20. 白日夢 - Daydream -
「……ぇ、ねぇ」
心地良い女性の声が、耳に届く。
「ん……?」
少し、ぼんやりしていたのか。二、三度まばたきする目に映ったのは、こちらを怪訝そうに見つめる女性の顔だった。
木々の間からキラキラと木漏れ日が降り注いでいる。風にそよぐ木の葉がさらさらと揺れている。遠くから子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。
目の焦点がゆっくりと合うように、少しずつ記憶が鮮明になる。
アーロン・アローボルトは大きな木の下にあるベンチに座り、可愛らしいバスケットを手にしていた。自分の身に視線を落とすと、グレーのスーツに青いネクタイ、茶色の革靴というフォーマルな服装に身を包んでいる。
昼休みにシティ・オブ・ウェストミンスター区内のとある公園で待ち合わせ、恋人とピクニックを楽しんでいる最中だった。色とりどりの料理が入ったバスケットは、彼女が作って持ってきてくれたものだ。
「今の話、聞いてた?」
艶のあるブロンドのショートヘアが風になびく。
ふわりと甘い石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。
彼女の大きな
「あ、あぁ」
「もう、嘘ばっかり。どうしたの? ボーっとして」
「ん、いや。なんでもない。弁当が美味かったから」
「そう? それでね……」
コクコクと頷くアーロンを怪訝そうに見つめる彼女だったが、追及もそこそこに話題を戻した。同僚の男性が男手ひとつで病弱な娘を育てているという話を、感心した様子で語っている。
もそもそとサンドイッチを頬張りながら黙って話を聞いているアーロンだったが、彼女の話題にあがっているのは見も知らぬ男。それが彼女に称賛されていることに、少しずつヘソを曲げていく。
「俺だって、家族ができたらまとめて守れるくらいの甲斐性はあるつもりなんだけどな」
口を衝いた言葉は、存外ムッとした声色になってしまった。
「ふふ、ごめんなさい。あなたと比べてるわけじゃないの」
子どものように口を尖らせるアーロンに、彼女は楽しそうに笑う。
「もちろん、あなたが立派な男性だっていうことは、私が一番わかってるから」
彼女のその言葉に、アーロンは〝しまった〟とバツが悪そうな顔になった。
「べつに、褒められたくて言ったわけじゃあ……」
「うん」
ガシガシと頭を掻いてそっぽを向いたアーロンを見て、彼女は柔らかい笑みを浮かべたまま頷いた。
緑にあふれた大きな公園は、ロンドンという大都会の中にあって、時間の流れが緩やかに思える場所だった。
遠くで遊んでいる親子を、黙って見つめる。
いつかは自分もあんな風に、人の親になれる日が来るのだろうか。
横にいる彼女を見遣ると、彼女も柔らかい笑みを浮かべて親子を見守っていた。穏やかでのどかな沈黙が流れる。
〝あなたと一緒に過ごす、静かな時間が好きなの〟
交際をはじめたころ、口下手ながらに話を繕おうと四苦八苦していたアーロンを救った彼女の一言だ。今でも、細部の声色まで鮮明に思い出せる。
派手な遊びは必要ない。なにもしていなくても、ただ一緒にいられるだけで幸せだった。
いつまでも、この幸せがつづくと信じていた。
「今日は、ありがとうね。私の無理に付き合ってくれて」
「いや、それは全然問題ねぇけど……べつに公園じゃなくて、カフェでも美術館でもよかったのに。まぁ俺は、エリーの手料理が食べられたから満足だけどよ」
「私が、あなたと一緒に公園でお弁当を食べたかったからいいの」
アーロンが最後のサンドイッチを平らげるのを待ってから、彼女はニッコリと笑った。
今までの時間を惜しむようにか、空になったバスケットを片付けるふたりの手は、心なしか緩慢だった。片付け終えてしまったら、解散になってしまう。名残惜しい気持ちが、前面に出てしまっていた。
「送るよ」
「ううん、大丈夫」
必要以上に丁寧に荷物をまとめあげ、周りに落としたゴミがないか確認もし終えたあと、荷物を手に立ちあがろうとしたが、彼女は小さく首を振った。
「ちょっと、このあと用事があるの」
「それなら、途中まででも」
「お仕事、用が終わり次第戻ってこいって言われてるんでしょ? 無理に連れだした私が言うのもなんだけど、あんまり遅くなったら悪いよ」
「俺が外で弁当食いたかっただけだから、エリーが気にする必要はねぇよ」
小鼻をうごめかせ言ったその言葉に、彼女はクスリと笑った。
「ふふ、ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
屈託ない笑顔でそう言われると、強引に我を通すほうが野暮な気もしてくる。
「……わかった、それじゃあ気をつけてな。帰ったら連絡するから」
「うん」
それぞれ、逆方向の出入り口に向かって歩きだす。幸せの詰まった公園に後ろ髪を引かれながら、アーロンは公園の南出口へ向かう。
特に、緊急を要する事件が起きているわけでもない。たしかに長めの昼休みをもらって外に出てきたが、このまま素直に戻るのは、夢から現実に引き戻されるようで、妙に足が重くなる。
公園の敷地を出る寸前、ふと、背中にかすかな熱を感じた気がした。思わず振り返った視界に映るのは、赤い閃光。地から天に向かってほとばしる、稲妻のように見えた。彼女が歩いていった方向だ。妙な胸騒ぎに、アーロンはきびすを返し駆けだした。街路樹が密集するエリアをまっすぐ突き進む。ふと、視界に映る光景に違和感を覚えた。
公園には家族連れなどたくさんの人がいたはずが、人ひとり見当たらない。まるで世界からはじき出されたような錯覚に囚われる。嫌な予感がどんどん膨らんだ。
不思議と人の姿が消えた公園の中で、ようやく人の影を捉えたとき、目に入ってきたのはおそらく一組の男女だった。正確には、男であろう高身長の人物と女性、だ。男のほうは真っ黒な外套にすっぽりと身を包み、ご丁寧に黒い手袋をはめ、フードまで被って正体を隠している。遠目には、まるで抱きあっているようにも見えたが、異様な光景であることはすぐに理解できた。
女性の胸を、男の腕が貫いている。
その女性の服装が、先ほどまで一緒にいた彼女のものだと理解した瞬間、目の奥が沸騰するほど熱を持ち、視界がぐにゃりと歪んだ。
彼女が外套の袖を掴み、男の耳もとへ顔を寄せた。急に男がビクリと身を震わせ、咄嗟の様子で腕を引き抜く。彼女の胸には大きな風穴が空き、支えを失った身体はゆっくりとくずおれた。同時に、彼女がつかんでいた外套の袖がほつれるようにちぎれる。破れた袖の下から覗いた男の右上腕部から、異様なものがあらわになった。
縦に長い歪な六角形に、いくつもの小さな丸が組み合わさったような意匠のタトゥー。
それが、いやに目に焼きついた。
返り血でぬらぬらと光る男の黒い手袋は、赤い宝石のようなものを握っていた。それを素早く懐に押しこむと、男はきびすを返した。その瞬間、アーロンの身体がビクリと跳ねる。
「待ちやがれ!」
逃げられる。
そう思った途端、一気に現実に引き戻された。しかし、黒ずくめの男の足が止まることはない。外套から噴出した黒いもやのようなものが男を包みこみ、そして消えた。
現実とは思えない、魔法のような出来事に思考が追いつかない。ふらふらと、倒れている彼女のもとへ歩み寄る。
「アー、ロン……」
おそるおそる、震える手で彼女の血まみれの手を握ると、か細い声が返ってきた。
彼女はまだ生きている。
全身の血液が沸騰するような感覚が生じた。
「大丈夫だ! すぐ医者に連れていってやるからな! 死ぬな! エリー!」
ギュッと手を握りしめ、懸命に喋りかける。彼女の胸に開いた穴は、目に映らなかった。無意識に視界に入れようとしていなかったのかもしれない。認めてしまえば、風前の灯火が消えてしまうような気がして。
「ごめん、アーロン……ごめんね……!」
透きとおりそうなほどの青白い顔で、彼女は必死に笑顔を作った。
「なに言って……!」
「私は、本当に幸せだった」
か細くも、力強い声だった。
その言葉に、アーロンの視界がぼやけていく。
目に映る彼女がじわりと滲んでいく。
「俺たちはこれからだろ! これからもっと……!」
気づけば滂沱の涙があふれていた。嗚咽が交じり、言葉がつづかない。
自分にはなにもできない。瀕死の恋人を前にして、なにもしてやれることがない。
無力さと情けなさが、とめどない涙となって流れた。
涙でグシャグシャの顔を、白く細い手がなでる。アーロンの腕の中で横たわる彼女は、普段となにも変わらない、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「アーロン、愛してる。ずっと――」
それが最期の言葉だった。
頬に当てられていた手が、静かにさがっていく。彼女の身体には赤いヒビが入り、瓦礫のように崩れていった。肉体が赤い結晶と化し、砂のように風化する様を、アーロンはただ見送ることしかできなかった。
手のひらの間から、彼女だったものがこぼれ落ちていく。身体の奥底から、血を吐くような叫び声が轟いた。
この現象はなんだ?
どうしてこんなことになった?
さっきの黒ずくめの人間は誰だ?
エリーハドコニイッタンダ?
筆舌に尽くしがたいほど荒れた精神状態の中で、疑問が絶えず湧いて出てきた。が、それに答えてくれる者はいない。
これは夢だ。
ヒトがいきなり崩れて消えるなど、現実にはあり得ない。
叫びと嗚咽がゴボゴボとあふれていた口から、引きつった笑みがこぼれた。
最後に残ったものは、彼女が身に着けていた衣服と靴、いつも肌身離さず大事にしていた黒曜石のペンダントだけだった。
震える手で衣服とペンダントを胸に抱く。その陰から、地面に転がっている深紅の宝石が顔を覗かせた。黒ずくめの男が手にしていたものとよく似ている。吸いこまれそうなほど深い赤色に、いざなわれるようにゆっくりと手を伸ばす。彼女が遺した欠片は、太陽の光を反射しキラキラと輝いている。
石に触れた瞬間、世界が万華鏡のように煌めいて、
ブツン、と妙な音とともに、真っ赤に染まっていた視界が暗転する。
真っ赤に染まり、なにも見えなかった視界が、少しずつ視力を取り戻していく。ぼんやりと映る光景は、緑豊かな林の中だった。ぽっかりとひらけた空間の中に、一軒の古い家がぽつんと建っている。
陽の光がキラキラと反射して、幻想的で美しい光景だった。だが、どういうわけか、心の中は不安でいっぱいだった。目の前にそびえる平屋の家が、まるで伏魔殿のように見える。その原因が理解できないまま、視界が飛んだ。
一瞬の空白を経て、まず五感の中で最初に働いたのは嗅覚だった。むせ返るような土の匂いが充満している。目を開けている感覚があるにもかかわらず、真っ暗でなにも見えない。心の中は、恐怖と絶望で埋め尽くされていた。すり減った心は身体にも影響を及ぼし、基本的な思考もままならない。ただ脳裏に情報が雪崩れこんでくる。
青い目が、気に入らなかったらしい。
自分を捨て逃げた男によく似たその目が。
目が合うだけでヒステリックに罵られることも珍しくなかった。
許しを乞うても届かない。
涙で訴えても逆効果。
理解ができなかった。理解できないまま、いつしか本当に、積怨が詰まった悪意ある視線を向けるようになった。
いったい、どれだけの時間が過ぎたのか。恐怖と絶望はいつしか諦観に変わり、どす黒い感情が澱のように溜まっていった。
真っ黒な視界で、白い火花が散りはじめる。
気づいたときには、衝動が弾けとんでいた。それは、神の思し召しがあったわけでも、救いの手が伸びてきたわけでもない。溜まりに溜まったどす黒い感情が衝動となり、果ては暴力に姿を変え、現れただけだった。オレンジ色の明かりが灯る土牢で女を押し倒し、振りかぶった拳を一切の手加減なく、その顔に振りおろす。
女の顔からは鮮血が散り、その血は拳を赤く染めた。弱弱しいうめき声が耳をなぞるたびに、言いようのない愉悦感と、感じたことのない恍惚感が脳を震わす。全身を駆け抜けた快感に、身体の中心が白く染まる。まさしくそれは、天にも昇る思いだった。何物にも代えがたいその甘美な快感は、脳髄の奥の奥にまでこびりついた。
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