22. 愛 - The Love -

 アーロン・アローボルトは朝早くにロンドンを離れ、片道二時間以上かけ、ウィルトシャーの主要都市のひとつ、ソールズベリーへやってきていた。今日は、小うるさい黒い本は一緒ではない。人に預けて外出している。


 ネイサン・ダンと交戦した日から数日、ようやく日常の落ち着きが戻ってきた。


 あの日、アポロ劇場で電話をかけたノア・ブレイディ警部には、白昼夢で見たネイサンの祖父の家に向かうよう口添えした。もしかしたら、事件の手がかりが――最悪、警察もつかんでいない新たな遺体が出てくる可能性もある、と考えたうえでのことだ。


 もしそうなれば、事情聴取を受けることになるだろう。

 匿名の情報提供者として警察に通報したほうが、足もつかずまだましだったかもしれないが、ブレイディ警部ならオフレコで、個人的に話を聞いてくれる。加えて、彼ならどんな荒唐無稽な話も、事実として受け止めてくれる。警察がつかんでいる情報を聞きだすためにも、彼に話をするほうが最良だと判断した。


 鬼が出るか蛇が出るか、覚悟はしていたつもりだった。事実、アーロンがもたらした情報は、スコットランドヤードがひっくり返るほどの衝撃をもたらした。


 血相を変えたような声色のブレイディ警部から連絡が返ってきたことが記憶に新しい。


「なんでお前、マイク・コリンズの潜伏先を知ってたんだ!」


 ロンドンから西へ車で二、三時間ほど走った先にある小さな村。その村の僻地にぽつんと建っていたネイサンの祖父の家――名義は、ネイサンの母親のものになっていたらしいが、その家の地下室で、衰弱したマイク・コリンズが発見された。いきなり追っていた連続殺人事件の容疑者が現れ、現場はパニック寸前だったらしい。


 ブレイディ警部の執り成しのおかげで、情報提供者は匿名扱いにされたようで、アーロンがロンドン警視庁スコットランドヤードへ呼びだされることはなかったが、案の定、個人的に呼びだされ、正式な取調べと変わらない尋問を受けた。


 だがその見返りに、現職の刑事から話を聞くこともできた。


 彼の話によれば、マイク・コリンズは連続殺人事件の容疑者として緊急逮捕されたが、最初の現場検証だけでも不審な点がいくつもあったらしい。そもそも、ネイサン・ダンの祖父の家の地下室に隠れていたこともそうだが、地下室に行くには地面に据えつけられた持ちあげ式のハッチを開けなければならず、しかもハッチは施錠されており、コリンズはその鍵を持っていなかった。これでは、見つからないところに逃げこんだというより、何者かに監禁されていたと考えるほうが自然な状況だった。それを裏付けるかのように、コリンズは真っ先に、ネイサン・ダンという新聞記者に連れられ閉じこめられた、と言ったらしい。


 また、コリンズは三件目の事件であるはずの、恋人であるアンナ・ブリースが殺害され、遺体で発見されたことを知らなかったようで、衰弱した身でひどく取り乱し、過呼吸ののちに失神してしまうほどだった。その様は、とても演技には見えなかったという。


 地下につながるハッチを隠すように置かれていた冷凍庫の中に、血のついたナイフが放置されていたことから、コリンズ犯人説を支持する捜査員もいたようだが、ブレイディ警部は、コリンズは無実であると確信しているようだった。


 それよりもアーロンを驚愕させたのは、コリンズが監禁されていた地下室のさらに地中から発見されたものだった。


 それは、一体の白骨死体。体格や骨盤の形から女性と判断され、後日歯の治療痕から遺体はネイサンの母親だと断定された。おそらく死後十年以上。


 周囲の聞きこみの結果、ネイサンは母子家庭で育ち、幼いころに両親が離婚してから、母の実家に出戻ったらしい。そのころから、ネイサンは精神に異常をきたした母から虐待を受けて育った。結局母は、ネイサンが十歳くらいのとき、子どもを置いて失踪した。ということになっていた。


 虐待されていた子どもが〝親がいなくなった〟と言うと、ついに棄てられてしまったのかと、周囲の大人たちは素直に信じた。村では、母親は戻らないほうが互いのためだろうという認識が共通のものとして固辞され、失踪した母親を捜そうという動きにつながらず、大きな騒ぎにはならなかったとのことだ。


 結局、時間が経ってから警察が捜索を開始しても、当然のように手掛かりは一切見つからず、今日こんにちまで彼女は行方知れずだった。


「それが、自宅の軒下から見つかるとは。灯台下暗しとはまさにこのことだな」


 そう、ブレイディ警部は話していた。

 アーロンはその話を聞きながら、あの日邪眼によって見せられた白昼夢を思いだしていた。土壁と地面がむき出しになった地下室で、女性に馬乗りになった視点。拳を振りおろす姿。湧きあがる極上の快感と恍惚感。おそらく、あの光景は――白骨死体を生みだした張本人は――


 そこまで思い返してハッと我に返り、アーロンは追憶を遮断した。


 結局、当然のことだが、捜査の目はネイサン・ダンにも向きはじめた。もともと捜査線上にはあがっていなかったが、改めて捜査をするだけの価値はあると、警察も判断したようだ。


 どれだけ探してもネイサンが見つからないであろうことは、黙っておいた。警部には洗いざらいあったことを話してもいいが、それが警部に伝わったところで、警察という組織を動かすことにはなりえない。なんとか彼にできることは、コリンズの無実を実証することくらいだ。警察はロンドンに居もしないネイサンを、捜しつづけることになるだろう。


 さて、アーロンがソールズベリーへやってきた目的だが、マイク・コリンズに面会するためだった。


 発見時衰弱しきっていた彼は、治療のためにソールズベリー内にある大きな病院へ搬送されていた。発見から数日が経ち、医者の許可が出たために本日の午後にはロンドン警視庁へ移送されるとブレイディ警部から聞いたために、アーロンはここまでやってきた。


 待っていればロンドンに戻ってくる彼に自分から会いにきた理由はいくつかあるが、ロンドン警視庁に勾留されたあとだと、面会の手続きが面倒になってしまう。病院なら、関係者を捕まえて口頭で許可をもらうだけで済む。


 わざわざ会いにいこうと思った明確な理由はひとつだけ。

 ここ数日の騒動は、あの日ダリッジで彼に遭遇したことをきっかけにはじまった。あのとき、美術館へ行こうとしなければ、アーロンが今回の事件に絡むことはなかったかもしれない。そして、かつての記憶をあれほど鮮明に追体験することもなかっただろう。あれから数日経って、時間とともに落ち着くと同時に、純粋な憎悪と復讐心だけがふつふつと再燃していた。


 運命というものをいたずらに妄信しているつもりはないが、数奇な巡り合わせを感じずにはいられない。このまま一切の関わりを持たず、自分の生活に戻ることは可能だが、警察や検察の取調べで疲弊しているであろうコリンズを労うくらいはしておいても、バチは当たらないだろう。それに、マイク・コリンズには、ひとつ伝えておきたいことがあった。


 柄にもないことをしようとしていることを自覚しながら、アーロンは意を決して病院へと足を踏み入れた。


 受付でマイク・コリンズの病室を教えてもらい、その階に向かうと、すぐに警官が待機している病室が目に入ったために、スタッフステーションで再確認する必要もなかった。


 ブレイディ警部に口利きを頼んでいたため、彼の名前を出すとすんなり中へ通された。


「はじめまして」

 

 アーロンがそう声をかけると、個室のベッドに座り外を眺めていた男性、マイク・コリンズはゆっくりと振り返った。彼のこけた頬と落ちくぼんだ双眸は、まるで骸骨のような印象を受けた。彼の顔立ちは美術館にあった写真で確認済みだが、記憶にあった顔とは別人のように見える。本当にもう移送して大丈夫なのかという気持ちが湧いた。


 コリンズはアーロンの顔に見覚えがなかったようで、胡乱げな視線を向けてきた。もっとも、その反応はあらかじめ織りこみ済みだった。初対面のとき、コリンズはほとんど自我を失っているように見えた。アーロンのことを覚えていなくても、なにも不思議ではない。


 軽く咳払いをしてから、アーロンは口をひらいた。


「いきなりお訪ねして申し訳ありません。アポロ劇場の者ですが、コリンズさんとお話がしたく参りました」


 不慣れな丁寧口調で話をすると、コリンズは驚いた顔になり、肩をすくめた。


「どうして、劇場の人が……」


 コリンズにとっては、不倫相手の職場の人間がやってきた形になっている。いったいなにを言われるのかと身構えた、という心理が見て取れた。


「あなたは、うちに所属していたアンナ・ブリースと交際していたと聞きました」


 アーロンが劇場の人間を名乗ったのは、単にそのほうが話がしやすいと思ってのことである。

 コリンズが自分のことを覚えていないなら、いきなり記者の人間に面会されても、さらに困惑するだけだ。それに、馬鹿正直にザ・タラリアの記者であることを名乗ると、コリンズを監禁した男と関係があると感づかれ、面会を中断される可能性もある。己の素性を明かさず、かつ、アンナ・ブリースの話をするなら、アポロ劇場の職員を名乗るのが一番都合がよかった。


 ただ、コリンズはアンナの名前を出すと、さらに身を縮こまらせ、口を真一文字に結んだ。後ろめたい不倫関係を感知されたと思ったのだろうが、初っ端からこれでは、会話するどころではない。アーロンは少しだけ思案し、話の切り口を変えた。


「調子はいかがですか。取り調べはまだはじまっていないと思いますが、質問はされたでしょう。不当な扱いを受けたりは?」


 そう尋ねると、コリンズはうつむいていた顔をあげた。パチパチと目をしばたたかせてから、ゆっくりと口をひらく。


「いえ、そういうことは、特に……最近、記憶が飛んだりすることがあったんですが、精神分裂病のもあるからと、刑事さんが、クリニックも紹介してくれて」

「それはよかった」


 そのまま口から出かかっていた言葉を、アーロンは一度呑みこんだ。一呼吸置いてから、話を再開する。


「……あなたは、連続婦女殺人事件の容疑者になっていると思いますが。犯人ではありませんよね」

「違います……僕が、殺人を……アンナを、殺すなんて、ありえません。たしかに、彼女から別れを告げられて、喧嘩になったことは事実ですが……」


 ふるふると、コリンズは首を振る。


「彼女は、僕のすべてだったんだ」


 ふたたび視線を手もとに落とし、コリンズは地に落ちるような低い声で呟いた。


〝コノ女が僕を裏切ッた!〟


 初対面のとき、目の焦点も合わない状態でコリンズが叫んでいた言葉をアーロンは思いだす。そのときのことを思えば、決して明朗な光景ではないものの、少しは安寧を取り戻せているように見えた。


「少しは、落ち着かれましたか」


 アーロンは努めて、柔らかい口調を意識していた。もうひとりの自分が〝気持ち悪ィ〟と内心で己を腐す。もし黒い本ザミュエルが一緒なら、頭上で悪罵の雨を降らせていたことだろう。だが、第一印象を好転させるには、充分な効力があったらしい。コリンズは安堵したように一息ついて、手もとに視線を落とした。


「はい……ずっと、彼女のことを思い返していました」


 ふっと、病室に沈黙がおりた。コリンズの唇が、かすかに動く。声は出ていない。会話の内容を、必死に頭の中で構築しているようだった。そんな彼を急かすまいと、アーロンはただ黙って様子を窺う。


「あの、ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


 やがて、コリンズはぽつりと口をひらいた。


「彼女の……アンナの、仕事ぶりはどうでしたか。楽しそうでしたか」


 コリンズははじめて、まっすぐアーロンを見つめてきた。彼から向けられたその問いに、アーロンは内心で頭を抱える。

 記者として劇場に足を踏み入ることはあっても、観劇が趣味ではないアーロンは、アポロ劇場の舞台を見たことがなかった。アンナ・ブリースどころか、主役を張ることが多いネル・ゴールドウェルの仕事ぶりすら、アーロンには論評できない。取り繕って答えようとしても、確実にボロが出る。

 平静を装いながらも、頭の中はほとんどパニック状態だった。不審に思われないであろう答えを、脳をフル回転させて探す。


「えぇ……その、あなたは、どうでしたか。舞台の上の彼女を見に来られましたか」


 結局、なんとか絞りだした言葉は、コリンズに話をさせるほうへ誘導する、というものだった。その作戦は功を奏したようで、コリンズは食いさがってまでアーロンの答えを聞こうとはせず、おのずから話しはじめる。


「一度黙って、見に行きました……本当に楽しそうで……もう彼女に、僕は必要ないのだと思いました。でも、それを信じたくなかった……」

 

 ゆっくりと、コリンズは首を振る。


「彼女だけが、僕の味方でいてくれた」


 言葉を噛み締めるような声色だった。


「家にも、職場にも居場所なんてない……妻はまだ小学生の娘に、僕の悪口を吹きこむんだ。家に帰っても、妻だけじゃない。自分の子どもにさえ邪険にされる始末さ」


 情けない、という自嘲の念が、コリンズの口から漏れた。


「そんな僕を、彼女は救ってくれた。生きている実感を与えてくれた」


 面会室に入ってきたときのコリンズは、げっそりとした顔のうえ顔色も蒼白としていて、まるで生気が感じられない骸骨のようだったが、今はその顔も紅潮し、全身を血が巡っている様が外からもありありと見て取れた。アンナ・ブリースのことを思い返し、それを口に出すだけで、彼の身体は熱を持ち、生き生きとしている。


「出会いは本当に、平凡なものでした。彼女が、私が働いている美術館にお客様として来館して、そのときに彼女はイヤリングを紛失して、一緒に探したのが、きっかけで」


 彼はほとんど、アーロンのことを見ていなかった。自分の記憶をなぞり、ただ独り言を口にするように話しつづける。


「お祖母さまの形見だというそのイヤリングを私が見つけたとき、彼女は弾けるような笑顔で、感謝を述べてくれました。本当に素敵な笑顔で……今でも、はっきり思いだせます」


 そう言って、コリンズは目を伏せる。


「もちろん、人道にもとる交際であることは、自覚していました。でも、どうしようもないほど、好きになってしまったんです」


 意外なほどコリンズは饒舌になっていた。アーロンは静かに、彼の話に耳を傾ける。彼は、誰に語るでもなく、ただ自分の記憶をなぞり、自分に言い聞かせるように話をつづけた。


「彼女は、僕の家庭の悩みも、ただ黙って話を聞いてくれました。まっすぐ芯のある彼女の人柄は、優柔不断な僕にはない、素晴らしい魅力でした。そんな彼女が、僕のことを好きになってくれた。本当に、天にも昇る気持ちで……お互いに惹かれ合ったのは、運命だと思いました……彼女と一緒にいるだけで、本当に幸せで……ふたりで助け合って生きていくべきなのだと、確信したはずでした。でも、彼女は……」


 一瞬にして、コリンズの表情は、ぞっとするほどの絶望感をにじませた。


「コリンズさん」


彼がキュッと口を結んだところで、アーロンは声をかける。


「彼女は、あなたのことを最期まで気にかけていました。自分の夢を選んだことを、最期まで詫びていました。でもそこに、後悔はありません。彼女は、あなたを愛したひとりの舞台女優として、その生涯を終えました」


 柄にもないことを口走っている。その自覚はあった。だが、それを伝えるためにここまでやってきた。事件現場でなんとか拾いあげた、彼女が遺した思念を伝えるために。


 コリンズは虚を突かれたように、茫然とした顔になった。だが、劇場の職員を名乗っていたからか、知り合いではない男によるその言葉も、いぶかることなく受け入れたようだった。目には水の幕が張り、それは瞬く間に滂沱の涙となってあふれだした。コリンズは肩を震わせながら、やがて、意を決したように口をひらいた。


「彼女を愛したりしなければ、こんなことにはならなかったんでしょうか」


 地に落ちるような声が漏れる。


「あのとき、彼女の決別を私が受け入れていたら、こんなことにはならなかったんでしょうか」


 コリンズは、あの日のダリッジの公園を思い浮かべている。

 なんとなく、アーロンはそう思った。


「僕が、彼女の未来を奪ったんだ……!」


 嗚咽があふれる。

 肘をつき、うずくまり、握りしめた両手を額にこすりつける。まるで祈りを捧げ懺悔するかのような姿勢で、マイク・コリンズは慟哭を響かせた。

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