18. 邪眼 - Evil Eye -
〝邪眼〟
魔眼、邪視とも呼ばれ、悪意を持って対象を睨みつけることで呪いをかける魔力やその働きのことを指す。言葉には力があるとされるように、嫉妬の視線は特に、他者へ悪影響を及ぼすと古くから信じられてきた。特に、地中海沿岸域で信仰が厚く、南ヨーロッパや中東では、青い瞳を持つ者は邪視によって人々に呪いをかけることができると恐れられていたらしい。
その目に見つめられた者は石と化すという伝説があるギリシャ神話のゴルゴーンや、目を見ひらくだけで多数の敵を打ち倒すケルト神話のバロール、邪眼の天使として名高いサリエルも、見ただけで対象の身動きを封じたり、死に至らしめる強大な力を持つとされた。
見たものに呪いをかけるという点では、ネイサンの力はまさしく邪眼そのものといっていいだろう。だが、アーロンのそばで浮いている黒い本は、呑気にあくびのような音を立てた。
『魔界から現世へ邪眼のバーゲンセールでもやってんのか。なんにせよ、麻痺させる程度の力しかないなら、オマエのコリブリを晒す必要もなさそうだ。よかったな、粗――』
ザミュエルがすべてを口にする前に、アーロンはその表紙を右手の甲で思いきりぶん殴った。利き腕による打撃ではなかったが、ザミュエルはカエルの鳴き声のような音を出し、くるくると飛んでいく。
たしかに、古代ローマなどでは邪視から身を守るために、老若男女問わず男根を模した装飾品を身に着けたりもしていたらしいが、そんな俗説で本物の邪眼を防げるという思考には至らない。
『なにしやがんだボケ!』
「テメェを邪眼除けに使ってもいいんだぞ」
舞い戻ると同時に声を荒げた黒い本をがっしりとつかみ、アーロンはドスの利いた声を発した。
「まさか、お前も……」
ネイサンが胡乱げな声をあげる。
「ようやく理解できたか? 今までのようにはいかねぇぞ」
最初こそ、認識阻害を使い、ネイサンから知覚されないようにすればいいと思ったが、認識阻害は悪魔憑き――魔力を行使する者には効き目が薄いということを失念していた。光学的な作用で物理的に姿を消すような術ではなく、魔力により発動圏内にいる者の脳に作用し、五感による認識を損なわせる術らしく、魔力を持つ者に対しては、互いの魔力が競合して効き目が半減する。
認識阻害だけに限らず、魔力によって人体に影響を与える力は、悪魔憑きには効果が薄まってしまうらしい。もしかしたら、ネイサンの邪眼もアーロンには効き目が悪く、患部が麻痺したような感覚、という程度で済んでいるのかもしれない。とはいえ、もしそうだったとしても、見るだけで相手に悪影響を及ぼす力を持つ者相手にだらだらと時間を与えるのは愚行以外の何物でもない。
ネイサンへのジャミングのためではなく、無関係な第三者が介入してこないようにするための認識阻害と、ほかの悪魔憑きに感づかれないようにするための魔力遮断壁を展開してから、アーロンは左手を構えた。
「覚悟はいいか」
構えた手のひらの上に、真っ赤な炎の球が浮かびあがる。
「Burst 34〝
ネイサンが瞠目するより先に、アーロンは腕を薙ぐように振った。
手のひらの中にあった炎の球が、扇状の一閃となってネイサンに襲いかかる。
反射的に身を翻していたようだが、拡散した炎を完全に躱すことはできなかったようで、焦げた衣服を纏ったネイサンが暗闇の中から姿を現した。
「先に言っておくが、次は服が焦げるだけじゃ済まないからな」
「く、く。お前の能力は、魔法みたいにずいぶん派手でカッコいいんだな。だが――」
ネイサンの両目に、緑色のオーラが宿る。視線による攻撃が来るとわかっていながら、アーロンはまっすぐネイサンに向かって駆けだした。
目を合わせることが、おそらく邪眼の効力が最も発揮される条件だ。ネイサンの胸の辺りに視線を固定し、そのまま突進する。
「馬鹿がッ、躱そうともしないで――」
ネイサンが吠えたと同時に、アーロンは前頭部に鈍痛を感じた。だが、動きを制限されるほどではない。少しも足を緩めず、ネイサンの懐に肉薄する。
「ッ――!」
思いきり振りかぶった左拳で、ネイサンの右頬を殴り飛ばした。頭部を揺らした衝撃に、ネイサンは堪らず倒れ伏す。
『オマエ、額に第三の目が開眼してるぜ』
つまらなそうにしていたザミュエルが、ヒャハハと笑いながら声をあげた。
鏡がないため確認のしようがないが、おそらく邪眼の刻印が額に現れたのだろう。絶えず頭に響いている痛みは、邪視の呪いだと考えられる。だが、伝承にあるような強力な力ではない。その答えは容易に想像できた。
「あきらめろ。お前の力は俺には通用しない。痺れと頭痛を引き起こすのがせいぜいの力を、呪いとは呼ばないだろ」
倒れているネイサンを仁王立ちで睥睨し、アーロンは冷たく言い放った。明らかに見下しているその態度に、ネイサンの表情がわかりやすく歪む。
「一発殴っただけで優位に立ったつもりか……ずいぶんナメた真似をしやがる!」
ネイサンの両目から、緑色の魔力が噴きだす。が、邪眼の力が届く前に、その両目を覆うように、アーロンの左手がネイサンの顔面をつかんだ。
「がッ、あッ……!」
猛禽の鉤爪のごとき指が、ネイサンのこめかみに食いこんでいく。当然、彼はアーロンの腕をつかみ抵抗したが、アーロンは顔をつかんだ手を離さなかった。
「さぁ。全部白状してもらおうか。その靴とその能力を持っていながら、この期に及んでシラを切るなんて真似はしねぇよな?」
指のあいだから、炎のような緑色の魔力が漏れる。左手にジンジンと燃えるような痛みが走ったが、我慢できないほどではない。
「お前は、喫茶店で俺の話を聞いたときに気づいたんじゃないのか? おなじ邪眼を持っている男が女性を襲ったと。どれだけ本気になったかは知らないが、そのときに罪を被せることを思いつき調査を開始した。そして、男の正体、不倫関係まで突き止めた」
身を捩り抜けだそうとするネイサンを押さえつけながら、アーロンは自論を振りかざした。
「男が最初の被害者と同僚だったのは偶然か? まぁどちらにせよ、その事実はお前に味方した。警察の目を自分から逸らさせるにとどまらず、不倫関係のもつれにより犯行に及んだと誤認させることもできると考えた。アンナ・ブリースを殺害後、遺体に手を加えたのは、彼女が犯人にとって大きな意味のある人物だと思わせるためだろう」
鉄骨と木板で作りあげた十字架に磔にする。遺体の損傷もひどいものだった。誰が見ても、被害者の女性を断罪するという強い意思が見て取れるほどに。
「手口が似ている事件のうちふたつが同一犯となれば、事件の解決を急ぎたい警察は、手口の同一性から無理やり最初の事件とも結びつけるはずだ。コリンズの血液型がO型かどうか、そんなものは鑑定結果に不備があったとでも押し通して、無視するるかもしれない」
夜の空気が冷えていく。
どこからか立ちこめてきた霧が深まっていく。
「そう、見越してたのか?」
ネイサンはうめくばかりで答えなかった。代わりに、手の下から覗く口の端が、大きく吊りあがる。それを見て、アーロンは舌を打った。
「警察をナメるなよ」
地を這うような重い声が
「俺ひとりでも想像がつくんだ。これくらい、警察ならすぐにたどりつく。お前とほかの被害者たちとの関係もじきに突き止めるはずだ」
ネイサンの抵抗は、少しずつ弱まっていった。指のあいだから漏れていた緑色のオーラが小さくなり、ついにはアーロンの腕に爪を立てていた手もだらりと地面に投げだされる。
「お前が一連の事件に躍起になってた理由はただひとつ。社会部の記者という立場を利用して、警察の捜査がどこまで進んでるのか逐一確認しておきたかったからだ。犯人が犯行現場に戻りたがる心理とおなじだよ」
推測でしかないことを、アーロンはさも断定するかのように話をつづけた。完全に抵抗の意思を失ったネイサンを見おろして、顔面をつかんでいた指の力を少しだけ弱める。
「けどな、警察が部外者に、そう易々と重要な情報を渡すわけねぇだろ。お前が思っている以上に捜査は進んで――」
瞬間、ネイサンがアーロンの腕を振り払い、消えかけていた両目に宿る魔力を再点火した。霧にけぶる暗闇の中で、強烈なフラッシュが焚かれたような光がほとばしる。
アーロンは反射的に目を守るべく、腕を顔に翳し防御に徹した。その隙に、ネイサンは蛇のような動きでアーロンから距離をとる。
「まさか、この期に及んでオレを警察に突きだせるとでも思ってんじゃねぇよな!」
「お前のほうこそ、俺から逃げおおせるとでも思ってるんじゃないだろうな?」
少しも焦りのにじんでいない、アーロンのその声色と言葉が癇に障ったのか、ネイサンは表情を歪ませた。
「どいつもこいつも……自分のほうが優れていると思いこんでいる愚図しかいない。本当に反吐が出る」
吐き捨てるように言い、ネイサンは自分の襟に手を突っこんだ。引っ張りだされたその手の中にあったのは、奇妙な形をしたペンダント。それを目にした
『ありゃあ……チンチンナブルムじゃねぇか!』
「あぁ?」
聞きなれない言葉に、アーロンは眉をひそめる。
『邪眼から身を守る護符を、なんで邪眼の悪魔憑きが持ってるんだ?』
邪眼を防ぐお守り。
その言葉で、アーロンはそのペンダントの意匠がなにを模したものかを察した。
『つーか、あの野郎ずっと首から汚ぇモン提げてたってことかよ! ぎゃははははっ、どんなシュミしてんだ!』
ザミュエルが頭上でゲラゲラと笑う。その不快な声に意識が奪われていたそのとき、バキリ、という異音が耳をなぞった。ザミュエルに向けていた意識をネイサンに戻す。アーロンの眉間に刻まれていたシワが、さらに深まった。
ガリッ、ザクッ。
目に映ったのは、おぞましい笑みを浮かべてお守りを噛み砕くネイサンの姿だった。硬い素材でできてらしいアクセサリーを無理やり咀嚼したせいか、彼の口からは赤い鮮血がだらりと垂れる。
ザミュエルが〝ヴォェ〟と大きく嘔げる音を出した。やがて、ネイサンの喉仏が大きく上下した。ペンダントの装飾部を完全に嚥下したらしい。
「なんの――」
つもりだ、と言いかけた瞬間、ネイサンの両眼から深い緑色の魔力が噴出した。
今までは、仮面舞踏会で着用するベネチアンマスクのように、緑色の炎のごときオーラが目の周りを覆うだけだったが、今度はそれが顔全体を覆っていた。見るからに、今までとは様相が違う。うなじの辺りがチリチリと焼けつく感覚に襲われる。焦燥感にも似たその感覚に突き動かされ、アーロンは左手を突きだした。
構えた手のひらに、真っ赤な火球が浮かびあがる。解き放たれたそれは、アーロンとネイサンのちょうど中間に着弾し、ぼんっという爆発音とともに、激しい閃光を散らす。
そのわずかな時間のあいだに、アーロンはネイサンの側面をとっていた。爆発に気を取られ、真横で次弾を構えているとは思いもしていないだろう――という予想は裏切られ、ネイサンは首だけをこちらへ向けていた。
緑色の仮面を被っているようにしか見えないその顔が、下卑た笑みを浮かべているように見えたその瞬間、ドッ、と不可視の衝撃に襲われた。
「がッ――!」
心臓を握りつぶされていると錯覚しそうなほどの胸の痛みに、アーロンは両膝をついた。痺れという言葉で済む苦痛ではない。全身から玉のような脂汗が浮かび、大きく肩で息をする。だが、酸素がうまく吸えない。呼吸のたびに、胸に鋭い痛みが走った。
一歩、ネイサンが足を踏みだす。胸を掻き毟りながらも、アーロンは立ちあがろうとした。瞬間、踏ん張ろうとした足が抜けるような感覚に襲われ、無様にも地面に倒れ伏す。
「オレの力で這いつくばる気分はどうだ? オレが手を抜いてるなんて、夢にも思ってなかっただろう」
『なるほど、あれは枷か。ただの下品なアクセサリーじゃなく、れっきとした
立ちあがれないままゼェゼェと息を荒げているアーロンの頭上で、ザミュエルが呑気に口をひらいた。しかし、今のアーロンにはそれに苛立つ余裕もない。
いつのまにか、ネイサンがすぐそばに立っていた。目からあふれでていた魔力は鳴りを潜め、ネイサンの顔が露わになっている。彼はうつ伏せのアーロンを睥睨し、話をつづけた。
「これで互いの目を合わせたら、どうなると思う?」
「さぁ……なッ!」
アーロンは左手の中指を爪弾きした。押さえていた親指のコックを解放した反動で中指が跳ね、その弾かれた指の先から、小さな衝撃波が放たれる。目には見えない空気の弾丸がネイサンの額に直撃し、首が後方に折れ曲がった。
常人なら、身体ごと宙に浮いてもおかしくない衝撃だ。それが、身体は微動だにせず、首だけが倒れたというのは、驚きを通り越して不気味だった。
「そう死に急ぐな――よッ!」
案の定、ほとんどダメージを負っていないようで、ネイサンはガバッと首を起こし、うつ伏せになっているアーロンの背を睨みつけた。ボッ、と爆発のような魔力が目からほとばしる。
「ぐぅッ――!」
その瞬間、アーロンは背中が押しつぶされるような感覚に襲われた。
「このまま、放っておけばお前は死ぬ。どうだ? 死の淵にいる気分は。恐ろしいか?」
頭上から、軽快な声色が響く。地面に倒れているアーロンの視界には、革靴にあしらわれた四つ葉のクローバーが映っていた。アンナ・ブリースが最期に見た光景と、おそらく、おなじ。
被害者たちは皆、男勝りで気が強い女性だった。もちろん、それが外面に限り、内面は繊細で臆病な性格だったということもありえるが。そんな彼女たちが、抵抗の痕跡を一切残さないまま凌辱され、殺害されたという事実は不思議だった。
だが、それも今なら理解できる。
「こうやって、被害者たちを手にかけた……! 邪視に侵せば、手足を縛る必要も、クスリも酒も使わずに動きを封じられる!」
なんとか顔だけを起こし、アーロンはネイサンを睨みつける。
一方、ネイサンは余裕の表情で口角を吊りあげた。
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