雛ちゃんとユキちゃん

 闇の中、誰かに顔を撫でられている。

 ユキちゃん、ユキちゃん、と鈴を振るような声が降る。聞いていると心が締め付けられる。名前を呼ばれたらどんなだろう、と仕様もないことを考えて、それが思い出せないことにふと気づく。


 ――私の名前はなんだっけ。


 刺された腹部は手当てがされている。

 寝ている場所は布団の上で、清潔な寝間着を着せられているし、おぼろげな意識で医者や婆らしき人々に身の回りの世話をしてもらった記憶もあった。

 上体を起こすと、腹の傷が痛んだ。

「――ありがとう、雛ちゃん。そばにいてくれたんですね」

 目を開けて小さな手を取ると、やわらかくしっとりとした肌の向こうにかぼそい骨の感触があった。

 ずいぶん小さな手だと思っていたが、見てみればそれも当然で、今度の雛子は幼子だった。

「いつからここにいたんです? 一人で寂しかったでしょう。お腹は空いていませんか」

 つい、小さな子供に話しかけるふうになる。

 下限は確か七歳だったはずだ。

 それより下では雛子になれない。しかし、たとえ七歳よりは上だとしても、いくらなんでも早すぎる。いったいどこから連れてきたのだろう。そろそろこの仕組みも限界か――と、伯父が聞けば憤死しそうなことを思う。

 雛子はこちらの目をじっと見て、何も言わない。

 急に両手を動かして、影絵を作るような身振りをした。こちらが戸惑っていると、かわいらしい眉を少しひそめてもう一度同じしぐさを、前よりもゆっくりと繰り返す。手話のように見えるが、知っているものとは異なる。この子独自のものなのかもしれない。


 前の雛子がどうなったか知りたかった。

 鈴を振るような声で笑う、私の大事な宝物。


 口がきけるのか、きかないだけなのか、いずれにせよこの幼い雛子に聞く気にはなれなかった。抜けるように色の白い子供だ。長く伸ばした黒髪が半分顔を隠している。何かを伝えようとしているらしい動きに私が反応できないでいると、苛立ったように頭を振った。さらさらの髪が跳ね踊る。顔まわりをそっと掻き退けてやると、うつくしい顔立ちで睨んでいる。幼い子供とはこういうものなのか、それともこの子の気質なのか、今度の雛子はなかなか我が強そうだと思う。癇癪を起こしたりはしないだろうか。考えるだけで恐ろしいことだ。

 じきに馴染んでいくのだろう。

 私が名前を忘れかけているように、いずれ役割に落ち着いていく。前の雛子がどうなったのか知りたい。代替わりしたのだから無事ではないが、せめて苦しまずに済んだのかどうかだけでも知りたかった。

 ごめんなさい、と髪を整えてやりながらつぶやく。


 雛ちゃんが何を伝えたいのか、まだ、私にはわからないんです。

 これからちゃんと覚えます。だから、どうかそんなに怒らないで。きょうはなにをして遊びましょうか。お好きなお菓子はなんですか。


 目を閉じて、前の雛子との記憶を探る。

 雛子はふと大人しくなり、そっと両手を伸ばして、驚いたことに私の頬にひたりと 手を当てた。子供らしい無遠慮さで顔を近づけ、私の顔をまじまじと見つめる。小さな赤いくちびるを動かし、声は出さずに、しかし確かに、ユキちゃん、といった。

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私たちの雛ちゃん 桐谷はる @kiriyaharu

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