30. ファレル家 - Farrell family -

 ロンドンの中心部、世界に誇る金融街であるシティ・オブ・ロンドンと、文化、芸能、商業の中心地、ウエストエンド。そのの境目あたりの、テムズ川にほど近い場所に、ホワイトシープはある。

 デフォルメされた白い羊のイラストが目を引く看板の喫茶店だ。木材の温かな雰囲気と、観葉植物の緑が映える店内で、会話を交わすふたりの男女がいた。


「そうか、それはよかったね」

「うん、ありがとうマスター」


 ホワイトシープの老店主と、アルバイトのメイ・ファレルだ。

 閉店も近い今、客は誰もいない。店主は洗い物、メイはモップを手に店内の掃除を行いながら話をしていた。


 先日、メイがペンドラゴンに立ち寄ったのは、店主からオカルトに詳しい喫茶店があるという話を教えてもらったためだった。店主がペンドラゴンについて知っていたのは、彼が喫茶店のオーナーをしているだけにとどまらず、喫茶店巡りを趣味としているからだろう。そして、彼がメイの家庭環境を知っているからこその助言だった。


「それで、今日は先方のかたと待ち合わせなんだね」

「うん、うちに来てくれることになってるの」


 今まで、家のことは店主にしか話すことができなかった。大学の友人たちに、家庭の、しかも重い話を吐露する気にはなれない。しかし、父が魔術書を収集するようになってからは、今まで話し相手になってくれていた店主に相談しても、手に余るという事態に陥ってしまっていた。


 彼を困らせるくらいならと、メイはホワイトシープでもあまり家庭のことを口にしなくなった。しかし、それはそれで店主を心配させていたのだろう。彼はペンドラゴンという喫茶店をメイに紹介した。


「それなら、もうあがってもいいよ」

「大丈夫、ここまで来てくれることになってるから」


 その言葉に応えるように、ちょうど店の扉がひらいた。中に入ってきたのは、深緑のモッズコートに身を包んだ大柄な男。


「おっ、いたいた。嬢ちゃん、迎えに来たぞ」


 その男を見て、店主は怪訝そうな顔をした。彼はあいにくペンドラゴンに行ったことはなかったのだが、店に入ってきた男は、喫茶店を経営しているという風体には見えない。


「あなたが、ペンドラゴンという喫茶店のオーナーですか?」

「あぁいや、私は違います。代理というか、そんなところで」

「私が相談に行ったときに、マスターと一緒に話を聞いてくれたお客さんなの」

「そうそう、それ」


 メイの紹介に、モッズコートの男、ノア・ブレイディは笑いながらピッと人差し指を向けた。


「アーロンさんは、一緒じゃないんですか?」

「あいつももう来るよ」

「それじゃあ私、準備してきますね」


 メイがバックヤードにさがったことで、店内は沈黙が支配した。店主から突き刺さる怪訝な視線に、ノアはぽりぽりと頭を掻く。


「えー……不審者じゃないので、ご安心ください」

「あぁいえ、決してそういうわけでは」


 コホン、と店主は咳払いをする。


「まさか、彼女の話に親身になってくれる方がいるとは思いませんでした。あなたも、オカルト関係には詳しいのですか?」

「いや、私はそこまで。ただ、オカルトを否定する気はありません。それに、彼女の話を聞くとどうも、手助けできることがあればという気が湧いてしまいまして。最近、私も人の親になったからかもしれません」


 そう言って、ノアは照れたように笑った。


 バックヤードで帰宅の準備を終えたメイとホワイトシープの外に出る。店のそばの道路では、アーロンがエンジンを止めたオートバイにまたがったままタバコをふかしていた。


 ノアが運転する車が先行し、その後ろをアーロンのバイクがついていく。


 ――メイ・ファレルの自宅は、ロンドンの北部、ハーリンゲイの西側にある住宅地の一角だった。芝生で覆われた広い庭に、小さなバルコニーや小屋まで備わっている一軒家。白い木造の二階建てで、車一台ぶんの駐車場も完備している。ロンドンの外周にあたるグレーターロンドンとはいえ、住宅街で庭付きの戸建てを所有しているのは裕福な証だ。

 住宅地の中でも僻地にあたるのか、隣りあった住宅はなく、林の中にぽっかりと空いた空間に家が鎮座しているような風景だった。車や人通りが少なく、非常に閑静なところだ。人や車の往来が激しいセントラルロンドンと、本当に同じ都市の中なのかという感想が浮かぶような場所だった。


「広い家だな、豪邸だ」


 道路脇に停めた車から降りながら、ノアは感心した様子で口をひらく。後ろをバイクでついてきていたアーロンが、ちょうど到着したところだった。


「いえ、そんなんじゃ」


 助手席を降りたメイは謙遜しつつ、自宅へと向かっていった。

 一応、アーロンとノアは車のそばで待機する。


「お父さん、ちょっと外出してるみたいです。どうぞ、入ってください」


 玄関を開けたメイが振り返り、ふたりへ声をかけた。

 

「お邪魔しまーす」


 ノアが先に、つづいてアーロンがファレル家へと足を踏み入れる。

 靴を脱いでいるあいだに目に映った、玄関の壁にかけられている小さなホワイトボートに〝少し出てくる〟というメッセージが残されていた。いつ外出したのか、その時間までしっかり書き記されている。ほんの十五分ほど前に、メイの父親は外出したらしい。


 メイのあとにつづいてリビングに入ると、彼女はまず庭を見渡せる部屋の隅に足を向けた。窓のそばには大きなベッドがあり、ひとりの女性が横たわっている。鼻から伸びた一本のチューブがテープで頬に固定され、そのままそばにある点滴スタンドに引っ掛けられていた。床頭台まで置かれているため、リビングの中に病室があるような光景に見える。台の上には、タオルや時計などの他に、一冊のノートがひらいた状態で置かれていた。ノートには、自力では動けない母の座位を何時に変更したか、マッサージをどれくらいしたかなどの記録が細やかに記されている。父子で母の介護について共有するためのものだろう。


「お母さん、ただいま」


 メイは帰宅を告げてから、ベッドのリクライニング機能を作動させる。背を預けた状態のまま、母の上体が持ちあがった。庭のほうを向いていた母の頭を、娘が屋内に向ける。母の目には、娘のほかにふたりの男が映っているはずだ。


「こちら、ノア・ブレイディさんと、アーロン・アローボルトさん。立ち寄った喫茶店で知り合ってね、お母さんに会ってみたいって言ってくれたの」


 メイは母親の耳もとに顔を近づけ、声をかけた。

 アーロンとノアも、それぞれ入れ替わりに挨拶をしてみる。が、彼女からは一言も返ってこないどころか、頷いたり、口を動かしたりといったわずかな動きも見受けられなかった。


「本当に、反応しないんだな」

「前までは、少しは自分でも動いたりしてたんですけどね。物忘れからはじまって、口数も少なくなっていって、やがてベッドで寝たきりに。ついには反応も示さなくなりました」


 母の額を撫でながら、メイは目を細めた。


「でも、こんな風になったからこそ、どんなに小さな刺激でも大切だと思って。たくさん話しかけたり、車いすで散歩に行ったりしてるんです。でも、母が臥せってからは、うちに人を招き入れることもほとんどなくなりました。母は私と父、病院の先生以外、接している人がいなくて……だから、今日おふたりが来てくれて、それだけでありがたいんです。母にとってはいい刺激になるんじゃないかなと」


 そういうことなら、と元来人の好いノアが、ベッドのそばに置いてある丸椅子にドカッと腰をおろし、早速メイの母親にいろいろと話しかけはじめた。自己紹介から入って、数ヶ月前に娘が誕生したことまで嬉々として話している。

 当然、メイの母親から反応が返ってくることはないのだが、ノアはまったく気にしていないようだった。その姿を背後から見ながら、アーロンはかつての上官の対人能力の高さに、感心以上に辟易していた。もっとも、一方通行の語りを対人能力といっていいのかはわからないが。

 アーロンがそんなことを考えていると、振り返ったノアに〝お前も〟と声をかけられた。


「えっ、いや俺は……」


 いきなり反応の返ってこない人に語りかけろと言われても困る。ノアのように人に話せる自伝もない。


(俺の見たままって言われてもな)


 じっとメイの母を見つめながら、アーロンは内心で唸っていた。

 懇意にしている喫茶店のマスターから、彼女の母親の様子を見てきてほしいと頼まれここまでやってきたものの、やはり見ただけで診断を下せるような力はない。

 悪魔に憑かれ魔力を宿していても、悪魔憑きどうしが惹かれ合うような経験も、見ただけで判別できたためしもない。病だとすればどんな病なのか、もしくはなにか魔力に侵されこうなってしまったのか、どちらにせよアーロンにはさっぱりだった。


「八年前に倒れて、それから少しずつ記憶障害が顕在化したって話だったが。こんなふうになったのはいつぐらいからなんだ?」


 とりあえず、母親について聞いてみようとアーロンは口をひらいた。


「ベッド生活になったのは五年くらい前で、食事もひとりでは摂れなくなったのは二年くらい前ですね。ついに流動食も嚥下できなくなって、経鼻栄養になったのが一年前です」

「この状態で一年か……」

「いろいろ大変らしいよな。ヘタすると詰まったりして危ないっていうし、最近は胃に穴を開けて栄養を直接摂取する方法も確立されたって聞くけど」


 ノアが口にした話を聞いて、ノアは内心でぎょっとした。


「お医者様からも胃ろうを勧められたんですけど、父が、ちょっと渋っていて。経鼻栄養にしたときですら、なかなか首を縦に振らなかったんですよ。誤嚥の危険を説得されて、結局は納得しましたけど」


 鼻から管で栄養摂取している姿もなかなか受け容れがたいが、胃に穴を開けてそこに直接栄養を注入するというのは、いくら医者からの提案といっても、渋る彼女の父親の心情は理解できる気がした。


「でも、それも時間の問題かもしれないって、あたしは思ってます」


 ぽつりと呟くように、メイは口にした。

 母の病状は、緩やかではあれど悪くなっていく一方だということは彼女も理解している。家族としてひとつの覚悟が必要な瞬間が、もうすぐ目の前までやってきていることを彼女も自覚しているようだった。


 悪魔憑きといっても、射撃という権能しかないアーロンにできることは、

 娘のメイからただ話を聞くことくらいだった。

 医者が治せない症状をどうにかできるような力は持っていない。


「そういや、父親が月の雫とかいう花の研究をしてるって話だったが」


 母親のことはお手あげだ、とアーロンはメイに話しかけた。


「離れにある倉庫を改装して、研究室みたいにしてるんです。見にいってみますか?」

「勝手に入っても大丈夫なのか?」

「いえ……絶対に入るなって言われてるので、バレたら怒られると思うんですけど」


 バツが悪そうに苦笑するメイに、アーロンは眉尻を落とした。

 さすがに、はじめて訪れた家で、家主にいきなり雷を落とされるような真似はしたくない。


「私も入ったことがなくて、ずっと気になってるんですよ。ひとりで中を確かめる勇気がなかったから、結果として父の言いつけをしっかり守っていましたけど。今は月の雫について知ってくれているおふたりが一緒だし、お父さんもいないし、こんなチャンス二度とないかもって」

「そうは言ってもな……」

「おねがいします!」


 渋るアーロンはノアに視線を投げかけたが、ノアはノアで乗り気のようだった。結局、早くしないと父が帰ってくると聞かないメイに圧され、玄関に足を向ける。


 外に出ると、バルコニーの手すりに一羽のカラスがとまっているのに気がついた。とはいえ、それに気を留めることはなく、庭にある真っ黒な小屋へ向かう。

 斜めの屋根が特徴的で、もともと簡素な倉庫だったということで、窓すらない。そのため、外から中の様子は一切確認できなかった。ファレル家の自宅にある所有物に変わりはないが、小屋はブラックボックスのような存在と化しているように見えた。


 改装の結果、重厚なものに変わった扉に、メイが手をかけた。グッと引っ張ると、扉は鈍い音を立ててゆっくりとひらく。


「あれ、開いてる……お父さん、閉め忘れたのかな」


 いったいなにが姿を現すのか。

 ふたりが覚悟を決めて踏み入れた小屋は、まるで実験室のような様相だった。


 斜めになっている天井の中央には、ナトリウムランプがひとつ吊るされ、天井の右半分が黒い暗幕で覆われていた。また、壁に沿ってL字型に木机が置かれている。その上には、ノートやメモ用紙、筆記具、コンパスや三角定規などの道具類のほかに、分厚い学術書のようなものまで乱雑に積みあがっていた。机の下には大きな木箱が置かれており、鉈や金づち、のこぎりといった道具が乱雑にまとめられている。もともと倉庫だったというだけあって、その名残なのだろう。

 また、粗末ではあるが水まわりも完備されており、小さな流し台にはフラスコや試験管といった実験器具が水に浸けられていた。机のそばにある小さな本棚にも、古ぼけた装丁の本がぎっしりと詰まっている。


 そしてなにより、小屋の右側の壁に据えつけられた数段の棚。

 まるで上部からの光が下段までしっかり当たるように幅の長さをそれぞれ変えた設計になっているその棚に、大量の植木鉢が並べられていた。そのうち紫色の花を咲かせている鉢と、黒いガクに包まれた蕾を蓄えている鉢がいくつか見受けられる。蕾の鉢にはふたつほど、白いテープが貼りつけられているものもあった。


「あれ、白い花がないですね」


 大量の鉢を目に、メイが首をかしげた。


「白?」

「はい、父からは白い花の写真を見せてもらったんですけど」


 今一度、アーロンは小屋の中を見まわしてみる。

 机の上部、壁にかけられているコルクボードに留められている一枚の写真が目に入った。


「その写真って、これか」

「あぁはい、そうです。これです」


 一輪の白い花が収められている写真。花の形は、今咲いている紫色の花と同じだった。おそらく、色違いの同種、ということだろう。そして、植えられている鉢もこの小屋にあるものと同じだった。


「綺麗ですよね。見とれちゃった記憶があります」


 たしかに、メイの言うとおり、写真に収められている白い花は不思議と幻想的な雰囲気を湛えているように見えた。


〝白い花ですので、すぐにわかると思いますよ〟


 ヴォルフガングの言葉が思い返される。


「とりあえず、写真に撮ってもいいか? マスターにも見てもらいたい」

「はい、大丈夫です」


 携えてきた仕事用具を構え、アーロンはレンズを覗きこんだ。開け放っている入口の扉からしか採光できない薄暗い屋内にフラッシュが焼きつく。

 大量の植木鉢だけでなく、机の上、本棚の蔵書、そして白い花の写真まで、目につくものはひととおりカメラに収めた。


 三者三様に、小屋の中を散策していたそのとき。

 小屋の外からこちらに向かってくる足音があった。

 駆け足の音に気づいたときには、もう遅かった。

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