31. 無感覚 - Numb -
「なにをしている!」
叫び声とともに、ひとりの男が血相を変え小屋へ飛びこんできた。
頬は痩せこけ、四肢も細く、両目は落ちくぼんでいるように見える。髪の毛が短く、ほとんど坊主頭といって差し支えない見た目から、第一印象を一言で言うなら、骸骨と表現するのがぴったりの人物だった。
「お、お父さん……」
メイが呟いた言葉に、男ふたりはぎょっとする。
「扉が開いているのに気づいて慌てて来てみれば……メイ、ここには入るなと言ったはずだ」
「ごめんなさい。鍵が開いてたから、閉め忘れたのかなと思って。泥棒でも入ってたら大変だから、確認だけ」
「…………」
厚意の結果だと伝えられれば、それ以上咎める言葉は思いつかなかったのだろう。代わりに、彼女の父親だという男は、濁った目をアーロンとノアに向けた。眉間にはシワが寄り、明らかに敵意をはらんでいることが理解できる。
(やっべぇ)
思わず目をそらしてしまう。
それがまずい仕草だとわかっていても、反射的に動いてしまった。
確実に不審者だと認知されてしまったとしか思えない。が、隣に立つモッズコートの男は堂々と、人当たりの好い笑みを浮かべながら、アーロンの肩に手をまわした。
「いやぁ突然お邪魔してすみません。お嬢さんとはバイト先の喫茶店で知り合いましてね。こちらで珍しい花を育てているという話を伺ったものですから。よかったら取材をさせてもらえないかと思った次第で」
ノアが一息つく瞬間に、アーロンの耳もとで〝名刺を出せ〟という小声が響いた。慌てて懐から、勤めている新聞社、ザ・タラリアの名刺を取りだし、そして手渡す。
「無理を言って、押しかけさせていただきました」
手渡された名刺に目を落としている彼女の父親に、ノアは丁寧に、だが相手につけ入る隙を与えないような物言いで話をつづけた。
「……芸能部の人が、植物について取材を?」
「それは……」
胡乱げな視線を向けられたノアは、アーロンを見遣った。ノアの詰めの甘さに内心呆れつつ、アーロンは口をひらく。
「他部署の応援みたいなもので」
「そう、それです!」
適当に繕った言葉を信用したのか、はたまたこれ以上の問答を嫌ったのか、メイの父親はポケットに名刺を仕舞いつつ、大きなため息をこぼした。
「とにかく、出ていってくれないか。ここは大事な部屋なんだ」
「じゃあ、母屋で。お話を聞かせていただけませんか」
ノアはもう一度ニッコリと、屈託のない笑顔を彼に向けた。
とりあえず、小屋に勝手に足を踏み入れたことに関しては一時しのぎで乗りきることができたが、その代償として、ノアがとっさに放った言葉に流され、アーロンは記者としての役割に従事せざるをえなくなってしまった。
メイ・ファレルの父に案内され足を踏み入れた母屋の一室は、大きな本棚とぎっしり詰まった蔵書が目を引く書斎だった。
これが全部魔術書だったら、と嫌な想像をするアーロンだったが、本の多くはヘブライ語やアラム語、アラビア語など、中東地域で使われている言語に関する蔵書だった。採光用の窓際に置かれている机には、書類と平積みされた本の山ができており、今にも雪崩を起こし倒れてしまいそうな緊張感がある。
「つまらない部屋で申し訳ない。翻訳の仕事をしているもので」
いかにも文学的な内装に、うへぇ、と内心で拒否反応を示していると、背後から声がかけられた。心を見透かしたようなその言葉に、アーロンはビクリと肩を震わせ振り返る。メイの父が、ふたつのカップを手にして書斎へ入ってきたところだった。
「あぁいや、なかなか目にする機会がないので、勉強になります」
あからさまに取り繕った言葉が口から出る。が、彼は気にも留めていない様子で、アーロンに着席を促した。
「紅茶とコーヒー、どちらでも好きなほうを」
「恐縮です」
コトリ、と置かれたふたつのカップを前に、アーロンは頭をさげた。
「それで、話が聞きたいということだが。あの花についてあなたは知っているのか」
来た、とアーロンは生唾を飲んだ。
取材をしたい、という建前で乗りこんだ以上、下手なことは口にできない。取材をするなら、事前にある程度下調べをしてしかるべきだからだ。だが、まさかこんな展開になるとは思っていなかったアーロンは、月の雫という花について、喫茶店でヴォルフガングが言っていたことしか認知していない。
ほんの少しだけ逡巡して、口をひらく。
「えぇ、まぁ……
「それは、伝承にある花だ」
まずは軽く雑談から、というつもりで花の名前を口にしたが、対面に座るメイの父の口から出たのはため息だった。瞬時にまずいと判断したアーロンは、半ば自暴自棄に話をつづける。
「魔術的価値が高く、死者をよみがえらせるほどの力を持つとされ、魔術師たちはこぞってその花を追い求めたと」
持っていた数少ない情報を一気に吐きだした。
本当なら、相手から上手く話を引きだして付け焼刃の知識にして、話題の種に使いまわそうと考えていたのだが、もうその手も使えない。
ちらりと一瞥した父親の顔は、面食らったような表情だった。感心したのか呆れたのか、どっちに転んだのかわからない。
一瞬が長く感じる時間だった。
「そういった話もいける口なのか。意外だ」
「いや、そこまで知識があるわけじゃないが……少なくとも、そういった話を否定する気にはならない」
今までずっと強張っていた父親の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。少なからず、目の前にいる記者を名乗る男は、あの花を研究していることについて、否定や無理解を突きつけるような輩ではないと認識したらしい。
紅茶の入ったカップに口をつけてから、窓の外に視線を向ける。
まばゆい太陽の光に、彼は目を細めた。
「妻のためなんだ」
そう、ぽつりと呟く。
「八年も前のことになる。病気知らずだった彼女が、娘と外出中に倒れてね。意識はすぐに戻ったが、医者に診てもらっても原因はわからなかった。しばらくは特に問題もなく、あまり心配していなかったんだが、少しずつ物忘れをするようになった。予定や約束を忘れるだけじゃない、物の名前や人の名前、料理の仕方や靴紐の結び方まで、あらゆることがわからなくなっていった。それでも医者が言うことは、脳の機能が弱まっているとしか考えられないが、原因はわからないの一点張りだった」
カップの中の、透き通った紅茶に視線を落とす。骸骨のような顔が、水面に反射して映った。
「医者を責めているわけじゃない。珍しい症例として、たくさんの医者が彼女を診てくれた。医者からすると研究という意味合いのほうが大きかったかもしれないが、無償で調べてくれたことは、私たちにとってもありがたかった」
だが、と彼は歯噛みするように表情を歪ませた。
「妻の病状はひどくなる一方でね。今はもう、外部の刺激にほとんど反応を示さないようになってしまった」
「……もう頼れるものはあの花以外にないと」
「馬鹿馬鹿しいと思われるだろうが、私たちなりにいろいろと手を尽くしてきた結果なんだ。民間療法や東洋の医学にも頼ってみたが、少しも好転しなくてね」
重いため息が漏れる。
半開きになった唇が、ピクリと震える。
「口には、したくないんだが」
彼にとって、その先の言葉をつづけるのは、大きな力が要ったことだろう。
「妻は、もう長くは」
「言うな!」
力ない声を遮って、鋭い声が書斎に響いた。メイの父は目を丸くして顔をあげる。
「いやっ、すまない。ただ、もういい」
反射的に大声をあげてしまったアーロンは、慌てて謝罪を口にした。そして、その先の言葉を言う必要はないと言い含める。言霊を信じるほど信心深いわけではない。だが、わざわざ口にしなくてもいい言葉はある。
彼は少しばかり驚いた様子だったが、やがてぎこちなく、小さな笑みを浮かべた。もう一度、窓の外を見遣る。
「あの花は、私にとって最後の希望なんだよ」
目を細めてつぶやく彼の言葉と声色には、付け入る隙のない、ある種の狂気のようなものが感じられた。そんな迷信じみたことを信じるのはやめろと言われても、聞き入れるような段階はとうに過ぎているのだろう。それがたとえ娘からの言葉であったとしても。
なんとなく、アーロンはそう思った。
一応、記事のための取材という体裁をとっているため、月の雫という花そのものについても彼から手ほどきを受け、手帳に書き留めた。記事のために自分のほうでも月の雫を調べてみるつもりであること、なにかわかれば連絡することを伝え、取材を終了する。
書斎を出てリビングに戻ると、ノアとメイが母親のベッドのそばで楽しそうに談笑していた。ノアはいつも持ち歩いている娘の写真を見せびらかしている。
「ずいぶん楽しそうだな」
「おっ、取材は終わったのか?」
「おかげさまでな。いい時間を過ごせたよ」
「おう、そりゃあよかったな」
皮肉を込めたつもりが、ノアには伝わらなかった。
「メイ。父さんは離れにいる。お客様をあまり引き留めないようにな」
「……うん」
バタンと玄関の扉が閉まる音だけが、いやに響いた。
「それじゃあ、親父さんも迷惑そうだったし。俺たちはそろそろお暇しようかね」
「わざわざ、本当にありがとうございました。なんというか……父が、すみません」
「いやいや、嬢ちゃんが気にする必要はないよ。俺たちが強引に押しかけたようなモンだし」
(俺は乗り気じゃなかったけどな)
ノアの〝俺
「なにか気になることがあったら、ペンドラゴンに連絡をしてくれ。マスターならずっと店にいるから」
なにかわかったことがあったら、マスターのほうから連絡させることも言い添えて、ふたりはファレル家をあとにした。玄関を出、道路に停めている車まで歩いている最中、先行していたノアがくるりと振り返る。
「で、どうだったんだお前の見立ては? 奥さんのこと」
「案の定、なにもわからなかった。俺はそういうの、見破れたことがないんだよ。悪魔が憑いてるかどうかなんて」
「それでもさ、変な感じがするとか、なにかあるんじゃねぇの」
「警部はなにか感じるものがあったのか?」
「いや」
「俺も一緒だよ」
魔力の機微に敏感な者なら、悪魔憑きかどうかの判断をくだせることもあるらしいが、いかんせんアーロンはそのような超感覚を有してはいなかった。アーロンが他者を悪魔憑きだと断定できるとすれば、相手が超常的な力を発現した瞬間だが、そうやって自らを誇示するほど、思いあがった悪魔は珍しい。
大抵は、憑かれた人が気がつかないように、ゆっくり静かに侵蝕し宿主の精神を壊していく。ほとんどの場合、悪魔が顔を出すのは、自我の乗っ取りが終わってからだ。それも確実ではなく、乗っ取りが済む前に人間の自我の強さに負け、宿主から退散する者も多いらしい。
「それより、警部のアテも外れたな」
「アテ?」
ノアがきょとんとした顔をする。それを見て、アーロンはずっこけそうになった。
「月の雫がヤクの隠語かもしれねぇってことで来たんじゃなかったのかよ!」
「あぁ、いや! 馬鹿、なにもしょっ
ノアは大げさに胸をなでおろす仕草をしてから、
「少しでも力になってやれればよかったが、そうもいかないな」
と、残念そうにつぶやいた。
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