23. 安らかたれ - R.I.P. -

 ロンドンの象徴ともいえる大時計、ビッグベン。テムズ川河畔に位置する、ウェストミンスター宮殿に付属する大きな時計塔だ。そのたもとに架かっているウェストミンスター橋で、コリンズとの面会を終え、ロンドンに戻ってきたアーロン・アローボルトがタバコをふかしていた。


 今ごろ、彼はソールズベリーを出、ロンドンへ移送されているころだろう。


 マイク・コリンズがどうして邪眼を宿しているのか、聞きたいことはいろいろとあったが、あの病室で、質問攻めのような野暮な真似をする気にはなれなかった。訊かなくても、考察はできる。それで充分な気がしていた。


 ネイサンは、コリンズのことをばら撒いた邪眼に適合した人間と、そう言っていた。おそらく彼は、なんらかの拍子でネイサンの魔力にあてられて、悪魔憑きでないながらに、かすかな邪視の力をその目に宿してしまった。魔力に対する親和性が高かったということだ。だが、記憶が飛ぶことがある、と自身のことを語っていたコリンズは、自分の目が緑色に染まっていたことにすら気づいていないだろう。このまま悪魔憑きと縁遠い生活をしていれば、そのうち力も消えるはずだ。


 彼に直接訊くことはできなかったが、刑務官に確認した限りでは、身体検査時、彼の身体にタトゥーの類は見つからなかったらしい。それが確認できただけでも、これ以上アーロンがマイク・コリンズという人間に入れこむ理由はなかった。


「アーロン」


 咥えていたタバコが燃え尽きる寸前、次の一本を取りだそうかと考えていたときに名を呼ばれ、アーロンはゆっくりと振り返った。

 視線の先に立っていたのは、ゴールデン・ドーン・シアターズという劇団に所属している女優である、ネル・ゴールドウェル。仕事柄、きらびやかな衣装や化粧に身を包んでいることの多い彼女だが、今日はカーキ色のフライトジャケットにジーンズ、スニーカーというラフな出で立ちをしていた。


「おまたせ」

「いや、俺も今来たところだ」


 アーロンは短くなったタバコを地面に落とし、靴でぐりぐりと踏み消して向きなおった。


 アーロンがネルとプライベートで会っている理由はただひとつ。フェイクニュースの掲載と、会見で無駄な世間の注目を浴びさせたことなど、もろもろの無礼と協力に対する謝礼を清算するためである。


 ネルの要望で今日一日巷のおいしい料理やスイーツを食べ歩き、好きなだけ買い物をし、アーロンがすべての荷物を持ち随伴するというプランが今決行されようとしていた。


 アーロンがすべての費用も持たされる寸前だったが、それは土下座せん勢いで許しを乞い、スイーツ代のみを支払うという契約で折り合いがついた。人気の舞台女優がいいと思ったものを片っ端から買いあさったりすれば、単なる記者の財産など一瞬で破産だ。


 今日はあの口うるさい黒い本を連れてきていないためいくらかマシだが、仕事をする以上に疲弊することは目に見えている。いやなことはさっさと手をつけて終わらせるに限る。行こうぜ、と顎で意思表示をし、川沿いを北へ歩きはじめた。


「事件のことはどうなの? 警察、タラリアにも来たんでしょう」

「あぁ、でも大した話はしてない」


 ネルの問いに、アーロンはさらりと返した。

 彼女にも、今回の事件について、ブレイディ警部から伝わったことも含めてある程度話をしていた。


 警察がマイク・コリンズの次に目をつけた男、失踪したネイサン・ダンについて、アーロンの勤務先であるザ・タラリアは真っ先に事情聴取される対象だった。だが、仕事に関しては社会部の人間のほうが詳しく、他部署の同僚にしては関わりがあるという程度で、プライベートをともに過ごしたこともほとんどなかったアーロンが、彼の交友関係や私生活について語れるようなことはほぼなかった。


 警察に訊かれてはじめて、アーロンは改めてネイサン・ダンという人間についてほとんど知らないことに気がついた。

 それなのに、彼には中途採用で記者になった理由をしゃべっていた。

 恋人を殺した犯人を追っていると。

 どうしてそんなことをしゃべってしまったのか、今になって不思議に思った。少なからず、ネイサンの人となりにほだされている面があったのか。そうでもなければ、アーロンが悪魔憑きであることを知っているごく限られた人にしか伝えていないことをわざわざ言うはずがない。


 結局、悪魔憑きであるネイサンの右腕をチェックすることも叶わなかった。


(まぁ、強姦するような奴がエリーを殺した犯人だとは思ってねぇが)


 だから、今回の事件を解決しても、目的の手掛かりが得られるとは露ほども期待していなかったが。


 結局、あの日から一歩も前に進んでいない。


 夢にまで見る光景が、脳を侵食しこびりついている。

 記憶の中で思いだせることについては、すべて手掛かりとしてきたつもりだ。


 特に、黒ずくめの男の腕に刻まれていた縦に長い六角形と十の丸が組み合わさったような意匠のタトゥー。生命の樹と呼ばれる、旧約聖書に登場する永遠の命を得られる木の実がなるとされる存在である。カバラにおいてはセフィロトとよばれ、万物を紐解く象徴とされている。


 それが一番大きな手掛かりのはずだ。

 だが、そんなタトゥーを刻んだ人間には、あれから一度も遭遇していない。情報すら入ってこない。


 そんなことを考えると、いつも思考はあの日の公園へ引っ張られる。血まみれで倒れ、赤い結晶に姿を変えた恋人の姿と、彼女の最後の言葉が、たった今耳朶に触れたかのように鮮明に思い返される。


『ごめんね』

『愛してる』


 彼女はどうして、あのとき謝罪の言葉を口にしたのだろう。


「ねぇ」


 ネルの声が、急に耳に届いた。


「すごく眉間にシワが寄ってるけど、そんなに今日嫌だった?」


 不服そうな表情で覗きこんでくる。


「そりゃあ、なけなしの貯金をおろしてきたんだ。それがお前の胃袋に消えると思うと、今から憂鬱だよ」

「それなら私に迷惑をかけるようなことをしなければいいのよ」


 恨めしげな視線を投げかけたが、涼しげな顔で受け流された。


「懲りたなら、これを機に心を入れ替えることね」


 ネル・ゴールドウェルは、一度決めたことに一切の妥協を許さない女だ。

 天使のような彼女の柔らかな微笑みは、アーロンにとって地獄のはじまりだった。早めにもう充分だと切りあげてくれることを密かに期待していたのだが、決してそんなことはなく、その細い身体のどこに収まっているのか疑問に思うほどの量の食べ物が、彼女の口の中に消えていく。


 財布の中身が軽くなっていくのに比例して、アーロンは生気を吸われ干からびた植物のようになっていった。


「なに伸びてるの、次行くわよ」


 テーブルに突っ伏しているアーロンの肩を叩き、ネルは席を立った。

 言葉になっていないうめき声をあげつつ、アーロンはふらふらとそのあとにつづく。

 今度はどんなスイーツ店に入るのかと、次のことを考えるだけですでにげっそりとしているアーロンだったが、その予想に反し、彼女が立ち寄ったのは小ぢんまりとした花屋だった。


 颯爽と店内に入っていったネルとは対照的に、アーロンはぼんやりと店の軒先を見あげた。今まで飲食店にしか立ち寄っていなかったのが、どういう風の吹きまわしかと疑問に思う。


 しばらくのあいだ、男が入るのは妙に気後れする可愛らしい店の前でたたずんでいたが、中から手招きされていることに気づき、仕方なく店内へと踏み入った。ちょうど、白を基調とした小さな花束がふたつ、店員によって見繕われているところだった。


「片方はあなたが払うのよ」


 花束をどうしてふたつも購入するのか、そしてなぜ全額おごらなくてもいいのか、意味がわからないままに、花束ひとつの代金を支払わされる。


「それじゃあ行きましょ」

「行くって、どこに」

「きっとあなたも行きたいと思っているところ」


 まったく意味がわからなかった。

 怪訝な表情を崩せないまま、アーロンはネルのあとをついていく。

 今まではレスター・スクウェア周辺を歩きまわっているだけだったが、次の目的地は徒歩では難しい場所のようで、ビッグ・ベンの辺りまで戻ってきた。近くに停めていた、赤い竜のペイントが目を引く深緑のコンパクトカーに乗りこんで、エンジンをかける。


 助手席に座るネルの案内で向かった先は、とある教会の共同墓地セメタリーだった。


「遺族の方にね、教えてもらったのよ」


 十字架や平板型の墓石が立ち並ぶ中を歩きながら、ネルがぽつりと口にした。お互い言葉数も少ないまま、ある墓石の前で立ち止まる。

 平板型のその墓石には〝ANNA BREESE〟という名が刻まれていた。命日や享年、彼女が安らかに眠るようにと想いがこめられた一言も書き添えられている。

 二八歳、若過ぎる死だ。


 ネルに促され、アーロンは先に墓前に腰を落とし、蹲踞の姿勢で花を供え、手をあわせた。

 木の葉が風で触れ合う、さわさわとした音だけが遠くで響く。

 すぐに腰をあげ、身を引いた。次に、ネルが墓前へ手をあわせる。

 かがんだ姿勢で、祈りにたっぷり時間を割いている彼女の後ろ姿を見ながら、アーロンは落ちつかない様子で自分の懐をまさぐっていた。その中から、小さな箱をひとつ取りだす。


「あなたのせいじゃないわ。どこまで突き詰めても、悪いのは彼女の命を奪った犯人、そうでしょう?」

「俺が気にしてるように見えるのか」


 じっと墓石を見つめていたネルが、おもむろに口をひらいた。アーロンはその背後で、しゅぼっという音を立てた。白い棒を口で挟み、大きく深呼吸をする。口や鼻から煙が漏れだした。背後から漂ういやな臭い感じ取ったらしいネルの眉根が寄る。


「それならタバコはやめなさい、故人に失礼よ」


 振り返り、彼女は真っ先にアーロンが口に咥えているものを指差した。

 紫煙をくゆらせていること自体が、気を紛らわせようとしている証左にほかならない。その事実を突きつけられ、アーロンは視線をそらしたまま、まだ吸いはじめたばかりの紙巻きタバコを口から外した。未練がましさのかけらもなく、それを指ではじく。瞬間、宙を舞った白い棒がボッと音を立てて燃え尽きた。


 ひときわ、強い風が吹き抜ける。

 舞いあがる木の葉に交じって、灰と煙が風に乗って流されていく。


「せめて、安らかに眠ってくれることを祈るばかりだわ」


 街の喧騒が遠くで響いている。

 静かな墓地は、まるでロンドンという大都市から切りだされているような感覚をもたらした。

 空を見あげると、途切れ途切れの雲間から太陽が顔を覗かせている。露に濡れた植物たちが、キラキラと光を反射する。柔らかな風が、頬をなでて流れる。その美しさが、妙に残酷なものに思えた。世界は無情にも、静かに時を刻んでいく。

 霧の都ロンドンは、これから快晴に向かっていく予報だった。



                             EVIL EYE ― fin ―

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