落ちつくまでゆっくりしていってください。簡単なものになりますが、お詫びになにか作りますので」


 母娘ははこに謝罪を述べながら、ヴォルフガングは卵や小麦粉といった材料を用意しはじめた。


「そんな、わざわざ申し訳ないです」

「ほんのお気持ちですので」

「それじゃあ、あの……あたしにもなにかお手伝いさせてくれませんか」


 ただ厚意を享受するだけは悪いと思ったのか、メイは控えめに申しでた。ヴォルフガングはそれを了承し、大の男と女子大生がふたりでキッチンに立つ。

 作るものはクッキーに決まった。

 まずオーブンを予熱し、材料を混ぜあわせ生地を作る。

 アーロンはというと、そんなふたりを見遣りながら、割れた窓をダンボールとガムテープで応急処置し、外れたドアをはめなおしていた。


「そういえば、お父様のご様子はいかがですか」


 できあがった生地を適当な大きさに成形し、温まったオーブンに入れ、あとは焼きあがりを待つのみになったころ。ボウルやザル、ヘラといった調理器具を洗っていたヴォルフガングが、ふいに口をひらいた。

 問われたメイは、どこか少し寂しげな、複雑な表情を浮かべる。


「相変わらずです。最近、白い花が咲いていたみたいなんですけど、お父さんにとっては芳しくなかったみたいで」

「そうですか。月の雫は珍しい花です、思うようにいかなくても仕方がありません」


 なにかを思いだしたように〝そうだ〟と一言呟いて、ヴォルフガングは奥へと引っこんでいった。

 今まで三人が避難していた、木製の扉の奥へ入っていく大柄な背中を見送りつつ、アーロンとメイは顔を見あわせる。


「こちらをどうぞ」


 店内に戻ってきた彼が差しだしたものは、小さなペンダントだった。細やかな装飾が施された、ロケットのような丸い飾りがついている。ただ、開閉して中に写真などを入れられるロケットとは違い、開けられるような仕組みにはなっていないようだった。


「これは……」

「お守りのようなものです。気休めにしかならないと思いますが。よかったら、お母様に着けてあげてください」

「いいんですか? すごく、高価なものに見えますけど……」

「特に値打ちのあるものではないので、お気になさらず」


 そう言われると無碍に断るのも悪い気がしたのか、メイは素直に受け取った。そのペンダントを矯めつ眇めつしてから、車椅子に座っている母の首にペンダントをかける。


「お似合いですね」

「うん、お母さん似合ってるよ」


 きらりと光を反射する装飾品に、メイは目を細めた。

 しばらく見とれているあいだに、オーブンがチンと音を立てる。


 オーブンを開けると、熱気とともに甘い香りがもわりと立ちこめた。できあがったクッキーを皿に盛っていく。トレーが三つ入る業務用のオーブンで、そのすべてに生地を載せたため、皿は瞬く間にクッキーでいっぱいになった。


「ほら~、お母さん。シナモンのいい香りでしょ~」


 その皿を、メイは母がいるテーブル席へ運んだ。


「ちょ……作りすぎじゃねぇのか」


 どっさりと盛られたクッキーに気圧されつつ、アーロンが再度飲み物の準備に取りかかっていたヴォルフガングへ声をかける。


「そろそろ使わないといけない小麦粉が余っていたので、ついでにと思いまして」


 だからといってこんなに焼くか、と思ったその表情から察したらしい。


「クッキーなら持って帰るのも簡単ですから。アーロンさんもどうぞ」

「いや、俺は……匂いだけで充分だ」


 店内は瞬く間にシナモンの甘い香りでいっぱいになった。特に空腹でもなかったため、アーロンは小さく首を振って遠慮する。一方、メイはさっそく焼きたてのクッキーに舌鼓を打っていた。

 急に挟まったアクシデントを上書きするように、母親と一緒にアフタヌーンティーを楽しんでいるうちに、ふと店内の壁にかかっている時計が目に入ったのだろう。


「わ、もうこんな時間」


 母親の介護があるファレル家では、家事に裂く時間が長い。そろそろ、帰宅して家のことをしなければならない時間になってきていた。


「もうちょっとゆっくりしたかったんですけど、そろそろおいとましますね。マスターさん、お電話お借りしてもいいですか?」

「かまいませんよ」

「お母さん、タクシー呼ぶからちょっと待ってね」

「あぁそれ、呼ばなくていい」


 母に声をかけてから、キッチンの隅にある電話へ手を伸ばそうとするメイに、アーロンが口を挟んだ。首をかしげている彼女をよそに、ヴォルフガングへ話しかける。


「マスター、ドライグ借りるぞ」

「どうぞ」


 ふわりを宙を舞った車の鍵をキャッチして、メイのほうを向く。


「タクシーより狭いが、送ってやる。俺も暇だしな」


 先ほど避難のために使った木造の扉の反対側には、スチール製の扉があった。押しひらいた先に繋がっているのは、一台の車とバイクが保管されているガレージ。


 運転席の扉に赤い塗料で竜のペイントが施されている深緑のコンパクトカーが静かにたたずんでいた。とある舞台女優から〝ドライグ〟と名づけられたヴォルフガングの愛車だ。

 車のドアを開け、二人掛かりでメイの母を車椅子から車の後部座席へ乗せる。アーロンが母親を支えているあいだに、メイが速やかに反対側のドアから車へ乗りこんだ。あとはメイの指示でアーロンがたどたどしくも車椅子を折り畳み、トランクの中へ入れる。


 運転席のドアを開け車に乗りこもうとすると、助手席に一冊の黒い〝本〟が転がっているのが目に入った。悪魔のような恐ろしい顔が表紙に施されている装丁の本だ。


(見当たらねぇと思えばこんなところに)


 いつもならヴォルフガングの定位置であるキッチンの棚に、占いの本などと一緒に挟まって置かれているのだが、そういえば今日は目に入らなかった。前に車を借りて連れだしたときから放置しっぱなしだったのか、思い返そうとしてみるが記憶は判然としない。が、どうでもいいかと思いなおし、そのまま車に乗りこんだ。幸い、黒い本もしばらく魔力の供給がされていなかったからか電池切れらしく、いつものように弁舌を振るうことはなかった。


「ちょっとびっくりしたけど、来てよかったね。クッキーと、お守りまでもらっちゃったし。またお邪魔させてもらおうよ、今度はお父さんも一緒に」


 後部座席では、メイが楽しげに母親へ話しかけている。彼女はふいに〝それにしても〟と口をひらき、運転席を見遣った。ルームミラーを介して、ふたりの目が合う。


「運命の逆位置、でしたっけ? 外からアクシデントがやってくる、って。すぐに当たっちゃった感じがして、ちょっと肝が冷えたなぁ」

「これで終わりって考えれば、あとは運勢も上向いていくだけなんじゃねぇか」

「たしかにそうですね! 結局占いなんて、本人がどう解釈するかですもんね」


 そう言って、メイは朗らかな笑みを浮かべた。

 そのまま北に向かって走ること、数十分。


「着いたぞ」


 ロンドン北部の地区、ハーリンゲイ。その西側、とある住宅地の隅にぽつんと立っているファレル家の目の前で、深緑のコンパクトカーは停車した。

 車に乗ったときと同様、二人掛かりでメイの母を車椅子に乗せる。


「アーロンさん、ちょっと待っててくださいね」


 車椅子を押して自宅に戻ったメイは、すぐにひとりで外に出てきた。


「今日は本当にありがとうございました。母も喜んでます」

「またいつでも来るといい、マスターならいつでも歓迎してくれる」

「ありがたいです。母と一緒にお店に入るのは、気が引けることが多かったので……事情を知ってくれていて、受け入れてくれるだけで本当にうれしくて。思いきって相談に行ってよかったです」

「マスターが聞いたら喜ぶ。伝えとくよ」

「ペンドラゴンにお邪魔したのは、近年まれに見るあたしのファインプレーだったって言っといてくださいね!」

「わかったわかった」


 ニカッと白い歯をこぼして眩しい笑顔を見せるメイに、アーロンもつられて小さく笑った。


『なんか、気に食わねぇな』


 ふたたび自宅に戻るメイの背を見送っているさなか、耳もとで不快な機械音声のような声が響いた。ピクリと顔を引きつらせ、視線を横に流す。

 隣に浮かぶは、表紙に悪魔のような恐ろしい形相の装飾が施された黒い魔導書。


「お前、いつから起きてやがった」

『おいアーロン、さっさと帰るぞ。ここは胸焼けがする』


 問いには答えず、黒い魔導書ザミュエルはふわりと車の中へ舞い戻った。その意味が掬えず、アーロンは車のルーフに手を遣って、車内を覗きこみ眉根を寄せる。


「どういう意味だ」

『マズいメシを前にしてる気分だってことだよ』


 ため息を吐くように小さく身を揺らしてから、ザミュエルはぱたりとシートに転がった。結局意味の分からないことを口走っただけの黒い本に不快感を示しつつも、アーロンは車に乗りこみこの場をあとにした。

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