エピローグ3 それでも、続いてく
夏の始まりは、音から来る。
蝉の声が、まだ控えめで、
でも確実に季節が進んでいることを知らせてくる。
俺はベランダに洗濯物を干しながら、
空を見上げた。
雲が高い。
風が少しだけ、生ぬるい。
「ねえ、蓮」
背後から声がして、
俺は振り返る。
紗奈が、部屋の中から顔を出していた。
白いTシャツに、少しだけ長いスカート。
特別な日じゃない。
でも、特別じゃない日が増えた。
「なに?」
「今日さ、夕飯どうする?」
その質問は、
未来の話だった。
俺は少し考えてから答える。
「……冷やし中華、もう出てるかな」
紗奈が笑う。
「まだ早くない?」
「でも、夏っぽい」
「じゃあ、買い物行こ」
それだけで決まる。
約束も、宣言もいらない。
玄関を出ると、
夕方の匂いがした。
アスファルトの熱。
遠くの車の音。
知らない誰かの笑い声。
「ねえ」
歩きながら、紗奈が言う。
「最近さ……
夢、見なくなった」
「悪い夢?」
「ううん。
なんていうか……
“誰かを追いかける夢”」
俺は何も言わなかった。
でも、胸の奥で、
小さく何かがほどける。
「……起きるとね」
紗奈は空を見上げたまま続ける。
「起きたとき、ちゃんと今があって……
それが、すごく安心する」
俺は、頷いた。
夢が終わったんじゃない。
必要なくなっただけだ。
スーパーで、
野菜を選んで、
麺を選んで、
タレを選ぶ。
紗奈は真剣な顔で、
きゅうりの太さを比べていた。
「どっちがいいと思う?」
「……右」
「理由は?」
「……なんとなく」
紗奈は少し考えてから、
右をカゴに入れた。
「じゃあ、右」
それでいい。
家に戻って、
二人で台所に立つ。
紗奈が包丁を持つ。
俺はフライパンを出す。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「私さ……」
少し、言いにくそうに。
「……将来のこと、
たまに考える」
「……うん」
「どこで、何してるとか、
ちゃんとは分からないけど……」
紗奈は、きゅうりを切りながら言う。
「……あなたが、隣にいる想像だけは、
自然にできる」
包丁の音が、止まった。
俺は、深く息を吸う。
「……俺も」
それ以上、言わない。
言葉にすると、
未来を固定してしまいそうだから。
夕飯は、少し薄味だった。
「……あ、味足りない?」
「いや……夏はこれくらいでいい」
紗奈は少しだけ安心して、
また箸を動かす。
食後、
ベランダに出る。
夜の風が、
昼よりも優しい。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「名前ってさ……」
一瞬、
心臓が鳴る。
「……やっぱり、大事だと思う?」
俺は考えた。
少しだけ。
「……大事だと思う」
「……でも?」
「……全部じゃない」
紗奈は、
ゆっくり頷いた。
「……うん。
私も、そう思う」
しばらく、
二人で黙って空を見る。
星は少ない。
でも、見えないわけじゃない。
「……ねえ」
「ん?」
「もしさ……
何年か後に……
今日のこと、忘れても……」
紗奈は、
少し笑って言った。
「……それでも、
また一緒に夕飯作ろ」
胸の奥が、
静かに、でも確かに温かくなる。
「……ああ」
忘れるかもしれない。
でも、選び直せる。
それでいい。
部屋に戻る前、
紗奈が立ち止まった。
「……ねえ、蓮」
「ん?」
少しだけ、照れた声。
「……呼んで」
俺は、迷わなかった。
「紗奈」
その音は、
世界を変えない。
時間も戻らない。
でも――
彼女は、確かにそこにいる。
「……はい」
その返事が、
すべてだった。
俺は思う。
大切な人との思い出を失っても、
時間を戻さなくても、
選び続けることはできる。
この世界は、
もう不思議な力を必要としない。
それでも、
ちゃんと奇跡は起きる。
毎日。
名前を呼ぶたびに。
君の名前を呼ぶたび、世界が終わる 遠坂崋山 @natukun77
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