19. 夜に落ちる - Fall into the night -
「オレをコケにするから悪いんだ。体格も、力も、なにひとつオレに勝てないくせに、まるで自分が上位の存在であるかのように振る舞う。そんなヤツが一転、弱弱しく哀願する様がたまらなく心地よかった」
額に脂汗を浮かべ、口の端から唾液を垂らして倒れている男など警戒に値しないということか。ネイサンはアーロンから視線を外し、暗い夜空を見あげてから舌なめずりをした。そして、ふっと無表情に変わる。
「あの女……ほかの男とデートしてやがったから、問い詰めたらオレを都合のいいスペアだって言い放ったんだ。そのまま、オレのすべてを否定する言葉の雨あられをぶつけてきやがった。温厚で優しいと思っていた顔がぱっくり割れて、中から悪魔が飛びだしてきたようにしか見えなかった。あぁ、同情なんていらないぜ。そのときのオレは最高潮だったんだ。我を失ってた……警察がオレにたどり着くのも時間の問題だと気づいたときには、もう遅かった」
ネイサンは、いつも以上に饒舌だった。悪魔の力を得たという全能感が舌をまわしているのかもしれない。
「オレは無意識に邪眼を発動し、あいつの自由を奪って……」
うつむき、肩を震わせながらネイサンはくつくつと笑う。記憶をなぞっているであろうことは容易に想像がついた。
「まぁ結局、夢にまで見た
「どういう、意味だ……!」
「とにかくあれだ。いつ悪魔憑きになったか、自分でもわからねぇんだ。まさしく覚醒したそのときにはじめて、内なる悪魔と接触したからな。いつオレが、どうやって悪魔憑きになったかってのは、答えたくても答えられない」
残念だったな、とネイサンは笑う。
「まぁ、そんなことはどうでもいいんだ。オレは力に目覚めた。悪魔の力を使った犯罪なんて、捕まりようがない。これでオレは、オレの夢を果たすことができる」
「夢、だと……?」
「アーロン。お前は、天にも昇る感覚ってのを味わったことがあるか?」
いきなりの問いに、アーロンは返す答えに窮した。ただ、ネイサンも返答がほしかったわけではないようで、つらつらと話をつづける。
「オレはある。一度だけな」
ネイサンの表情がわかりやすく弛緩した。
「それをもう一度味わいたいんだよ。ずっと、ずっと我慢してきた。いつも喉が渇いてるような感覚なんだ。本当にあれは、甘美で、魅惑的で、倒錯しなけりゃ決して味わえない――」
「もういい」
今までの事件のことを考えると、ネイサンがなにを言わんとしているか嫌でも理解できた。
「まぁそう言わずに聞けよ。お前には感謝してるんだ、アーロン。だからこうして話してやってるんだぜ」
軽く両手を広げ、ネイサンは虚空に視線を這わせた。
「オレの目的は、ふたり殺ったくらいじゃ果たせなかった。それなのに警察に捕まってる場合じゃない。サラとは無関係のモリスンを殺って、通り魔の犯行に見せかけようとはしたが、それは希望的観測でしかなかった。結局、被害者とオレの関係が露呈すれば、オレは捜査の槍玉にあがる」
そんなときだ、とネイサンは下卑た笑みを浮かべる。
「アーロン。お前が、オレがばら撒いた邪視に適合した男と遭遇した。それがサラの同僚で、女と諍いのある男だったなんて……天はオレに味方しているとしか思えなかった。世界はオレの夢を叶えたがっていると思った。それからは、お前の想像どおりだよ。その男に、罪を被せようとした。いや、今もそうしている最中だ」
ネイサンは目を細め、酩酊したような吐息を吐く。
「ネルが、オレのことをあんな風に……罵詈雑言を叩きつけてきた。全身が打ち震えるような思いがした。今でもはっきりと思いだせる。切れ長の目の威圧感と、艶のある唇から飛んでくる悪罵の数々……あのネルがオレに屈したとき、どんな顔になって、どんな声を出すのか、楽しみでしょうがない」
ネイサンの頬は上気し、身体はかすかに痙攣していた。
「ネルなら……あの女なら、オレの夢を叶えてくれるはずだ。お前が、ネルと懇意なことにはずっとムカついてたが、今回ばかりは罠を張ってくれたお前に感謝してる。そうでもないと、ネルがオレのことをイギリス中に叫んでくれるなんて、ありえないだろ?」
「俺も、感謝するぜ……ベラベラと……自供してくれてよ」
アーロンが口角を吊りあげると、ネイサンは上向いて大きな哄笑をあげはじめた。
「その状態で強がっても、無様なだけだぞ」
『同感だな。どうせ無様にゃ変わりねぇんだから、試しにオマエのコリブリ晒しとけよ――ぐっ!?』
眼前に現れた
『テメェ、オレを雑に扱うなっていつも言って――』
ザミュエルが言い終わる前に、黒い本の表紙にあしらわれている、悪魔のような恐ろしい顔のレリーフがカッと大きく口を開けた。金属のような光沢のある材質でできているそれは、本来なら動くようなものではない。それだけにとどまらず、本からは紫電がほとばしりはじめた。
「なんだ、それは」
ネイサンの目には今まで、黒い本自体が映っていない。それがいきなり、紫色の稲妻を伴って現れたことに、ネイサンは瞠目しているようだった。
「手を抜いてたのは、お前だけじゃないってことだ」
黒光りする銃身に、真っ黒なグリップ。すべてが黒一色に染まっている拳銃の、小さなブラックホールのような銃口が、ネイサンに向けられた。
「気分よくなってくれないと、自供なんてしてくれなかっただろ? まぁ、思ったよりキツかったが」
はじめのほうに邪視を受けた腕の刻印は、すでにほとんど消えかかっていた。もっとも、背中に重いものがのしかかっているような感覚はいまだに身体を蝕んでいたが。この程度の苦痛、殺された彼女たちに比べればなんのことはない。
アーロンは、ネイサンの足もとに視線を落とした。本来なら、この男が履いているはずのない、四つ葉のクローバーがあしらわれた革靴が目に映る。
自分の死が、自分を殺した人間を追い詰めるではなく、あろうことか、恋人を犯人に仕立てあげるために利用されている。死後の彼女に意思があるなら、喉が張り裂けんばかりに叫んでいることだろう。
「勘違いするなよ」
喉の奥で響くような重い声が、ネイサンの口からこぼれた。その目には、明らかな怒りの色がにじんでいる。
「お前の思いどおりにオレが動いたとでも? 真実を知ったとしても、お前はなにもできない。己の無力さを呪いながら死んでいく。そのために話してやったんだ」
ネイサンの瞳から、緑色の火花が散った。
「Burst 55〝
ネイサンの顔がふたたび魔力の炎に覆われたその瞬間、アーロンが構えた銃から、竜の咆哮のごとき轟音と衝撃波が撃ちだされた。周囲の木々が大きくざわめき、衝撃により銃を持っていたアーロンの腕は空を向く。衝撃を受けたネイサンの顔を覆っていた緑色の魔力は、突風にあおられた炎のように一瞬で消え去った。
あらわになったネイサンの素顔は、目を見ひらいたままで固まっていた。
「お前の話を聞く限り、コリンズはお前が監禁なりしてるな? ネルを襲うとき、彼がべつの場所で目撃されでもしたら計画が台無しだからな」
ネイサンは表情を歪ませ、奥歯を噛み鳴らした。目の奥からは魔力の炎が噴きだす。それとほぼ同時だった。ネイサンの足もとで、爆炎が炸裂する。
「ぐぅッ……!」
相手が怯んだ隙を見て、アーロンは即座に背後を取った。黒光りする銃口を、ネイサンの後頭部に向ける。
「終わりだ、ネイサン」
「殺すのか? オレを」
「殺す? 殺す理由がどこにある。お前がやるべきは死ぬことじゃない。きっちり法の裁きを受けることだ。今ここで、簡単に幕をおろしてもらえると思うな」
アーロンのその言葉に、ネイサンの肩が震えはじめた。くぐもった笑い声が漏れはじめ、すぐに大きな哄笑へと変わっていく。
「おなじ台詞を、お前は言えるのか? 恋人を殺した犯人を見つけ、こうして銃口を突きつけたときに!」
銃を持つ手が、ピクリと動いた。
「綺麗事を言うなよ! 結局お前も俺とおなじだ!
叫ぶと同時に、ネイサンは勢いよく振り返った。その目は爛々と輝き、緑色のオーラが爆炎のように噴きだす。が、アーロンはその瞬間身をかがめ、ネイサンの視線から身体を外していた。そして、ネイサンのみぞおち目がけて肘鉄を叩きこむ。
「ごぉっ――!?」
嘔吐のような音とともに、ネイサンは数歩後退した。呼吸困難に陥ったのか、唾液をだらだらと垂らしながら膝をつく。
「クソッ、クソ――クソ、クソ! オレをナメた目で見やがって! 殺す! 絶対に殺してやる!」
その目は血走り、額には血管が浮き、およそ常人の容貌ではなくなっていた。このままでは、身体になんらかの悪影響が出てもおかしくない。
「いい加減に――」
あきらめろ、とひらきかけていたアーロンの口が止まった。
シューシューと蛇の威嚇のような歯擦音を発していたネイサンが、急に胸をかきむしりはじめたかと思うと、地面をごろごろとのたうちまわりはじめた。
「ごっ――おぉぉおおおォォアァァ――ッ!」
人はあんなにも口を大きく開けることができるのだろうか。
不意に、そんな場違いな感想が浮かんでしまうほど異様な光景だった。これでもかとひらかれた口から、人間のものとは思えないような絶叫がほとばしる。刹那、ネイサンの身体が大きく痙攣し、沈黙した。だがそれもつかの間、その胸が大きく跳ねた。そして、ゆっくりと、倒れた操り人形が糸で吊りあげられるような不自然な動きで、ネイサンは起きあがった。
「だカラ、さっサとカラダを明ケ渡セと言ったンダ。ワタシならスグに殺しテやると」
普段のネイサンとは異なる、妙に訛りのきつい声が響いた。同時に、アイマスクのように顔を縛っていた鎖を、今度はたやすく引きちぎる。その下にあった両目は、綺麗な緑色に染まっていた。
瞠目しつつも、アーロンは咄嗟に銃を構える。銃口に赤い魔力が凝集した瞬間、ネイサンが蛇のようなしなやかな動きでアーロンに向かって突進してきた。
「――ッ!」
「遅イ」
銃口の魔力が解き放たれる前に懐へ潜りこまれ、弾丸のような掌底を右肩に浴びせられた。身体が宙に浮き、後方へ吹っ飛ぶ。
『オイ!』
声を荒げたザミュエルに、アーロンは〝うるせぇ〟と短く返して立ちあがった。衝撃で脱臼した肩を無理やりはめこむ。一瞬鋭い痛みがほとばしり顔が歪んだが、幸いうまくはまったようだ。ゆっくりと肩をまわし調子を確認する。実弾射撃であれば射撃のたびに反動で痛むところだが、低級の魔導ならなんとかなるだろうと判断する。
「テメェ、ネイサンじゃねぇな」
「さァ、どウかな」
彼の返事はあいまいだったが、ネイサンの自我が憑いていた悪魔に呑まれたことはすぐに理解できた。
悪魔憑きはその呼び名のとおり、その身の
ただ、悪魔はヒトにとり憑くことで実体を得たことになり、その主導権を握ることで本来持っている力を発揮できるようになる。物や動物にも憑けるが、感情豊かな生物であるヒトが、悪魔にとっては最も魅力的な宿主であり、肉体を奪い取らんと悪魔はさまざまな甘言をもってヒトに取り入ろうとする。憑りついた宿主が破滅の道に堕ちたとき、それが悪魔にとって極上の瞬間であるらしい。
悪魔に憑かれた者が精神に異常をきたし奇行に走るのは、本人の自我と悪魔がそれぞれせめぎ合っているためらしく、自我を手放さずに人格の主導権を握ることが、憑りついた悪魔に打ち勝つためのひとつの方法だった。
負けてしまったら最後、表に現れる人格は悪魔のものになる。
今のネイサンのように。
もとに戻すには、ふたたび主導権を握るほかない。
(見ていていい気はしねぇな)
今まで、悪魔憑きには何度か対処してきたが、誰もが必死で悪魔に抗い、その結果奇行に走ってしまうような人がほとんどだった。最初からしっかりと自我を保っていた悪魔憑きが、悪魔に人格を乗っ取られるその瞬間を目の当たりにするのは、今回がはじめてだ。
自分も気を抜けばああなってしまう存在であるということを、まざまざと見せつけられている気になってしまう。
とにかく、人格がもとに戻るかどうかは、本人の精神力にかかっている。それを手助けするとなると、無理やり昏倒でもさせて悪魔の意識を削ぐしかない。
「あまリのんびリしている時間ハなイナ」
ネイサンが身に着けている腕時計に目を落とし呟いた。そして、ゴキリと首を鳴らす。
「ワタシにはまだやるコトがある。ダラダラとオマエにかかずらっている暇ハ――」
カチリ。
トリガーを引くかすかな音とともに、アーロンが持っている銃から一条の白い稲妻が撃ちだされた。その雷光は目にも止まらぬ速さで、ネイサンめがけて一直線に突き進む。そして、彼の肩を貫かんとする瞬間、ネイサンは無理やり関節を外すような奇妙な動きでそれを躱した。直撃しなかったことをアーロンが認識したときには、ネイサンはすでにこちらへ向かって駆けだしていた。
このままでは、先ほど掌底を食らったときの二の舞になる。アーロンは狙いを定め、ビームのような稲妻を連射した。が、ネイサンは急制動しながらジグザクに動き、さらには飛び退いて攻撃を躱す。生身の人間がやっているとは、にわかには信じがたい動きだった。
『ヘタクソが! テメェそれでもオレサマの力を得たニンゲンか!』
「うるせぇ、お前の権能とやらがポンコツなんだろ! なにが百発百中魔弾の悪魔だ!」
頭上から降り注いだ悪罵に、アーロンは負けじと言い返す。視線と銃口だけはしっかりとネイサンに向けられていたが、アーロンの意識がほんの少し逸れた隙を見逃さなかったネイサンは、一瞬でその距離を詰めてきた。
撃ちだされた稲妻は、ネイサンの頬を掠めて虚空へ消えていく。これでもかと口角を吊りあげたネイサンは、突きだした手でアーロンの顔面をつかみ、そのまま押し倒した。奇しくも、先ほどと立場が逆転した形になる。
「さァ、邪眼の力に溺レテもらおうカ」
ネイサンの両目から緑色の魔力が噴きだした。顔面をつかまれているアーロンはなんとか両目をつぶろうとしたが、こめかみに食いこむネイサンの指がそれを許さない。視界が緑一色に染まり、つづいて白く明滅しはじめる。
「人ノ子よ、絶望に身をすり潰すがイイ。その短イ軌跡の中二、どれだけノ闇があるか……期待はできそうにナイがナ」
ネイサンの下卑た哄笑が響き渡る。その声がどんどん遠くなっていき、アーロンはついに意識を手放した。
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