それから教室に入り、俺は昨日の授業に関することを紫乃さんに聞いた。高耶は適当な合いの手を入れているのだが、紫乃さんから高耶に声をかけた時にだけ、あからさまに返事のテンポが悪くなっていた。

「あ、もう時間か。俺は教室に戻るな。じゃ、また後で」

「うん。じゃあねー」

「また後でな」

 クラスメイトが揃い始めた頃、高耶は自分の教室に帰って行った。朝のホームルームまで後五分だ。

 教室に入ってから、横目で確認していたのだが、あの男の姿はなかった。若葉さんの息子のことだ。まだ下の名前を確認できていない。

「あれ、あいつまだ来てないんだな」 

「多分、休みじゃないかな。昨日も休んでたし」 

「え、そうなの? なんで?」

「体調不良だったかな」

 たしかに、あの顔色で体調がいいと言われても信じられないと思いながら、あいつの顔を思い描く。

「そういえば、曽根くんはあの人と知り合いなんだっけ?」

 一昨日のことを思い出したのか、紫乃さんが俺に質問をする。志野さんを怒らせたときの記憶に触れることで、また怒り出すんじゃないかと一瞬不安になったが、問題ないらしい。

 どうやら微塵も怒っていないようだ。

「知り合いっていうか、うーん、正確に伝わるか分からないけど、俺は知り合いだと思ってて、現実には全く知り合いじゃないって関係」

「ふーん、複雑なんだ」

 すでに興味があまりなさそうだ。

「そう。複雑なんだ」

 紫乃さんが教室につけられた時計を見る。ホームルームまで後二分。

 騒がしい教室で、まだ来てないのはあいつだけだ。

「やっぱり今日も休みっぽいね」

 紫乃さんは一時間目の準備をしながら言った。

 その直後、教室のドアが開く。入ってきたのは、窪みに目玉を押し込んだような顔をしたあの男だ。

 教室に入るや、すぐに辺りを見渡した。そして俺の方に向かってくる。

「な、なんだよ」

「なんだよ、じゃないよ。君、曽根君だったよね? ね? この前はごめんね、ね、あのさ、あの、自己紹介がまだだったよね。えっとね、僕の名前は若葉瑞樹。ほら、これね。カバンのここに書いてるだろ。はは。それで君は曽根咲太。咲太くんだろ。知ってるよ。あのさ、えっと、とにかく……」

 矢継ぎ早に若葉さんの息子、瑞樹が喋っている。とても興奮していて唾が飛んでいた。

 押し込んだような目が、落ちてしまいそうなほど見開いている。瑞樹はその調子のままで喋り続けていた。

 チャイムが鳴っていることにも気がつかずに。

「おーい、若葉。なにしてるんだ?」

「え、はい。なんですか。あ、あ、チャイムが鳴ってるんですね。すみません。すぐ戻ります。じゃ、咲太くん、またくるからね」

 そして嵐のように去っていく。隣で紫乃さんが怪訝な表情で瑞樹を見てから俺を見た。優しく笑っているが、なぜか憐れみが感じられた。

 瑞樹の方を見ると、今はやけに静かに外を眺めていた。さっき紫乃さんに感じていたことを思い出す。急激な変化はどこかに無理を生まないかと。

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