32. 月光 - Moonlight -

 まず口から漏れたのは、大きなため息だった。

 思っている以上に、疲労が溜まっているらしい。研究室と化している小屋にいるときに宅配便が来てしまい、慌てて応対したとはいえ、そのまま大事な研究室の鍵を閉め忘れたまま外出してしまうとは。


 簡素な木の椅子に座り、うつろな目でずらりと並んだ植木鉢を見つめる。


 妻の介助や仕事をしているとき以外は、もともと倉庫だったあばら家を改装した研究室で過ごしていた。

 最近は就寝すらも母屋に戻らず、小屋の隅に作った、板を組みあわせただけの簡素なベッドに敷いた布団に潜りこむことが慣例化している。夜のあいだは、妻のことは娘に任せっきりだ。


 家族の人生が一変して、もう五年になる。二年ほど前から、妻は自活能力を失い、ひとりでは簡単なこともできなくなってしまった。

 なにも手をこまねいていたわけではない。できることはすべてやってきたつもりだった。医者を頼り、民間療法を頼り、果ては教会まで頼った。それこそ、娘に負担をかけてまで。だが、妻の症状は緩やかに、だが確実に悪化の一途をたどっていた。


 打つ手がない、と絶望に暮れた。

 娘が口にした、天使が母に降り注いだという言葉を思いだした。もしそれが本当なら、人を守護するはずの神の御使いが、人に害を為したということになる。

 それは、彼の信仰を根底から覆しかねないことだった。

 我々家族にこのような試練は必要だったのか。

 世界を呪いさえした。


 そんなときだった。

 仕事の伝手で、アラム語で書かれた魔術書の翻訳を頼まれた。魔術書という胡散臭い代物にためらう気持ちはあったが、仕事だと割りきって翻訳に着手し、そしてこれが彼にとって一筋の光明になった。ヘブライ語が専門であるため翻訳に苦労したが、同じセム語系ということもあり共通点も多く、なんとか依頼を完遂。そして、その魔術書の中に記されていた、月の雫という花に目が留まった。


 この花を材料に用いた魔術は、死者をよみがえらせ、どんな病もたちまち治してしまうほどの力がある。また、とある悪魔が好み、この花を供物に呼びだせば、どんな願いも叶えてくれる。

 そういったことが書かれていた。


 最後にすがってしまう代物としては、自然な流れだったのかもしれない。


 現実にある花の種類だと知ってからの行動は迅速だった。原産地である中東から株を取り寄せ、自力でも継代をし、棚いっぱいの植木鉢が並ぶ光景ができあがった。

 しかし、本にある月の雫はいまだに完成していない。白い花は何度か手に入れたものの、それを素に魔術書にある手順を踏んでも、妻を助られると確信するほどの効力を得られたことはない。


 時間がかかる花の育成だけにとどまらず、空いた時間は魔術書を読みふけり、目についたほかの魔術も試してきた。しかし、めぼしい効果が表れたことはなく、いまだに魔術が本当に有効なのか、その確信は得られていない。

 ただ、医療も頼りにならない今、オカルトやスピリチュアルなものに縋るという考えしか浮かばず、それを実行に移してきた。


 口から漏れたのは、大きなため息だった。

 差しこんだ光明が、少しずつ細くなり閉ざされていく感覚を、ジェイコブ・ファレルは抱いていた。



      × × ×



「うぅん、まさかの展開になってきましたね」


 ファレル家の周りにある林の陰に、ふたりの男女がいた。

 男のほうは金の十字架やバラの刺繍があしらわれた白いタキシードとシルクハットに身を包み、片眼鏡モノクルを身に着けている。男の対面に立つ女は、豊満な胸をこれでもかと強調する、オフショルダーのドレスに身を包んでいた。耳には燐灰石のピアスが揺れている。


「器にしたいだけなら、わざわざ隠れて見守るような真似をしなくてもいいんじゃなくて?」


 女がつまらなそうに口をひらいた。


「特別、器にしたいというわけでもありません。あんな状態の人を使ったことがないので、予測がつかないんですよ」


 タキシードの男は、ちらりとファレル家の母屋に目を遣る。


「今は素人が古い魔術に手を出して、どうなるかのほうに興味がありますし、なにより、医者も匙を投げた妻を、なんとしても救おうとするその姿勢。愛の結晶たる私としては、行く末を見守りたいと思わざるをえません。魔弾の射手まで関わってくるのは、少し予想外でしたが。それでこそおもしろいとも言えます」


 大げさな身振り手振りを交えつつ、滑らかに舌をまわし、くつくつと喉の奥で笑い声を響かせた。そして、思いだしたように顔をあげる。


「そういえば、彼にお会いしていたのでは」


 ほんの一瞬、静寂が訪れる。

 小さなため息をひとつつき、女は頷いた。


「えぇ、偶然、、ね」

「どうでした?」

「どうと言われても……そうね、ひとつおかしなことがあったわ」


 カクン、と男は首を傾げた。


「彼、邪悪の樹を知らなかったみたい。例のタトゥーと言えばひどく反応を示したけれど」

「それが邪悪の樹だとは、知らなかった」

「えぇ」

「たしかにそれは妙ですね。あのしるしと邪悪の樹が結びつかないわけはないと思いますが」


 まさか生命の樹だと思っているのか。いや、もしそうだとしても、生命の樹を知っているなら、自然と邪悪の樹についても知ることになるはずだ。

 二、三度顎をこすり、視線を宙に這わせてから、男はニヤリと笑みを浮かべた。


「やはり、私の予想は合っていたのかもしれません。彼に忠告してさしあげましょうかね」

「その必要はないわ」

「というと?」

「私がやっておいたから。復讐は独力で達成するべき、って。彼への激励も兼ねた、いい助言でしょう?」


 ほう、と感嘆の息が漏れる。


「あなたも意地の悪い人だ」


 彼女が先手を打っていたとは思わず、少しばかり面食らった男だったが、すぐに満面の笑みを浮かべ、パチパチと仰々しく手を叩いた。


「ついでにもうひとつ。こちらの調査はどうでした?」


 さっと拍手をやめ、今度はファレル家の庭の隅にある小屋へと視線を移す。


「おもしろいことは特にないわ。彼が月の雫に至った経緯だけど、とある古物商が翻訳を依頼した魔術書の中に記されていたみたいね」

「古物商」


 男は思わず復唱してしまう。魔術書という言葉には、一切反応しない。


「ほぅ、月の雫が記されている書となると相当古いか、コアなものに限られてくると思いますが。私とあの男以外に、そんなものを所有している好事家がいたのですね」


 やはり目をつけて正解だったと、男は内心で自画自賛した。これから先、傍観者に徹したとしてもつまらないということにはならなそうだと実感する。


「それにしても、月の雫に注目するとはお目が高い。もっと手軽でわかりやすい魔術もあったと思いますが。壊れた精神を治すために、天の女王を頼ろうとするのは賢明な判断です」

「コウモリの羽とかのサルの手のミイラとか、現代人には手軽じゃないのよ。多少面倒でも植物に手を出すのは理解できるわ」


 感心した様子で語る男に、女は〝あなたとは価値観が違うの〟と釘を刺した。そして、小さく嘆息する。


「あなたが楽しそうで本当によかったわ。その息抜きに駆りだされる身にもなってほしいけれど」

「いいじゃありませんか。思った以上に、おもしろい方向へと転がっていきそうですしね」


 皮肉を交えた言葉も意に介さず、男は愉しそうな声色で返した。そしてもう一度、ファレル家の母屋へ視線を投げかける。


(それに、あの女性はどこか懐かしい感情を想起させる)


 今もあの女性は、庭のそばの窓際に横たわっているのだろう。嘆かわしいことだ、空っぽになった心を抱えるだけの容れ物になってしまうとは。

 憐憫のこもった表情を浮かべ、タキシードの男は踵を返した。

 数歩歩いて、パチンと指を鳴らす。

 瞬間、男がいたはずの場所には、影すらも掻き消えていた。



      × × ×



 オレンジ色のランプが、小さな研究室を照らす。

 部屋の隅の机の前で、ひとりの男が前のめりになりながら蔵書に視線を走らせ、熱心にペンを動かしていた。

 しばらくその状態で固まっていたが、丸くなった背中をほぐそうと伸びをしたとき、壁にかけている時計が目に入る。針はてっぺんをまわり、日が変わっていた。

 慌てて、そばにある赤いスイッチを押す。

 ヴゥゥン、という起動音とともに、天井を半分ほど覆っていた黒い暗幕がゆっくりと畳まれていく。

 黒い布に隠されていた部分は、一面の天窓となっていた。暗幕が除かれたことで、その下にずらりと並べられている植木鉢に月光が降り注ぐ。


 半月が綺麗な夜だった。

 月明かりに照らされる鉢植えは、幻想的な存在感を放っている。

 期待とも、諦念とも取れる複雑な表情で、ジェイコブ・ファレルは鉢植えを見つめていた。


 六月にもなると、ロンドンは日が長い。朝も早い時間に太陽が顔を出す。

 太陽が昇る前に目覚まし時計で目を覚まし、開け放っていた暗幕を閉める。窓もない小屋の屋内は、光を失い瞬く間に暗くなる。

 天井から吊り下げられているナトリウムランプを灯し、ずらりと並んでいる鉢植えに目を遣った。


 そろそろ咲きそうだと目をつけていた蕾の鉢が、白い花を湛えていた。それを見た瞬間、言いようのない高揚感に包まれる。

 嬉々としてすぐに白い花を摘み取り、急いで花の乾燥をはじめた。夜になれば充分乾くだろう。


 日課となっている鉢植えの世話を終わらせてから母屋へ戻る。娘が起きてくる前に、洗濯や朝食の準備など、朝の家事を行うのは彼の役目だった。


 今日はその前に、まずリビングの隅へと足を向けた。庭を見渡せる窓のそば、ベッド脇に置いている椅子へと腰をおろす。

 ベッドには、ひとりの女性が横たわっている。

 いつもと変わらない光景だ。

 穏やかな寝顔に、ひとまず安堵する。

 白い肌に、頬骨の浮いた顔。細くなった髪。テープで頬に固定されている鼻から伸びるチューブが、彼女の美しさを損なっているように思えてならない。


「今日はね、久しぶりに月の雫が咲いていたよ。今回こそ大丈夫だから、心配しないで」


 布団の下に手を潜りこませ、妻の手を握った。最低限の生命活動しかおこなっていない彼女の身体は、人形のように冷たい。

 当然、握り返してくることもない。

 反応を示さない妻の額を撫でてから、男はゆっくりと立ちあがった。


 朝の準備を終えてから、妻を起こし車椅子に乗せる。ダイニングまで移動させ、家族で食卓を囲むテーブルの前で停め、着席させた。


「今お茶を淹れるからね」


 妻が好んでいたダージリンを淹れ、彼女の前に差しだした。芳醇で豊かな香りがダイニングに漂う。その匂いにつられるようにして、ちょうど娘のメイが起きてくる。三人で朝食を囲むのは、毎日のルーティンだ。


 大学が夏季休暇に入った今、娘は勉強以外にも、アルバイトやボランティアなど課外活動に精を出している。

 外出する娘を見送ってから、リクライニングを作動させたベッドに妻を座らせる。彼女の鼻から胃に繋がるチューブに専用の栄養剤を取りつけ、ゆっくりと時間をかけて摂取させる。これが今の妻にとっての食事だ。

 喋れずとも、柔らかいゼリーやオートミールを口に運べば咀嚼し嚥下していたが、誤嚥の危険性を説得されて経鼻栄養摂取となった。

 幸い、不快感から自力でチューブを抜き取るような心配はなかったが、それは裏を返せば、彼女が刺激に対し反応を示さないということでもあり、病状の悪化をまざまざと宣告する事実でもあった。


 朝の介助に一息ついたあとは、本職である翻訳の仕事に従事する。基本的に書斎に缶詰で、部屋から出てくるのは妻の座位変更やマッサージなどの介助のときくらいだ。


 代わり映えのしない毎日。

 だが、今日はまだ気分がいいほうだ。

 時間を見計らって、仕事と介助の合間に外の研究室へと足を運ぶ。ちょうどいい具合に花の乾燥が終わっていた。

 小さな鉄製の皿の中で白い花弁をすり潰し、少量の水を加え撹拌する。さらに、完全に水分が抜けるまでに乾燥させたカエルの遺骸を細かく刻んだもの、麦の実、マンドレイクの根、クコの実を加え、砕きながらさらに混ぜあわせる。今までは、その中に術者の一部として爪の欠片や髪の毛を細かく刻んだものを足していたが、今回は意を決して、血液を注ぐことにした。息を止めてから、ナイフで指先を傷つける。微かな痛みとともに、裂けた皮膚から赤い血が滴った。みるみるうちに、試験管内が赤く染まっていく。


 それを火のついたアルコールランプにかざし、水分を飛ばす。皿の上でドロドロの液状だったものは、ボコボコと沸騰しながら固形物に変貌した。

 赤かった色が、炭のように黒くなり、そして炭化のごとく白っぽい色へ変わっていく。

 ここまでの鮮やかな変化は今までに見たことがなかった。

 はやる気持ちを押さえ、粘土のような物体に変わったそれを団子のように丸め、成形する。

 次に、一枚の羊皮紙を取りだした。四方三○センチほどのそれには、赤いインクで不思議な印章が描かれている。魔法陣のようにも見えるその印章の中心に、憑代となる人形を置く。多少デフォルメされてはいるが、動物を模したものではなく、正真正銘人の姿をした、キルト製の人形だ。

 その腹を裂き、団子になった供物を押しこむ。


 魔術書にあった呪文を書き写した一枚の用紙を手にし、ごくりと喉を鳴らした。


 唇が震える。

 いつになっても慣れない。魔術など、非科学的なことに執心している自分をあざ笑うもうひとりの自分が、心の奥底からほんの少しだけ顔を出す。

 それを強引に押さえつけ、目の前の印章と供物に集中する。魔術を行使しようとする自分が、魔術の真偽を疑ってかかるなどあってはならない。それはどんなに条件を整えたとしても、魔術の失敗を決定づけてしまうような気がするからだ。


 ゆっくりと、供物を餌に超常の存在を呼ぶ呪文を口にする。

 いやな汗が頬をつたった。

 ぼそぼそと唇を動かしながら、目の前の人形を睨みつける。

 電池やバッテリーなどなにも入っていない、単なる人形。急にその身体がビクリと跳ねた。そして、片腕がゆっくりと持ちあがる。


『が……グ……』


 喉の奥で鳴る嗚咽のような、低い音が人形から響いた。かすかに動くことはあれど、声を発することは今までになかった。そしてそれは、ゆっくりと宙に浮かびはじめる。


 これはいける、今度こそ。

 期待が大きく胸を打つ。

 月の雫は完成していたんだ、そう叫びたくなる気持ちが湧きあがる。


 現実にはありえない現象が、この小さな小屋で起こっている。


 それだけで、オカルトに傾倒する理由としては充分だった。

 古今東西の医療が頼れないとなると、もう奇跡に賭けるしか選択肢はなかった。そして、その奇跡を手をこまねいて待つつもりもない。神の御業でも、悪魔の所業でもなんでもいい。

 妻が元気になるのなら。

 また、家族三人で笑いあって過ごせるなら。

 妻の病状が悪化していく様を、ただ見過ごすことだけはどうしてもできなかった。


 ふわり、ふわりと宙を漂うキルトの人形。

 しかし、切なる願いもむなしく、それ以上の変化は見受けられないまま、人形は動力を失ったかのようにぴたりと動きを止め、コロリと地面に転がった。先ほどまで響いていた、不気味な低音も聞こえてこない。


「あ……お、おい!」


 慌てて人形をつかみあげた。上下左右に揺らしてみるが、人形はピクリとも動かなかった。ただ、だらりと手の中でうなだれている。


「なんなんだ! 成功したんじゃないのか!?」


 取り乱し小屋の中を右往左往するも、その叫びに答えてくれる者はいない。怒り、遺憾、いろいろな感情が混ざった握りこぶしを机に叩きつける。殴打の音がむなしく響いた。


「やはり、月光の力が……」


 震える手は、机上の羊皮紙をぐしゃりと握りつぶした。

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