2. MOON DRIP

24. 雨 - Rainy -

「待ちやがれ!」


 イギリス、ロンドンの夜の帳に、ひとつの怒号が轟いた。その鋭い制止にも、地を蹴る靴音は止まらない。路地の奥に消えていく背中を睨み、男はひとつ舌を打つ。


『めんどくせぇな、もうほっとけよ』


 男の背後で、嘆息交じりの声が響いた。

 首だけまわしちらりと一瞥すると、百科事典のような大きな黒い〝本〟が宙に浮かび、男のあとを追随していた。表紙には金属のような光沢を纏った、悪魔のような恐ろしい顔の意匠が施されている。


「黙って上から追跡しろ」


 言葉を発しながら後ろをついてくる本に、男は短く指示を飛ばした。いつもなら否定からの言い争いに発展することが多いが、珍しく本は舌打ちだけしてふわりと空高く浮かんでいく。が、すぐに舞い戻り、男の目の前で身を震わせた。


『アーロン! ちょっ、ヤバいぞ!』


 わぁわぁとわめく黒い本に、アーロンと呼ばれた男は迷惑げに顔をしかめた。思わず足を止める。


「テメェ、追跡しろって言ったのが聞こえなかったのか」

『いいから早く! この先だ!』


 ギロリと睨まれ凄まれても、黒い本は意に介さず叫び、一足先に路地の奥へと消えていく。誰に聞かせるでもなく大きく舌打ちをして、アーロン・アローボルトはふたたび足を速めた。


 街灯の明かりがかすかに路地へ差しこんでくる。ちょうど路地を抜け、視界がひらけたところで足が止まった。


 眼前には、すらりとした長身の女性が両手をあげて立っていた。

 短いファーコートを羽織り、その下のオフショルダーのドレスからは豊満な胸がこぼれている。肌は透きとおるように白く、髪は明るいブラウンの長髪で、耳には小さな燐灰石アパタイトがあしらわれたイヤリングが揺れていた。

 男なら誰もが目を奪われそうなその女性は、アーロンに気づくと小さく微笑んだ。


『なっ! なっ!? すげぇだろ! コート着てても上玉だってわかるぜ! ありゃあネルにも引けを取らねぇよ』


 肩越しで興奮する本に、アーロンは裏拳を叩きこんだ。ぐぇ、とカエルが潰れたような声をあげ、本ははらりと地面に舞い落ちる。たしかに見目麗しい女性であることには同意するが、今は彼女の背後に立つ男のほうに視線が向く。


「動くな! 動いたらこの女がどうなるか、わかってるよな!?」


 降参するように両手をあげている女性の背後で、今まで追っていた男が切羽詰まった声色で叫んだ。彼女の陰に隠れて見えないが、おそらくナイフか拳銃か、凶器を背中に突きつけていることは容易に想像できる。


 面倒なことになった、とアーロンは歯噛みした。人質を取られての標的ターゲットとの相対の難しさは、前職の経験もありよく知っている。


 恐怖の我慢が限界に達した人質が、強引に逃走しようとする、周りに助けを求めようとわめくなど、犯人の神経を逆なでしてしまう可能性がある。もちろん、犯人も例外ではない。人質を取るという行為は、犯人にとって最終手段になりうる。小さな物音や周りの動きに敏感になり、少しのことで瞬時に沸点を超える。誰もが極限状態に陥ってしまうのが、人質事件の特徴だ。だが、今回は通例に則らないものだった。


「人質にするなら、背後から腕をまわして拘束するなり、動けないようにするのが普通ではないかしら? ナイフを背中に突きつけるだけなんて、逃げられても仕方がないと思わない?」


 夜の帳に響く凛とした声。

 少しも震えてなどいないその声の主は、今も人質として武器を突きつけられ、両手をあげている女性だった。男とアーロン、どちらに語りかけているとも取れない口調だ。ただ、男は自分への言葉だと受け取ったらしい。


「だっ、黙れ! 今の状況がわかってんのか!?」

「わかってるわよ。だから冷静なの。あなた、見た目からしてまだ大学生くらいかしら。初心なのね。女は強引に扱われるほうがなびくのよ、覚えておくといいわ」


 その瞬間、彼女はスラリと長い足を背面に蹴りあげた。狙い定めたその先は、男の中心。股間に強烈な一撃を見舞われた男は、うずくまったまま意識を手放した。


 自分が食らったわけではないにもかかわらず、アーロンは股間を中心に血の気が引き、脂汗が滲む感覚に陥った。対する女はさも当然というように、地面で丸くなっている男の背中に腰をおろす。


「まさかこんなことになるなんて思いもしなかったわ。あなたならすぐに取り押さえるだろうと思っていたのに。アーロン、、、、アローボルト、、、、、、さん」


 流れるような展開に目を丸くし、無意識に股間へ手を遣っていたアーロンは、急に自分の名が呼ばれたことで眉根を寄せた。


「どうして俺の名前を知ってる?」

「同業だもの」


 間髪を入れず、返事が返ってきた。


「一年半前、突如ロンドンに現れた魔弾の射手。個人的にも興味があるわ。あなた、邪悪の樹を追っているんでしょう」

「邪悪の樹……?」


 アーロンの反応が芳しくなかったのを見て、女は怪訝な表情になる。


「あなたは探しているんでしょう? とあるタトゥーの持ち主を」


 つづけざまのその言葉に、アーロンの顔色が変わる。反射的に、懐に忍ばせていた拳銃を彼女に向けていた。黒い本から取りだしたものではない。正真正銘、実弾が込められている拳銃だ。


「知っていることがあるなら話せ」


 ドスの利いた声で脅しをかける。だが、黒光りする銃口を向けられてなお、彼女は少しも焦りを滲ませなかった。小さくため息をついて、アーロンに向きなおる。


「ダメね。手の早い男は嫌われるわよ」

「ふざけるな。俺は本気だ」


 撃鉄を起こし、安全装置セーフティを解除する。

 言葉に偽りはない、という意思表示。

 それでもなお、女はうっすらと笑みを浮かべ、艶やかな唇を小さく震わせた。


「〝天嵐ロカ・ニンブス〟」


 ため息とともに呟かれた一言と同時に、突風のような衝撃が身体の前面に襲いかかった。理解が及ぶ暇もなく、大の字で建物の壁へと叩きつけられる。


「ッ!?」


 持っていた拳銃が手からこぼれ落ちる。まずいと思った瞬間、四肢に重いものが張りつく感覚に襲われた。見ると、コールタールのような色合いの、ぬめりのある黒いなにかが四肢を覆っていた。建物の壁としっかり吸着したそれは、腕を動かそうとしても剥がせない。


 女は腰をあげ、転がった拳銃を拾いあげた。このまま銃口を向けられ、身体に風穴が開く未来も否定できない。冷汗が背をつたったが、彼女は思いもよらぬ行動に出た。自らが股間に鉄槌を落とし気を失わせた男に歩み寄り、その懐をまさぐりはじめた。途中、男が意識を取り戻し、反射的に彼女へつかみかかろうとする。しかしその手が届く前に、彼の額には銃口が擬せられた。


「やめておきなさい。死にたくないなら、今すぐにこの場から去ることね」


 もう勝ち目はない。

 そう踏んだらしい男は、脱兎のごとく身を翻しこの場から逃走した。その姿を見送りつつ、女は拳銃の撃鉄を押さえながら引き金を引き、ゆっくりと撃鉄を倒した。安全装置にロックをかけ、発射不能にしてから、彼女は壁に張りついたままのアーロンへと向き直った。えんな唇に笑みを浮かべ、これみよがしに拳銃を放棄して、すぐそばまでやってくる。


 銃を捨てることで、危害を加えるつもりはない、と言外に主張した彼女は、アーロンのシャツの中に手を入れ、細指を身体に這わせた。


「なんッ、のつもりだ……!」


 脳内で疑問符が爆発した。

 ひんやりとした女の指先が腹筋をなでる。ヘソの辺りでくるりと一回転し、むずむずとしたくすぐったい感覚を呼び起こす。身体を捩り逃れようとするも、磔にされた状態ではそれも叶わない。


「これから一夜をともにして私を満足させられたら、あなたの希望を叶えること、考えてあげなくもないけれど」

『くぁwせdrftgyふじこ#$%&!』


 女がとんでもないことを口走った瞬間、宙に浮いている黒い本が、聞き取れないほどの絶叫をあげた。だが、それに怒鳴る余裕はアーロンにはなかった。そして、彼女も本に意識を向けることはない。


「なにをッ……馬鹿なこと、言いやがって」


 女の行動の意図が読めない。

 脳内を埋め尽くすのはただその一点のみ。

 彼女は一層アーロンに身を寄せ、互いの身体を密着させた。豊満な胸が身体に当たる。目を落とすと胸の谷間が視界に飛びこんできた。慌てて顔をあげ、歯を食いしばる。首から上が熱を持ちはじめる。対する女は、黙ってアーロンの顔を見つめていた。だが、身体に這わせている指の動きは止めない。明らかに、出方をうかがっているのがわかる。


「……ッ、わかった。話に、乗ってやるから。まずこれを解け!」


 このまま黙っていても状況は好転しない。そう判断したアーロンは、半ばやけくそに叫んだ。それを聞いた女は、妖艶な笑みを浮かべる。


「冗談よ」

「なぁッ……!」


 言葉が継げなかった。

 魚のようにパクパクと口を開閉している様子を見て、女は愉しそうに話をつづける。


「それに、どうしてあなたが立場が上かのように振る舞えるのかしら。どう見ても、今の状況はあなたが私に懇願するべきではなくて?」

(クソッ!)


 心の中で、大きく悪態をつく。


「た……頼む、外してくれ」

「聞こえないわ」


 ギリッ、と奥歯が噛みあった。

 心は完全に拒否している。だが、言うしかない。情報を引きだすためには、チンケなプライドにこだわっている場合ではない。頭では理解しているのだ。ただ、口が素直に動かない。ギョロギョロと目が泳ぎ、唇が震える。ごくりと生唾を飲み、意を決して口をひらきかけたそのとき、


『コイツのコリブリじゃ絶対に満足できないぞ!』


 ふたりのあいだに、一冊の黒い本が割りこみ、女に向かって大声をあげた。出鼻を挫かれたアーロンは目を剥く。口はひらいたまま、とぼけた表情を晒し固まった。だが、女はその声に反応しない。彼女の目は、眼前にあるはずの黒い本ではなく、まっすぐにアーロンを捉えている。そのまま不敵な笑みを浮かべていた彼女は、ふっと視線をそらした。


「もういいわ、充分よ。本気にしたならごめんなさい」


 シャツの下、ゴツゴツとした男らしい腹部に添えていた手をするりと抜いて、女は謝罪を口にした。


「愉しかったわ、懊悩するあなたが見られて。お礼に、ひとつ忠告をしてあげる」


 彼女は人差し指で、アーロンの胸を軽く突いた。


「目的を達成したいなら、自らの力で勝ち取りなさい。誰も信用せず、誰も頼らず。それでこそ、あなたの悲願の成就は意味を持つのではなくて?」


 遠くで街の喧騒が響いている。

 アーロンは言葉が継げなかった。


「他人を頼った復讐なんて、復讐と呼べるのかしら」


 彼女のその言葉は、頭蓋の奥のほうで妙に響いた。


「あと、これ。これを探して、この男を追っていたんでしょう。私も頼まれて探していたんだけど、あなたに譲ってあげるわ」


 そう言って、女は小さく透明なナイロンの袋を取りだした。先ほど、気を失っていた男から接収したものだ。チャック付きの袋の中には、赤黒い粉末のようなものが密封されている。彼女はそれをアーロンの胸ポケットに押しこんだ。


「それじゃあせいぜい頑張りなさい。また縁があれば、どこかで会いましょう」

「クソッ! 知ってることを全部話せ!」


 そしてそのまま、ぷらりと手を振りきびすを返した。カツリ、というヒールの音が、アーロンを現実に引き戻した。咄嗟に声を荒げる、怒号にも似た男の威嚇。だが、女は少しもひるまず、足も止めない。彼女の姿が見えなくなったところで、矛先を宙に浮いている本へ向けた。


「ザミュエル! このワケわかんねぇモン外せ!」

『知るか! 自分でどうにかしろ!』

「なににキレてんだテメェは! 早くしねぇと見失うだろ!」

『オマエだけイイ思いしやがったな! この一年浮ついた話もねぇからオレも我慢してやってたが、ムネを押しつけられただけでしっかりおっ勃たせやがって! 思春期真っ盛りのガキかよオメェはよ!』

「なッ……わけねぇだろ! 馬鹿なこと言ってねぇで早く――」


 本当になにを怒っているんだコイツは。

 篠突く雨のような勢いで叫ぶ黒い本ザミュエルに、アーロンは呆れるしかなかった。


『誘われて顔真っ赤にしてたヤツが否定しても説得力ねぇんだよ! あぁぁあああオレもこんな本に押しこめられてなけりゃ、今ごろ世のオンナを手玉に取って遊んでたのによぉぉ』

「あれは拘束を解こうとしてりきんでただけだ!」


 やいのやいのと口論を交わす。

 傍から見れば、アーロンがひとりで怒鳴っているようにしか見えない光景なのだが、幸い路地のようになっているこの小さな広場に人が入ってくることはなかった。そして思ったよりも早く黒いタール状の物質は溶けるように自然消滅し、拘束から解かれたアーロン真っ先にザミュエルを黙らせた。黒い本を持って女が歩いていった大通りへ飛びだすも、当然もうその姿はない。


「ちくしょう」


 大きく舌を打つ。

 先ほど女が言っていたあの言葉。生命の樹ならわかるが、邪悪の樹という言葉に心当たりはなかった。

 あの女は確実になにか知っている。

 今までで一番、手の届きそうなところに手がかりが転がってきた。にもかかわらず、それをつかみ取ることができなかった。


「クソッ!」


 建物のレンガ壁に拳を打ちつける。鈍い痛みが腕を走ったが、気にはならなかった。それだけ頭に血がのぼっていた。そんな頭を冷ますように、夜空を覆う黒雲から静かに雨が降りだした。やがてそれは、大粒の雫となって降り注ぐ。


 おもむろに、胸ポケットに押しこまれたものを取りだした。あの女から渡された、小さいナイロンのポリ袋。しっかりとチャックで封がされているその中には、赤黒い粉末が入っている。たしかに、女が言っていたとおり、アーロンもこれを求めて先ほどの男を追っていた。赤く煌めく粉末が、いやに目に焼きつく。ぐしゃりと、ナイロンの袋を握りつぶし懐へ入れた。


 思い返されるは一年前。

 雨に濡れたたずむ男の思考は、あの日の夜に向かっていた。

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