ユキちゃんと雛ちゃん

 真昼でも静かで暗い部屋。

 日陰に溶け込むようにして、あの子は外の光を見ていた。咲き誇る手描きの花模様、青白い肌を彩るぜいたくな織物。金と手間暇をたっぷりとかけて飾り付けられた姿はうつくしい。どれほどみじめな襤褸を着ていてもやっぱり彼女はきれいだろう。


 雛ちゃん、と呼ぶとゆっくりと振り向く。

 

 私を見て不思議そうな顔をする。

 つやつやの真っ黒で大きな目。何度も何度も夢に見た、光を吸い込むきれいな瞳。少しだけ不思議そうな、探るような目つきで私を頭からつま先まで見る。

右手に持った包丁を、赤々と濡れた刃先を見る。

「ユキちゃん、袖が汚れてしまったの?」

 声をあげて泣きたくなるのをこらえる。

私のことをまだその名前で呼んでくれるのだ。役目の終わりと同時に取り上げられてしまった名前。腹を刺されて倒れつつ、気丈にも私に手を伸ばした娘が継いでいた名前。

 大切なものをさらう盗人への怒りに爛々と燃える目をしていた。

 とどめを刺そうと思ったけれど、最後の力で噛みついてきそうで、近寄ることができなかった。あの娘と自分は同じだと思う。あの子を守るためなら自分の身など惜しくない。

「そうですよ、ユキちゃんです。あなたのユキちゃんが戻りましたよ」

お醤油のあられはどうしたの?と不思議そうにつぶやく。紅を指さなくても赤いくちびる。赤子のように無垢な肌。

 もちろん、何度か代替わりをしているから、この子は私の知る雛子とは違う。

「ようやく帰ってこれました。ずっと、長い間探していたんです。この家も、あなたのことも。本当に長かった――」

 包丁を床に置く。手についた血をきれいにぬぐう。

 汚れが落ちたのを確かめてから、細い白い手を取ってそっと引く。もしも嫌がるなら、無理強いはしない。

「一緒に来てくれますね」

 引かれるままに立ち上がり、雛子は無心ににっこりする。

「いいよ。ユキちゃんが言うのなら」

 赤い鼻緒の下駄を履かせ、細い肩を抱いて縁側から外に出る。雛子は行き先を尋ねない。こちらを見上げて目だけで笑う。

 町を出て、まずは港へ向かう――船で少しでも距離を稼ぐ。汽車を乗り継いで北の賑やかな土地へ。小さな家を見つけておいた。私とこの子が暮らす家。古いがせめて清潔にと思い、部屋中ぴかぴかに磨き上げた。水あめもたっぷり用意した。

「海を見に行きましょう。大きな船に乗りましょう」

 どこまで行けるかはわからない。

 つやつやの黒い目がこちらを見ている。じっと私を見つめている。

 先のことなど何も考える必要はなかった。そっと小さな手を取ると、薄く滑らかな肌の向こうにかぼそい骨の感触があった。

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