27. ペンドラゴン - Pendragon -
タワーハムレッツ。
ロンドンの中心であるシティの東側、テムズ川の北岸に位置する自治区のひとつ。シティとの区境にイーストエンドと呼ばれる下町を擁し、テムズ川沿いにあたる南部には、もともと造船所や水運に関する倉庫などが立ち並んでいた。
第二次世界大戦後、船舶の大型化やコンテナ化といった物流革命によって河川水運は衰退し、多くの建物が廃墟となった歴史がある。今は少しずつ再開発が進み、商業施設やアパートが増えはじめてはいるものの、元来の治安が悪い地域ということもあって、決して住みやすい、居心地のよい地区ではない。
そんなタワーハムレッツの南部にあたる、ラットクリフという地域に、彼の住むアパートはあった。
すっかり太陽も昇りきったころ。
あくびを噛み殺しながら、外出の準備を進めている男がいた。
ただ準備といっても、着替えを済ませ財布とタバコを携帯するだけで、数分もかからず玄関へ向かう。いつもなら整髪料を使いくすんだブロンドの髪を掻きあげて整えるくらいはするのだが、それすらもせずに外へ出た。
外では、ひとりの老婆が掃き掃除をしていた。彼女は外に出てきた男を見遣るや否や、表情を一変させる。
「あんた、また遅刻かい!」
鬼のような形相から、鋭い声が飛んだ。
「何度言ったらわかるんだい! 世間はリストラの嵐で、仕事は簡単に見つかるもんじゃないんだよ! 仕事は真面目にやりな! 次クビにされたら追いだすからね!」
キンキンと頭に響く声に圧され返事をしないでいると、追撃が何倍にもなって飛んできた。男の眉根が無意識に寄る。
「どうして警察を辞めちゃったのかねぇ。昔はいい男だったのに、今じゃ見る影もないよ」
眉間に深々とシワを刻み、頭に手を遣ったままこの場を去ろうとしたとき、嫌味のような呟きが男の耳に入ってきた。ピタリと足が止まり、反射的に振り返ってしまう。
「今日は休みだクソババアッ!」
振り返った手前引っこみがつかなくなり、喉まで出かかっていた言葉が滑って飛びだした。そのままドスドスと足音に苛立ちを込め、この場をあとにする。
向かう先は、自宅からさらに南。
歩いているうちに、暴れかかっていた腹の虫は徐々に鳴りを潜めた。いつものように、ぼんやりとした目でのろのろと歩く。あくびが何度も口から漏れた。
やがて、目的地であるテムズ川沿いにある喫茶店のスタンド看板が見えてくる。赤いペイントで竜を模したデザインが目を引く看板だ。
そのまま扉をひらき、挨拶を交わし、いつものコーヒーを注文する――と、うわの空で考えていると、視線の先で扉が勢いよくひらかれた。
「クソッ、絶対に潰してやるからな! 覚えてろよ!」
乱暴に開いた扉の中から、怒りをあらわにした男が飛びだした。店内に向かって捨て台詞を吐き、走ってこの場からいなくなる。
自分がこれから入店するつもりだった喫茶店での騒動に面食らいつつ、アーロン・アローボルトは店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいま――あぁ、アーロンさん」
入店を告げるベルに反射的に反応する店主だったが、入ってきたのがアーロンだと気づくと態度を軟化させた。
「どうしたんだ? 今の客」
「人探しを依頼されたのですが、結果を濁していると激昂されまして」
そう言って、店主は困ったように笑った。
一九十センチメートルを超える大柄な体躯に、髪型は伸びた赤毛を後ろで結わえたポニーテール。短めのリンカニックなラウンド髭を蓄えた、見た目は他者を圧倒するような威圧感にあふれた男性である。言葉遣いこそ丁寧だが、声色は平坦かつ低音で、それが一層彼の迫力に凄みを与えている。服装は、光沢のあるワインレッドのワイシャツに黒いベスト。腰には黒いエプロンを巻いていた。
店に訪れる人の多くが彼をマスターとしか呼ばないが、ヴォルフガング・フォン・ガーテンベルクというドイツ系のいかつい名前が本名らしく、名は体を表すという言葉どおりの風体である。
年齢について尋ねたことはないが、風格のある見た目に引っぱられて高く見積もっても四十ほど、妥当なのは三十代半ばくらいか。そして、この男こそが、アーロンの命の恩人であり、悪魔憑きとして生きていくための知識を与えてくれた人物だった。
「店のものを壊さん勢いだったのですが、警部がいてくれて助かりました」
ヴォルフガングは、対面のカウンター席に座っている男に視線を流した。深緑のモッズコートを着たその男が、アーロンにひらりと手を振る。
「警察手帳を見せるだけで逃げるような輩でよかったぜ」
刈りあげられた黒い短髪と、日焼けした肌。コートを纏っていても透けて見えるほどの筋骨隆々とした体躯は、武闘派であることを連想させる。また日本人とのクォーターらしく、どこか漂うアジアンテイストな面立ちも特徴的だ。
彼の名は、ノア・ブレイディ。
「もう捜索の占いは失せ物に限定すればいいと思うんだが」
ノアの隣に座りながら、アーロンは半ば呆れた感情を表に出した。
占い。
喫茶店には似つかわしくない言葉かもしれない。が、喫茶ペンドラゴンは軽食や飲料を提供する憩いの場としての顔だけでなく、マスターが占いまでやってくれるという一風変わった一面を持つ喫茶店だった。
種類はさまざまで、失せ物探しから人探し、恋愛運や仕事運といった運勢占いなども含め、半ば人生相談のようなことまでやっている。
その中で、人探しという依頼は少しややこしい。依頼者が全員、善人であるという保証がないからだ。なんでも快諾していると、知らぬ
それにしても、先ほどの男もヴォルフガングのことを単なる使えない占い師だと判断すれば、それほど怒ることもなかっただろうとは思うが。よほど切羽詰まっていたのか、もしくはそれだけペンドラゴンの占いを信用していたのか。
「やはりいろいろと手は広げておいたほうが、情報は集まりやすいので」
占いの内容を制限すればいい、というアーロンの言葉に同意を示しつつも、占いという
「そういえば、先日はお疲れさまでした。ネルさんから聞きましたよ、なかなかにハードだったようで」
「あぁ、本当に」
目の前に出されたいつものコーヒーに口をつけ、アーロンは大きく一息ついた。上質な苦味と芳醇な旨味が、全身に染み渡る。
「
ヴォルフガングはこれを集め、人に悪影響を与える物品を管理しているとのことだった。アーロンが所有している――正確には、ヴォルフガングから貸与されたようなものだが、悪魔の人格が宿ったあの黒い〝本〟も、
ウエストエンドにある劇場を拠点としている劇団、ゴールデン・ドーン・シアターズに所属している舞台女優、ネル・ゴールドウェルも古くからの知り合いであるらしく、アーロンが悪魔憑きになるより前から、彼の協力をしているらしい。
アーロンからすると、助けられた恩義に報いるというよりは、悪魔憑きや
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