21. 終わりのはじまり - The beginning of the end -

「あ……う、おァ……」


 口からだらだらと唾液が垂れ落ち、涙や汗、鼻水までもが顔からあふれだす。夢か現か判別ができない状態で、アーロン・アローボルトは身体の穴という穴から液体が漏れる感覚だけを認識していた。


 自分が地面に倒れていることにすら気づくのが遅れた。なんとか顔を持ちあげて、周囲を確認しようとする。かすんだ目に映ったのは、離れたところに転がっている黒い本と、教会の広場を出ていこうとするネイサンの背中だった。


「ゲホッ、ゴホッ!」


 待て、と声を出そうとしたそのとき、喉からは声の代わりに咳が飛びだした。その音に、ネイサンが振り返る。もぞもぞと身を捩っているアーロンを目にしたネイサンは、その目を少しばかり見ひらいた。


「まさか。こンなに短い時間で意識ヲ取り戻スとは。症状からして、確リとトラウマを抉られたヨウだが……なるほド、悪魔憑きとしての素養は確からしイ」


 アーロンは起きあがることもできないまま、揺り起こされた過去の記憶に打ちひしがれていた。今まで、過去の記憶を夢に見たことは何度もあったが、今、無理やり見せられた白昼夢は、五感が現実と認識するほどに生々しいものだった。


 ただ、ひとつ腑に落ちない。公園での出来事はたしかに自分の記憶だが、後半の記憶は自分のものではなかった。だが、土壁に囲まれた中で女性に暴行を加えていた目線は、確実に自分のものだった。

 もう一度思考を巡らせ、これまでの自分の人生にそんな記憶はないことを確かめる。とはいえ、脳が勝手に作りだした映像だという気もしない。女性を殴った感触がまだ手に残っているような現実感がある。その女性は、知らない人だった。そしてその女性を、夢の中の自分は母親だと認識していた。


 まるで、べつの人間の記憶を追体験したような、そんな感覚。

 あの記憶は、もしや――


「さテ。眼でも死なナイトなると、直接手を下すほかなイカ」


 耽りそうになっていた思考は、近づいてきた声と足音に寸断された。視線をあげると、離れていたネイサンが戻ってきている姿が目に入った。顔に貼りついている笑みからは、隠しきれない殺気が漏れでている。


 アーロンはなんとか距離をとるために後ずさろうとしたが、身体がうまく動かない。意識を失っていたせいか、あらかじめ張っていた認識阻害や魔力遮断壁も解除されてしまっていた。これでは、街を歩いている無関係な第三者が、偶然顔を出す可能性も、ほかの悪魔憑きが介入してくる可能性も充分に考えられる。


 倒れたままのアーロンは、ネイサンに胸ぐらをつかみあげられ、無理やり膝立ちの状態にさせられた。ひどい眩暈のような症状にさいなまれている今のアーロンに、ネイサンの腕を振りほどく力は残っていない。

 視界は霞み、時折白く飛びながら、ぐるぐると回転を繰り返す。そのたびに先ほどの白昼夢の映像がよみがえり、目尻からは一筋の水滴がこぼれ落ちた。目に映っているはずのネイサンの顔を、アーロンはほとんど見ていなかった。


「さァ、ここで終わる己ノ人生ヲ悔やむがいい」


 耳障りな声が耳をなぞる。

 こんなところで終わってたまるか。まだ本懐に手すら届いていない。彼女を殺害した黒ずくめの人間のことも、その右腕にあったタトゥーのことも、彼女がどうして殺されなければならなかったのかということも、なにひとつ。

 ネイサンが悪魔憑きになった経緯を訊きだすことも、その右腕を確認することすら満足に為せない。

 もし、目の前の男がその犯人だったらどうするんだ。

 そう思っても、身体は思うように動いてはくれない。己の不甲斐なさに、アーロンは顔を歪ませる。


 なんとか、手のひらに魔力を集めようと意識を集中したとき、ネイサンがアーロンの腕をつかんだ。


「ぐ、ぅ……!」

「この腕をもぎ取レバ、貴様はハなにもできなくなるノか?」


 万力のようにギリギリと締めあげられ、痛みに耐えかねたアーロンは奥歯を噛み締めた。人間の腕力で人の腕をもぎ取るなど不可能だろうが、悪魔がその肉体の権を握っている今、脳のリミッターを外し、宿主が持っている以上の力を発揮してもおかしくはない。その瞬間がもうすぐそこまでやってきていることを、悲鳴をあげる腕が訴えている。


 自分が手のひらから雷や炎を射出しているのだ。悪魔憑きになったときからすでに、この世界はなにが起きても不思議ではないのだと、認識を新しくしていた。

 なんとか逃れるしか助かる術はない。

 グッと力を込め、ネイサンの腕をつかんだ、そのとき。


 ギャギャギャギャギャンッ! と、耳をつんざく音が響いた。


 なんとか目線を遠くへ向けると、広場のすぐそばに、救急車のようなトラック型の車が乗りつけてくる光景が映った。その車体は全面が鈍色で、闇に溶けるような雰囲気を湛えている。見るからに救急車ではないというのは、すぐに理解できた。


 その車は、荷台のリアドア部分をふたりがいる教会の広場へ向けて停車した。ネイサンは首だけをそちらに向けたまま、怪訝そうな顔で車を睨みつける。


 トラックの両開きになっているリアドアが、ひとりでにゆっくりとひらきはじめた。荷台の中は暗く、目を凝らしてみてもなにがあるか判別ができなかった。車から人が降りてくる様子もない。ただ、鉄錆のようないやな臭いが鼻孔を衝いた。


「いったい、なンダ――」


 ネイサンが問おうとした瞬間、暗い荷台から幾本もの太く黒い鎖が目にも止まらぬ速さで伸びてきた。それは躱す間もなくネイサンの四肢を捕らえ、荷台へと引きずりはじめる。


「なんッ――!?」


 ネイサンの目から緑色の魔力が噴出する。が、とどめと言わんばかりに、その顔に太い鎖が巻きついた。


 ネイサンの身体が鎖に締めあげられる状況に乗じ、アーロンは己の胸ぐらをつかんでいたネイサンの腕を振りほどいた。反動で尻餅をついてしまい、明らかな隙を晒したが、鎖はアーロンを捕らえることはしなかった。


 アーロンが射出した鎖を易々とちぎった悪魔の膂力をもってしても、灰色の救急車の黒い鎖を破断することは叶わないようだった。それどころか、鎖の力に負け、じりじりとトラックの荷台に引きずられていく。マスクのように顔を覆う鎖の隙間から、相変わらず緑色の魔力が噴きでていたが、邪眼の力は無生物には通用しないようで、ネイサンに憑いた悪魔には打つ手がないといっていい状況だった。


「クソッ、ブンレイでさえなけれバ、こンなモノッ――!」


 身を捩ろうとし、なんとか逃れようとするネイサンだったが、ついに暗い口をぽっかりと開けている荷台に腰が乗った。足が浮いてしまったことで粘りもむなしく、そのときは一瞬で訪れた。ネイサンの身体が荷台の暗闇へ呑みこまれ、両開きのリアドアが静かに閉じていく。


 それと入れ替わるようにして、トラックの運転席と助手席の扉がひらいた。中から、フード付きの灰色のローブに身を包んだ人物がふたり降りてくる。ふたりとも顔には灰色の仮面を着用しており、その素顔を認めることはできなかった。


「もうひとり、悪魔憑きのようだがどうする。呑まれてはいないようだが」

「こんな街なかで騒ぎを起こす問題児だ。連れていったほうが世のためってモンだよ」

「近くに車はないが」

「ろくに動けやしねぇヤツなんざ、一緒に荷台に放りこんどきゃいい」


 白ずくめの人間たちは、アーロンのことを話題にしながらも、アーロンをよそに話をする。声からすると、ふたりとも男のようだった。


 灰色の救急車。

 それに捕らえられた者は二度とロンドンに戻ってくることはできないと、都市伝説のようにまことしやかに囁かれている存在。その実情は、悪魔憑きを捕らえ、ロンドンここではないどこかへ幽閉することを生業としているもの。

 アーロンも詳しくはない。

 ただ、気をつけろと言われていただけで、こうして邂逅するのははじめてのことだった。


 己の身に、ネイサン以上の危険が迫っていることだけはわかる。こちらの命を狙っていた死神をべつの死神が追っ払っただけで、状況はなにも好転していない。


 もとよりあてにするつもりはなかったが、無言で転がっている黒い本は糞の役にも立ちそうにない。なんとか、己の力だけで魔導のひとつでも発動して、逃げるための時間を稼がなければ――そう、頭だけは前向きになっていたそのとき。


「ちょっと待ってもらえる?」


 凛とした女性の声。

 アーロンを含めた三人の視線がそちらへ向いた。


「あなたたちの仕事は、市井に混乱をもたらす悪魔憑きを捕まえることじゃなかったかしら。たしかにその男は悪魔憑きだけど、絡まれていただけの被害者よ。見なさい、全身泥まみれになって。こんなのが街で暴れられる悪魔憑きだなんて思わないでしょう」


 すらすらと語る彼女の名は、ネル・ゴールドウェル。

 すぐ近くにあるアポロ劇場を拠点にしている劇団の舞台女優。


 そして。


 灰色の男たちは認識していないようだったが、アーロンの目には彼女のそばに浮かんでいる、白い魔導書が映っていた。表紙には、金属板を彫刻した植物とおぼしき意匠が施されており、その中央には、目を閉じた天使のような美しい顔のレリーフがあった。


 その白い本はネルのそばを離れ、ふわりとアーロンのもとへ寄ってきた。


『ずいぶんひどい状態だな。そこに転がっている黒い本は、なんの役にも立たなかったらしい』

『だぁれがクソの役にも立たねぇ無能だゴルァッ!』


 白い本から男の美声が響いた瞬間、地面に転がっていた黒い本がビクリと震え宙に浮きあがった。


『私はそこまでは言っていないが。自白するのは自覚があるということだろう』

『テメェこそ肝心なときに来やがらねぇでノコノコと! 劇場はすぐ近くだろうが! どうせあれだろ、ピンチに颯爽と現れる映画みたいな演出のために陰から見物してたんだろ! 要らねぇんだよフィクションを現実に持ちこむな!』

『意味がわからない。丁寧に魔力遮断壁まで張られていたから、気づかなかっただけの話だ。アローボルト、また腕をあげたな』


 美声と下卑た声が口論する様を、アーロンは死んだ顔で見つめていた。なにやら、ネルと白ずくめの男たちが話をしているようだが、本どうしの言い争いのせいでほとんど耳に届いてこない。


「ミス・ゴールドウェル。いくら君の言葉でも、同意しかねるな。危険な芽はあらかじめ摘んでおくのが一番だと思わないか」

「えぇ、それはそうね。でもここは、私に免じて見逃してくれないかしら。よく言って聞かせておくから」

「だが……」

「それじゃあこうしよう! 姉ちゃん、ジョーカーの居場所を教えてくれねぇか。そうしたら、この男は見逃してやるよ。どうだ、悪い話じゃないだろう」


 明るい声色の男が口を挟んだ。


「……どうして私に訊くのか理解ができないけれど。あの有名な男よね? どこにいるのか見当もつかないわ。見かけたら教えてあげる、くらいのことならできるけど」


 ネルの返答に、灰色の男たちは顔を見合わせた。


「……わかった。それで手を打ってやろう。もともと荷台も定員一名だしな。その悪魔憑きのことは好きにするといい」

「それでは、協力を期待している」


 二冊の本が口論しているあいだに、灰色の男たちはきびすを返し、灰色の救急車へと戻っていった。


 ネルは小さく息を吐き、ひとりと二冊の本のもとへ足を向ける。宿主に気づいた白い本は、黒い本ザミュエルの相手をするのをやめ、ネルのそばに舞い戻った。


「なんで、見逃してもらえたんだ……」


 近づいてきたネル・ゴールドウェルに、アーロンは地べたに座ったままで尋ねた。


「定員がひとりだからって言ってたけど。それよりこの状況、洗いざらい話してもらえるかしら」


 ネルの声色には棘があった。それもそのはず、いくら了承したとはいえ、彼女は殺人犯を誘きだすためにこんな遅い時間まで劇場で待機していた。その待っているあいだに、アーロンが劇場からほど近い場所で戦闘。認識阻害と、ご丁寧に魔力遮断壁を敷いていた。前者は悪魔憑きには通用しづらいため、後者は悪魔憑きの、特にネル・ゴールドウェルが戦闘に介入しないために発動したものだった。


 もともと、犯人と対峙する気があったからこそ、ネルは囮になることを了承した。それなのに、知らないあいだに作戦が片付けられていたとなれば、彼女が憤るのも当然といえる。だが、今のアーロンは、呑気に話をしている気分ではなかった。


 後半の白昼夢は自分の記憶ではない。あれは、ネイサンのものだという直感と、確信があった。ネイサンが土壁に囲まれた地下牢で母親に暴行を加えていた。手加減などは一切ない。明確な殺意を持って、拳を振りおろしていた。


 それがいつ起きたことなのかは定かではない。だが、実際に起きたことならば、明らかになっていない犯行がもうひとつあったことになる。


 そしてその現場が、ネイサンの祖父の家であることも、その家がイングランドのどこにあるかも、邪眼に見せられた白昼夢の中で直感していた。自分の足で向かってもいいが、あいにく、車やバイクを駆るほどの気力も体力も残っていない。


「それより、警部に連絡する必要がある。一番近い公衆電話、どこだ」


 アーロンはよろよろと立ちあがり、ネルを一瞥した。彼女は額に手を遣って、小さくため息をつく。


「そんなドロドロの格好で、公共の電話なんて使わないでくれる? すぐそこだから劇場に来なさい。シャワーも着替えもあるから」


 有無を言わさないネルの凄みに、アーロンはおとなしく、彼女のあとをついていくほかなかった。

 出ていったばかりのネルが男を連れアポロ劇場に戻ってきたことに、夜勤の警備員はぎょっとした様子だったが、ネルは説明も後回しにし、アーロンをバックヤードの奥へ押しこんだ。


 己の汗や涙、鼻水など、あらゆる体液で汚れた服をまとっていたアーロンにとって、シャワールームの貸与は素直にありがたいことだった。ネルが用意していた着替えは、おそらく男優が衣装として着ているであろうかっちりとしたシャツとスラックスで、すっかりスーツを着る機会を失っていたアーロンからすると堅苦しいことこのうえなかったが、これから電話まで借りる人間が、文句を言える立場ではない。


 こんな深夜に、人の自宅に電話をかけるのは迷惑でしかないという自覚はあった。ゆえに、呼びだし音が鳴っているあいだ、アーロンは妙な緊張感を覚えていた。しばらくして、受話器があがる音がする。真っ先に聞こえてきたのは、女性の声だった。


「夜分に申し訳ありません。ブレイディ警部のお宅でしょうか。アーロン・アローボルトという者ですが――」

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