エピローグ2 名前の書かれないカード
市立図書館は、相変わらず静かだった。
入口の自動ドアが開くと、
紙とインクと、時間の匂いが混ざった空気が流れてくる。
「久しぶり」
紗奈が、少し懐かしそうに言った。
「来たことあるのか?」
「……ある、気がする」
そう言って笑う。
“気がする”で済ませるところが、今の紗奈らしい。
俺たちは並んで歩きながら、
何となく奥の閲覧席の方へ向かった。
目的はない。
探す本も決めていない。
でも、迷わなかった。
「ここ」
紗奈が、自然に一つの棚の前で足を止める。
「文学……?」
「うん。ここ、落ち着く」
俺は背表紙を眺める。
タイトルの並びに、理由のない既視感があった。
理由は分からない。
でも、紗奈の隣でこの棚を見るのは“正解”な気がした。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「貸出カードって、今もあるんだね」
紗奈が指さした先に、
古い本の裏表紙が見えた。
透明な袋に入った、紙のカード。
今は使われていないはずなのに、
なぜか抜き取られずに残っている。
「確かに……」
俺は本を手に取った。
カードには、
几帳面な字で並んだ日付だけが書かれている。
名前は――ない。
「……これ、変じゃない?」
紗奈が首を傾げる。
「日付はあるのに、名前がない」
「昔は、名前書いてたはずだよな」
「うん。なのに……」
紗奈はカードをじっと見つめていた。
その表情が、
ほんの少しだけ真剣になる。
「……ねえ」
「ん?」
「私……これ……」
言葉を探すみたいに、間が空く。
「……大事だった気がする」
胸の奥が、静かに鳴った。
「……カードが?」
「ううん。
“名前がないまま残ってる”ことが」
俺は、何も言わなかった。
代わりに、
本を元の場所に戻す。
「……今は、名前あるからな」
紗奈は、俺を見る。
「うん」
それだけで、十分だった。
閲覧席に座って、
それぞれ適当に本を開く。
静かな時間。
ページをめくる音だけが、
ゆっくり流れていく。
紗奈が、突然、声を潜めて言った。
「……ねえ」
「ん?」
「……昔の私って……
どんな人だったと思う?」
唐突な質問だった。
「……どうして?」
「……なんとなく。
気になっただけ」
俺は考えた。
記憶はない。
でも、想像はできる。
「……多分……
今と、そんなに変わらない」
紗奈は少し驚いた。
「ほんと?」
「ああ。
困ってる人を放っておけなくて、
自分より先に誰かのこと考えて……」
言いながら、
俺自身が不思議に思った。
なぜ、こんなことが分かる?
でも、言葉は止まらない。
「……それで……
たまに、自分が後回しになる」
紗奈は、目を伏せて笑った。
「……それ、今の私だ」
俺も笑った。
「だろ」
沈黙が落ちる。
でも、
その沈黙は重くない。
「……ねえ、蓮」
「ん?」
「……もしね……
全部、思い出してたら……」
一拍、置いて。
「……今と、違ってたかな」
俺は、首を横に振った。
「違わない」
「どうして、言い切れるの?」
俺は、少しだけ真面目な声で答えた。
「……思い出してるから一緒にいるんじゃない。
今、一緒にいたいから、ここにいる」
紗奈は、
その言葉を胸の中で確かめるみたいに、
ゆっくり頷いた。
「……それなら……
思い出せなくても……
いいかも」
その言葉に、
ほんの少しだけ胸が締めつけられた。
でも――
それ以上に、温かかった。
図書館を出ると、
夕方の光が街を染めていた。
「ねえ」
「ん?」
「次は……どこ行く?」
俺は、少し考えてから言った。
「……帰るか」
「うん」
並んで歩き出す。
その途中、
紗奈がぽつりと言った。
「……私ね……
名前があってよかったって、
最近よく思う」
「……うん」
「でも……」
少し、間を置いて。
「……名前がなかった時間も……
無駄じゃなかったって……
思える」
俺は、その言葉を噛みしめた。
「……ああ」
それは、
誰かが失われた証じゃない。
選ばれ続けた証だ。
帰り道、
夕焼けの中で、紗奈が笑った。
「……ねえ、蓮」
「ん?」
「明日も、呼んでね」
そのお願いは、
とても静かで、
とても強かった。
「……ああ」
俺は、ちゃんと答えた。
「紗奈」
彼女は、少し照れた顔で、
でも確かに返事をした。
「……はい」
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