33. ガラル・セクエンティア - Galar Sequentia -
ロンドンの中央部、シティの東方にあたる地区、タワーハムレッツ。
南部を流れるテムズ川に近いところに、その喫茶店はある。
喫茶ペンドラゴン。
黒を基調としたシックな内装。細長い店内にはテーブル席が縦に三つと、キッチンに対面するにカウンター席。業務用の冷蔵庫や食器棚のほか、コーヒー豆や茶葉といった材料が置かれている棚には、分厚い本や水晶、なにに使うのかわからない装飾品らしきものといった、一見喫茶店には必要なさそうなものまで並べられている。
店の中では、店主であろう大柄な男がひとり、有線から流れるクラシックに耳を傾けながらカウンター席で新聞をひらいていた。
すでに開店時間を過ぎているが、客はひとりもいない。
立地の問題か、もともとそこまで繁盛している店ではないため、特に珍しい光景ではなかった。
カランカラン。
入退店を告げるドアのベルが鳴る。
「いらっしゃいま――あぁ、アーロンさん」
「仕事、終わらせてきたぞ」
開口一番、店に入ってきた男は懐から写真の束を取りだした。
暗い金髪を掻きあげただけの髪型と、無造作に顎を覆っている髭。相変わらず外見に無頓着な彼は、いつもどおりコーヒーを注文してからカウンターに着席し、そして写真を並べはじめた。彼、アーロン・アローボルトが先日訪ねたファレル家で撮り、写真屋で現像してきたものだ。
「これはたしかに、ガラル・セクエンティアですね」
コーヒーの抽出を待つあいだ、ヴォルフガングはそのうちの一枚を手に取り、紫色の花を見て頷いた。次に、白い花の写真に目を移し、感嘆の声をあげる。
「この花は、もともと紫色なんですよ。真っ黒なガクが発達していて、花ひらく寸前まで蕾を包みこんでいるので、咲いてみるまで中の色はわかりませんが、まれに白い花弁のものが生まれまして。その中でも魔力を宿したものが特に月の雫と呼ばれます」
「白くなれば月の雫ってわけじゃないのか」
「そうですね。加えて、白い花弁のガラル・セクエンティアは高確率で生殖不全になるようで、継代も難しく、月の雫が幻の花と言われている所以はそこにあります」
それに、とヴォルフガングは話をつづける。
「ただ珍しいだけではなく、白いガラル・セクエンティアが月の雫になるには月の光が必要になると言われているので、単純に育てるのも面倒だと思います」
「そういや、そんなこと言ってたな」
先日、ファレル家へと招かれ、流れで主人に取材をする羽目になった際。彼は妻への想いを話したあと、月の雫について少し話をしてくれた。
ガクが膨らみはじめてから花が咲くまで太陽光に晒さず、月光だけで育てる。そうして白い花が咲くと、良質な触媒や供物になる月の雫になると、月を雫を知るきっかけになった魔術書には記されていたらしい。
「それなら、彼女の父君は月光の重要性をご存知なのですね。ということは、ロンドンで月の雫を得ることは難しいということもわかっているかもしれません」
「どういうことだ?」
「単純な話です。今はもう夜が短いでしょう。花が魔力を得るだけの月光を浴びることができない」
ただの月光にそんな力があるのか、その信憑性ついてはとりあえず脇に置いて、なるほど、とアーロンは首肯した。
それならば夜が長い冬はどうか、という考えにもなるが、ロンドンは悪天候の日が多い。冬になるとなおさらだ。降雨とまではいかずとも、常にといっていいほど曇りの日が多く、月や太陽の顔を拝めること自体が珍しい。ロンドンという立地そのものが、月の雫という花を育てるのには向いていない土地柄だということになる。
「もともと中東が原産の花なので、気候の違いから、普通に育てるだけでも気を遣うと思います。それでも月の雫に頼ろうとするのは、それだけの想いがあるのでしょうね」
「俺からすりゃ、ますます胡散臭い花にしか思えねぇけどな。月の光だってもとをたどれば太陽光だろ。その白い花を持ったまま飛行機に乗って、ずっと夜の地域を飛んでれば魔力が宿るのかよ、って話だ」
「そう怒らないでください。あくまで伝承の話ですので」
自覚はなかったが、アーロンの皮肉めいた口調は、どこか
「月ははるか昔から人類を魅了してきた天体です。それこそ、太陽より月を重要視する時代、地域もありました。もしかしたら、月光は月を経由しているからこそ、太陽の光とはまた違った性質を帯びているのかもしれません」
コトリ、とコーヒーのカップがカウンターへ置かれた。
「マスター、前々から思ってたんだが」
「なんでしょう」
差しだされたカップに落としていた視線を、対面のヴォルフガングへ向ける。
背も高く厚みのある身体と、顎を覆うリンカニックな髭。彫りも深く、妙に鋭く感じられる眼光。初対面の人なら確実に威圧感を覚えるだろうその外見。一言で言って、喫茶店の店主には見えない。
「そのナリで意外とロマンチックなことを言うよな」
普段からあまり表情を変えないヴォルフガングが珍しくニヤリと笑った。
「お褒めに与り恐縮です」
(いや褒めてるわけじゃねぇんだが……)
半ば呆れた表情でカップに口をつける。
「それで、アーロンさん。花ではなく、奥様のほうはどうでしたか?」
あぁ、と頷く。
「俺はあんまり見てないんだ。流れで旦那の取材をすることになって。ただ、警部がリード先生を呼んでて、先生が言うには原因不明。いやな感じすらしないって言ってたが」
「そうですか。先生までそうおっしゃっていたなら、悪魔が憑いているわけではなさそうですね。それどころか、魔力が蝕んでいる様子もないと」
「仮に、その月の雫とやらが完成して、魔術を行使したとして、思うとおりの結果が得られるのか」
「どうでしょう。伝承では強力な触媒となりうる花ではあるので、悪魔の仕業であるならば、なにかしらの効能が期待できるのではと思っていましたが」
ラファエル・リード医師が言っていたことを信用するなら、ヴォルフガングの目算は外れたということになりそうだ。
「ただ、月の雫はアスタロトが好んだ花だとされているので、その力を借りることができれば、もしかしたらということはあるかもしれません」
高名な悪魔だ、とアーロンは思った。
だが、実際に悪魔が現れたところを目の当たりにしたことがない身からすると、供物を捧げて魔法陣の中に悪魔を召喚する、というようなことが現実に可能なのかと訝る気持ちも湧いてくる。
わざわざ確かめようという気にはならないが。
「要は花に魔力が宿ればいいんだよな? 例えば俺が魔導でどうにか、とかできないか」
「難しいですよ。ただ魔力をぶつけても、対象に魔力が宿るわけではありませんし。そもそもアーロンさんはそういう、細かい力加減は不得意でしょう」
「う……」
「それに、月光を浴びせて育ててこその月の雫です。悪魔が喜ぶ供物にはなりえないでしょう」
それすらも見抜けない悪魔なら、呼びだしたところで大した力は望むべくもありません、とヴォルフガングはあっさり切り捨てるような台詞を口にした。
「なんにせよ、俺たちの出る幕はなさそうか」
ふぅ、と小さく息を吐く。
月の雫らしき白い花の実物もなく、悪魔が引き起こした事態でもないということになると、
「そうですね、ネルさんに協力を仰ぐ必要もなさそうです」
「それは本当にしなくていい」
なにかあれば例の舞台女優にも声をかけるつもりだったらしいヴォルフガングに、アーロンは思わず身を震わせ首を振った。
ちょうど、店の入り口に目が向く。
扉の外に人影があることに気づいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。