25. 真夜中に - In the middle of the night -

 雨が降っていた。

 ざぁざぁと石畳を打つ雨音が、建物に反響し街中に響き渡る。夜の街を照らす街灯の明かりが、雨粒に乱反射してぼんやりと浮かびあがる。

 幻想的だった。

 現実ではないように思えた。

 そう思うのは、自分が人間ではなくなってしまったからなのかもしれない。



      × × ×



 男はウエストエンドのとある公園にいた。恋人が作ってきてくれた昼食を一緒に食し、昼休みを謳歌した。ただそれだけで、幸せに満ちていた。


 彼女と過ごす、静かな時間が好きだった。


 派手な遊びは必要ない。なにもしていなくても、ただ一緒にいられるだけで幸せだった。

 いつまでも、この幸せがつづくと信じていた。

 この幸せが、ほんの少しあとにすべて崩れ去ってしまうとは夢にも思っていなかった。


 男の記憶にひどくこびりついたのは、恋人の胸に風穴を開けた腕。

 その腕に刻まれていた見慣れないタトゥー。

 彼女が最期に告げた〝大好き〟の声。

 抱き寄せた彼女の遺骸は、赤く輝く細かい砂粒となって崩れ落ちた。


 身体の奥底から血を吐くような叫び声が轟く。理解ができないその光景に打ちのめされ、壊れていく精神の中で男が見たものは、赤い砂粒に埋もれるように転がっている深紅の宝石だった。


 吸いこまれそうなほど深い赤色に、ゆっくりと手を伸ばす。石に触れた瞬間、世界が万華鏡のように煌めいて、うちにある自我が真っ赤に塗り潰されたような感覚に陥った。


「がッ……ごぉっ」


 腹の底から獣のような嗚咽が漏れる。本能的に、身体が拒否反応を起こし体内のものを吐きだそうとしているかのようだった。


「がぁぁぁぁぁッ!」


 ひとつ大きく叫ぶや否や、ビクリと身体が痙攣し、弓なりにのけぞった。眼球は上転し白目が剥きだしになり、口からは唾液があふれる。

 理性ではもうどうにもならなかった。意識が飛ぶ、そう表現して差し支えない状態だった。


 公園の一角で響く獣のような叫び声を聞きつけたのか、姿を消していた人たちが公園へ戻ってきたのか、いつのまにか大勢の人々が男を取り囲むように集まり、離れたところから様子をうかがっていた。

 その中に、通報した人がいたのかもしれない。

 やがて、人垣を掻き分けながら制服姿の警察官たちが現れた。血まみれのスーツに身を包んでいた男は真っ先に目をつけられ、彼らに取り押さえられたそのとき。

 意識を手放してしまったのだろう。

 男の記憶は、いったんここで途切れた。


 ――まず目に飛びこんできたのは、白一色だった。


 そして次に、自分が横たわっていることに気づく。しばらくぼうっとしたまま、真っ白な天井を見あげていた。身体を起こそうと踏ん張ってみたが、全く力が入らない。


 おぼろげな記憶が少しずつ取り戻されていく。彼女の身体が砂のように崩れ去ったところまで思い返し、もしかしたら、先ほどのことは悪い夢だったのではないかと、思考は自分に都合のいい方向へ向かっていった。


 そうだ、きっとあれは夢だ。


 くぐもった小さな笑みが、乾いて張りついた唇から漏れた。その微かな音に気がついたのだろう。


「目が覚めたか」


 低い声に、男は視線だけを横に向けた。見慣れた深緑のモッズコートが目に入る。それを身にまとった男が顔を覗きこんできた。


「大丈夫か?」


 心配そうに話しかけてきた彼へ、男は小さく頷いて返した。身体に重い枷をつけられたような倦怠感こそあるが、吐き気や頭痛といった苦痛は鳴りを潜めていた。

 それならいい、とモッズコートの彼はひとつ咳払いをする。そして、いつもの軽薄そうな雰囲気が、真剣な刑事のものにガラリと切り替わった。


「早速で悪いが、聞きたいことがある。座れるか?」


 首を横に振り、自力では座れないと意思表示した。男に支えてもらいながら、身体を起こす。そのとき、胸になにかが当たったような感覚がした。襟から手を入れ取りだす。それは、彼女が大切にしていた黒曜石のペンダントだった


「お前がずっと握ってたんだよ」


 それを見つめながら小刻みに震えている男に、モッズコートの刑事が、懐から手帳とペンを取りだしつつそう口にした。一呼吸置いて、彼は話をつづける。


「公園の中で血まみれの男が騒いでいると通報があって、俺たちは現場へ急行した。そうしたら、所轄に取り押さえられて倒れているお前がいた。外傷はなさそうだったが、意識不明だったから近くの病院まで連れてきたんだが」


 一瞬、静寂がこの場を支配する。


「……いったい、なにがあったんだ」


 彼の言葉は、男を奈落の底に叩き落とした。ペンダントが自分の首にかかっていた時点でいやな予感はしていたが、信じたくはなかった現実を、まざまざと突きつけられた。そして、なにがあったかと聞かれても、男自身噛み砕くことができていない。


 説明ができないからという理由で口をつぐんだものの、彼はそれを説明がしたくないのだろうと受け取ったらしい。苦い顔をして男の肩に手を置き、懇願するようにつづけた。


「アーロン、お前のためだ。説明がなきゃ、しょっ引かれる可能性だってある。現状、お前がなにかしらの事件に関わってると思われても仕方ないんだぞ」

「俺があいつを! エリーを殺したって言うのかよ!?」


 男の口から、慟哭にも似た叫びが飛びだす。その発言に驚愕の色を示したのは、刑事のほうだった。


「おい待て。どういうことだ。お前の恋人が殺された?」


 瞠目する上司の前で、男はギリと歯噛みした。

 昼間の光景がふたたび鮮明によみがえる。

 目の奥が熱い。

 胸焼けがする。

 不自然に息もあがってきた。


「昼メシを食ってただけなんだ! なのに、なんであんなことになった!? あいつの身体にッ、うで、腕が突き刺さって! 崩れた! 赤い結晶が、砂になって」

「おいおいおいおい、落ち着け! コラ!」


 刑事が慌てて制止をかけるが、無意味だった。男はしきりに身体を震わせ、ベッドがガタガタと揺れる。加えて、鼻からは真っ赤な鮮血があふれはじめていた。ガリガリと頭を掻きむしる左手には、浮きでた血管のような筋繊維が放射状に隆起している。


「ヤバいヤバいヤバい……! ちょっ、誰か医者呼んできてくれ!」


 廊下に向かって、刑事はフロアに響き渡るほどの大声を張りあげた。ほどなくして医者と看護師が到着し、数人がかりで暴れる男を押さえつける。それを振り払わんとするほどの膂力で暴れる男だったが、一瞬の隙を突き医者が注射器で鎮静剤を投与することで事なきを得た。


 ――次に男が目覚めたのは、すっかり日も落ちた夜になってからだった。ただ、夕方目覚めたときのように穏やかな目覚めではなかった。


 頭が割れるような頭痛が疼く。視界も薄れ、目に映るあらゆるものが二重になって見えた。ゆっくりと部屋を見まわすと、ベッドのそばに置かれている床頭台に、一枚のメモ用紙が置かれていることに気がついた。


 よろよろと手を伸ばし文面に目を落とす。そこには〝また明日以降話を聞くから、今日はゆっくり休め〟と書かれているのがかろうじて判読できた。


 深緑のモッズコートがトレードマークの上司の姿が目に浮かぶ。と同時に、猛烈な吐き気と鋭い痛みが胸のあたりを襲った。目の奥と左手が強烈な熱を持つ感覚に陥る。不安定な態勢でメモを読んでいたことが祟ったのか、男はバランスを崩しベッドから転げ落ちた。


 重いものが落ちる物音に驚いたのだろう。瞬時に病室の扉が開かれ、ひとりの男が飛びこんできた。


「大丈夫ですか!?」


 耳に届く声からして、モッズコートの刑事ではなさそうだ。おそらく、監視を兼ねて配置された警察官だろう。だが、今の男にそこまで考えている余裕はなかった。


 身体全体を包みこむ不快感と、思考に靄がかかったような感覚に蝕まれる。男の自我は、極めて薄れていた。言いようのない衝動が、血液と一緒にどくどくと心臓から送りだされている。そんな不思議な感覚が、全身を支配していた。


 警官は倒れている男を抱き起こし、ベッドに寝かそうとする。が、朦朧としているはずの男の両腕が、警官の喉もとを捉えた。


「がッ……あァッ」


 意識が混濁しているとは思えないほどの膂力が、警官の頸椎を圧迫する。そのまま壁に背を押しつけられ、足が浮く。酸素を取りこもうと開閉する口からは、泡が散った。腕を引き剥がさんともがく警官の目に、赤く揺らめく男の双眸が反射する。


 意識を失い床に転がる警官を放置したまま、男はふらふらと病室を出ていった。明かりの落ちた病院をひとりで歩き、玄関の扉を押しひらいた。病衣姿のまま外に出る。


 ゴロゴロと、遠くで雷が鳴っている。地面に落ちてきそうなほどどんよりとした黒い雲が空を覆っていた。

 生温い風が頬をなでる。

 外に出たことがきっかけとなったのか、無理やり抑圧していた悲しみや怒り、憎悪といった感情が堰を切ったようにあふれだした。

 それはとめどなく、コントロールするすべもなく。

 身体の奥から吐きだすように咆哮し、男は闇夜を駆けた。

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