26. 魔弾の悪魔 - Teufel von Freikugel -
雨が降っていた。
移送された病院をあとにし、茫洋としたまま歩く男を大粒の雨が濡らしていた。
平静、鷹揚、沈着。
そんな言葉は、男の辞書から掻き消されていた。冷たい雨をもってしても、頭は冷えない。肚の中を、ドロドロとした得体の知れないものが蠢いている感覚だった。身体はそれを吐きだそうと反射的に嘔吐するが、すでに口から出てくるのは、酸っぱい胃液だけになっていた。汗も涙も鼻水も、糞尿ですら、身体から出るものはすべて出し尽くしたような気さえする。それでも、肚の奥底で蠢く不快感は拭えなかった。
ただ、ふらふらと。
道しるべを失ったように、男は行く宛もなく歩いていた。
雨足は強まる一方だった。
ひとり、またひとりと、外を歩く人の数が減っていく。多少の雨なら気にしない英国人も、さすがに外を歩くのが億劫になるほどの雨だった。
そんな状況でも、男は濁った目で徘徊していた。短く整えられたブロンドの髪も、身にまとっているパジャマのような病衣も、しとどに濡れ見るも無残な姿に変わっている。無意識の内、タワーハムレッツの自宅近くまで戻ってきていたが、帰宅には至っていない。男は気づいていなかった。正気を失った目が、真っ赤に染まっていることに。
道端に設置されている喫茶店のスタンド看板に足を引っかけ、男は盛大に転んだ。看板の照明が落とされていたために、その存在に気づけなかった。雨音だけが聞こえる中で、重い看板が倒れた音が異様に響く。水たまりの水が跳ね、顔まで泥水に浸かった。しかし、男は大した反応を示さなかった。悪態もつかず、呻き声すらあげない。
身を揺らしながらゆっくりと立ちあがり、そしてふたたび歩きはじめる。背後で入退店を知らせるドアのベルが鳴り、喫茶店の中から大柄な店主が顔を覗かせたことにも気づいていなかった。
「あの」
背後から声をかけられたことで、ようやく男は振り返る。真っ赤な双眸が、店主を射抜いた。男の首からぶらさがっている黒曜石のペンダントが、街灯の明かりに照らされ揺れている。
「大丈夫ですか――と訊くのは、野暮みたいですね」
男のその異様な雰囲気にも呑まれず、店主は苦笑いを浮かべ、大雨を厭う様子もなく、外へ出てきた。そして半ば強制的に、男を喫茶店に連れこむ。
パチリと、店主がキッチンの隅にあるスイッチを入れると、温かみのある暖色照明が店内を照らした。黒い石畳の床に、黒い大理石のテーブル席とカウンター、シックでひんやりとした雰囲気が広がる内装。
落ちついた雰囲気の喫茶店に入っても、男は所在なげに突っ立っていた。ぽたぽたと病衣や髪からは雫が垂れ、瞬く間に男の足もとへ水たまりをつくる。
店主は、男の頭の先から爪先までを見まわすようにゆっくりと顔を上下させた。
そして、とある一点。
男の左手のあたりで動きが止まる。彼はその左手をつかみ、濡れた病衣の袖をまくりあげた。男の手のひらから腕にかけて、いくつもの血管のような筋が浮きあがっている。そしてその筋は蠕虫のように、かすかに蠢いていた。
店主の顔つきが変わる。
「このままだと、死んでしまいますよ」
単刀直入に、店主はそう口にした。
しかし、死という言葉を聞いてもなお、男は特に反応を示さない。うわの空で、光を失った真っ赤な双眸を揺らめかせている。
男の心は死んでいた。
心臓が脈打つだけの人形と化していた。
その心臓が止まったとしても、男にとっては些細なことだった。
男がこの世への執着を失いかけていることは、店主も察したらしい。
「無理に引き留めるつもりはありませんが。死んでしまう前に、なにかやり残したことはありませんか。なければ、死ぬ前にひとつ、人のためになっていただけるとありがたいのですが」
今まで茫洋としていた男の脳に、やり残したこと、という言葉だけが光明のように突き刺さった。
濁っていた目に感情が宿る。
憎悪、悲嘆、憤怒、苦悩、絶望、あらゆる暗い衝動が湧きあがり、赤黒い光が双眸で揺らめく。それに呼応するかのように、左腕に浮きでた筋の蠢きが一段と強くなった。
男の呼吸が荒くなる。
鼻からは鮮血が垂れはじめた。
「わかりました。充分です。私なら、あなたの力になれるかもしれません。ただ、事態は一刻を争います。すべてを捨てて生き永らえるか、このまま死ぬか。あなたはどちらを選びますか――」
しばらくして、店主が男を連れた先は、店から繋がる奥の部屋だった。薄暗い部屋は蔵書がぎっしり詰まった本棚が並び、他の棚には理科の実験に使うようなガラス容器などが置かれている。机のそばには、なにも入っていない大きめの鳥かごまであった。まるで、不気味な書斎という表現がぴったりの内装だ。
その部屋の隅、カーペットをめくった床に、跳ねあげ式のハッチになっているドアがあった。それを持ちあげると、地下へつづく階段が現れる。暗闇にぽっかりと口を開けたような階段に、店主はためらうことなく足を踏みだした。背後でゆらゆらと揺れている男を軽く背負い、大きな身体をかがめて階段をおりていく。
「
途中、人差し指を立ててぼそりと呟く。瞬間、指先に小さく丸い光源が出現した。白い光を放つそれは、真っ暗な階段を照らす。
途中で階段が折り返し、行き着いた先は小さな木製の扉だった。それを押しひらき、まず視界に映るのは淡いパステルカラーの光。さまざまな光を放つ丸い物体が、蓋付きのビーカーのようなガラス容器に入れられている。どういう仕組みなのか、それは宙に浮いて、かすかに上下していた。その丸い光源の入った容器が、棚や机の上など部屋のいたるところに置かれており、部屋を照らす明かりの代わりになっている。
部屋の奥、正面の壁には真っ赤な塗料で描かれた大きな魔法陣のような印章が刻まれていた。また、隅には大きなベッドがあった。ヘッドボードには、置き時計のほかに、部屋を照らす不思議なガラス容器もひとつ置かれている。そのベッドに、店主は背負っていた男を座らせた。そして、棚に置かれているガラス容器の中からひとつだけ、光を放っていない丸い真っ黒な物体が浮いている容器を手に取った。
ベッドに座る男の前で、店主は容器のコルク栓を抜き、そしてなにやらぼそぼそと呟いた。すると、容器の中で球体を保っていた真っ黒な物体がぐねぐねと蠢きはじめ、煙のように立ちのぼった。そのまま、ベッドに座る男の穴という穴へ吸いこまれていく。
ただぼんやりと、夢と
――黒い世界だった。見える景色は、黒一色だった。
地を踏みしめている感覚もない。しかし、水中にいるわけでもない。呼吸に難はなく、宙に浮いているような不思議な感覚だった。上下も、左右の感覚すらもつかめない。
困惑が男の頭を埋め尽くす。
とにかく叫んでみよう、そう思い口をひらこうとした瞬間、ぞわりと身の毛がよだつ感覚に囚われた。
『久しぶりに起こされたと思えば、なんだオマエは? ヴォルフガングじゃねぇな』
暗闇の奥から、耳障りな声が響いた。慌てて辺りを見まわすも、なにも映らない。底なしの闇が広がっているだけだ。
「誰だ?」
『クソ、こんな腑抜けたようなヤツが器だと? 冗談じゃねぇ、用意するならもっと出るとこ出たオンナにしろってんだ』
「なにを言ってる? お前は何者だ、答えろ!」
『うるせぇな。オマエはオレの
再三の
「
『オマエに選択肢はない。久しぶりに外の世界を拝めるんだ。ヴォルフガング! このさい
高らかに宣言した声は、くつくつと下卑た笑みを響かせる。
『そうだな。オレのモノになる代わりに、ひとつだけオマエの願いを叶えてやる』
「俺の、願い……?」
『復讐だよ』
『オマエの心の
言葉が継げないでいる男の脳に、畳みかけるように声が響く。
『なにに復讐したいんだ? 個人か? 組織か? それとも世界か』
グラグラと、男の中でなにかが揺れ動く音がする。そんな音は本当は聞こえていないはずなのに、そう錯覚してしまいそうな感覚に陥った。
『オレならオマエの力になれる。だからオレに任せてみろ』
脳裏に響く声は、今までの不快な声色から一転、優しく、柔らかく、語りかけるような響きに変わった。
『もういいんだろう? お前からは生きる気力も感じられない。今すぐに死んでもいいと思ってるんだろうが、せめてものオレの慈悲だ。死ぬ前に、お前の憎悪を取っ払ってやる』
甘美なその声は、甘くとろけるハチミツのように男の心に染み渡る。
『だから、すべてをオレに委ねろ』
脳に響いたその言葉を最後に、男の意識は黒に溶けた。
――喫茶店の地下室を、不思議な丸い照明が照らしている。
ベッドに寝かされていた男が、ひとつ大きく呼吸をした。
それに気づいた店主がベッドに歩み寄る。
「気分はどうですか?」
身体を起こし、ベッドに腰掛ける男に店主は話しかけた。
うつむいていた男の顔がゆっくりと持ちあがる。口の端が吊りあがり、唇が弧を描いた。刹那、店主の胸ぐらがつかまれ、互いの顔がグッと寄る。
「さいっっっこうだぜヴォルフガング!」
耳をつんざくような笑い声とともに、唾が店主の顔に散った。が、彼は顔色ひとつ変えず、
「どんな甘言で取り入ったのかは知らないが、お前にやるつもりで憑かせたわけではない」
男の手を軽く振り払い、抑揚のない声でそう告げた。男の左腕は、先ほどまで浮いた血管のような筋が蠢いていたが、今はそれも収まっていた。
「そうは言ってもな。コイツはもう自我を手放したんだ。ようやく、オレも好きに動ける。オマエが用意したフラスコの中じゃない。もうオマエに縛られることもない」
バチン。
電撃がほとばしるような異音が、地下室に響いた。瞬間、稲妻の渦が巻き起こり、男の左手を這いまわる。そして、手中に一丁の拳銃が形作られた。
ゆっくりと、黒光りする銃口が店主に向けられる。だが、店主の表情はピクリとも動かない。焦りも、驚きも、懊悩も、感情の振れがまったく見受けられなかった。それどころか、店主は手を伸ばし凶器の先端に触れる。
たったそれだけで、黒光りする砲身は、まるで燃え尽きたあとの炭のようにぼろぼろと瓦解していった。
「なッ――!?」
下卑た笑みを浮かべていた男の表情が一変した。ギリ、と歯を鳴らすと、ふたたび腕に紫電が這いまわりはじめる。その男の額を、無骨で大きな手がつかみあげた。
「あがッ、がァッ!」
店主の親指と中指が、男の両のこめかみを強く圧迫していく。
男はその手をつかみなんとか拘束から逃れようとしたが、店主の大木のような腕はびくともしない。
「諦めろ、お前が自由になることはない」
男の口からは唾液が垂れ、腕を這う紫色の稲妻は徐々に勢いを失っていった。店主の腕に爪を立てていた手は、だらりと垂れさがる。
男の両の眼球が上転したところで店主は手を放したが、魂が抜けたように意識を失った男はそのまま後方へ倒れこんだ。
× × ×
雨が降っていた。
ざぁざぁと石畳を打つ雨音が、建物に反響し街中に響き渡る。夜の街を照らす街灯の明かりが、雨粒に乱反射してぼんやりと浮かびあがる。
幻想的だった。
現実ではないように思えた。
そう思うのは、自分が人間ではなくなってしまったからなのかもしれない。
――その日から、男の人生は一変した。
公園にて血まみれで倒れていたことに関して、なにが起きたのか正直に供述したものの、警察はそれを虚言としか受け取らなかった。
取り調べを担当した刑事からの心証は最悪だったと思われるが、被害を訴える人物が現れることはなく、事件の加害者として処理されることはなかった。もっとも、病院で見張りの刑事を昏倒させ、勝手に抜けだしたために、しばらく休養という意味を含めた謹慎処分が下されてしまったが。
また、恋人が目の前で殺されたことに関しても、目撃者はいない、遺体すらあがらないという状況で殺人事件として扱われるわけもなく、ただの失踪事件としか取り扱われなかった。加えて、警察の一員である男が重要参考人になってしまうことは組織としても都合が悪かったようで、結局、男の証言は恋人が失踪したショックによる心神喪失が原因で発せられた荒唐無稽なものであり、証言としての効力を持たないと判断され、恋人が殺害された事件が公のものとなることはなかった。
それでも、彼女の遺族がいれば、また話は違ったかもしれない。だが、両親はおろか、親類縁者もなかった彼女の行方を強く追い求める人はおらず、恋人であるだけの男が声を大にしたところで、日夜数々の事件に追われている警察という組織が、いつまでもこの件について捜査しつづけるということはありえなかった。
男だけは、謹慎を終え警察官としての業務に戻っても、その権限を駆使し、あの日の事件の捜査に全力を傾けたが、失踪扱いにしかならなかった事件にいつまでも執着していることは、組織の中で軋轢を生むだけであり、周りとの不和を解消しようとせずに我を通しつづけた結果、警察官の職を
次の職として記者を選んだのは、情報が集まりやすいだろうという理由だけだった。もっとも、芸能関係の部署に配属されてしまったことは不本意だったが。
そしてなにより、悪魔との共生。
身に宿った魔力を御すことに心血を注ぐ毎日がはじまった。
喫茶店の店主に協力することを決めたとき、その身の裡に巣食った悪魔を黒い魔導書へと移してもらい、ずいぶんと楽に生活できるようになった。
また、世の中には悪魔という存在が跋扈していることを知った。そして、あの日の事件の不思議な現象は、悪魔の力によるものだと見当をつけることもできた。
悪魔憑きとして、彼女の命を奪った見も知らぬ悪魔憑きを追う。
アーロン・アローボルトの、すべてを懸けた第二の人生がはじまった。
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